5 異世界に何か一つだけ持って行けるとしたら
気が付くと、僕は地面の上に倒れていた。
むせかえるような土と草の匂い。
無数の虫の音が聞こえる
暗い……、暗すぎて何も見えない。
目を開けても閉じても暗いままだ。
起き上がり、顔を上げると空が見えた。
夜空だと言うのに、星々のせいで明るく見えた。
僕は目が見えたことに少し安心した。
それにしても、ここは、どこだっけ?
僕はどうしてこんなところに倒れているんだろう。
頭が少し痛かった。
ぶつけたのかな?
なんだろう……、僕はいま何してたんだろう……。
ここはたぶん……、(少し目が慣れてきた)雑草の上だ。
空き地? 僕はどうしてこんなとこにいるんだろう?
えっと……、えっと……、そう思いながら辺りを見回し、自分の左手の中に何か温かいものがあることに気が付いた。
手?
誰の手?
暗くて顔まで見えない。
僕はそれを確かめるために手の主に顔を近づけた。
見慣れた黒縁の眼鏡が見えた。
美津子?
え? あれ? 美津子? 美津子? 美津子!?
そうだ、「美津子!」僕は思わず声を上げた。
僕は隣で倒れている美津子の肩を揺さぶり目を覚まそうとした。
微かに鼻で息を吸い、美津子は顔を上げて目を覚ました。
「わ、わ、わ、わた……」と美津子が何かを言いかけるのを見て僕は全部思い出した。
「あれっ、あっ!? どうなった? 僕たち、どうなった?」そう言って立ち上がると、美津子もふらふらと立ち上がった。
踏切が、消えていた。
いや、僕たちは電車にひかれ、空き地のどこかに跳ね飛ばされたのだろうか?
でも、いったい……、僕は自分の体を隅々まで確かめた。
血は出ていないか、骨は折れていないか、意識を集中して、どこか痛むところはないかと確かめた。
けれど、体は、ぜんぜん大丈夫のようだった。
美津子も同じで、どこも怪我をしている様子はない。
けれど、あれだけのスピードの電車にはねられて、どこも怪我をしていないなんておかしい。
それに踏切はどこへ行ったんだ?
団地は?
線路は?
電車は?
空き地ではあるが、そこにあるはずのものが何もない。
もしかして僕はいま、とんでもない怪我をして病院のベッドに寝ていて夢を見ているとかではないのだろうか。
でも、なんだか、そんな雰囲気でもない。
明らかにこれは現実だ。
そんなことを考えていると、美津子が僕の腕に触れ、僕が右手に握る携帯を見ろと指をさしてきた。
そう言えば、正人からのメッセージをまだ読んでいなかった。
そう思いながらスマホを見ると、正人からのメッセージが五件に増えていた。
けれどまず、美津子のメッセージを見る。
「ここ、どこかな? 私たち、本当に異世界に来たのかな?」
「異世界? そう言えば……」僕は僕たちが異世界に行く目的で線路に入ったことを思い出した。
「ねえ、きっとそうだよ。私たち、異世界に来たんだよ!」
「まさか……、でもそんな」僕は訝しい気持ちで辺りを見回した。異世界と言われても、こんな雑草の中では、踏切がない以外、元居た場所と変わらない。僕はもう一度スマホを見た。電波は届いている。地図のアプリを開いた。ここは……、ちゃんと日本だ。ちゃんと僕たちが住んでいた街だ。
そこで僕は美津子と正人の三人のグループLINEに正人からのメッセージが届いていることを思い出し、それをチェックした。
「遅れて悪い! 今から行く!」
「おい、公園着いたぞ。どこにいる? もう帰っちまったのか?」
「返事しろよ。二人とも、どうした?」
「おいまさか、お前ら踏切には来てないよな……」
「いまおれ、踏切の前の空き地にいる。警察やらなんかが来てて、中に入れないけど……、お前らまさか、そこにいるんじゃないよな……」
僕は何からどう話していいのかわからなかった。
それよりも、スマホは使えるのか?
夏休みを控えた前の日の会話を思い出していた。
無人島では電波は届かない、異世界だって、スマホなんか使えるかどうかわからないと言う会話だ。
でも僕は今、ちゃんと電波が届いていることを確認したし、地図のアプリを使うこともできた。
だったら……。
そんなことを考えているうちに、美津子が正人に返事をしていた。
「大丈夫だよ! けど私たち、いま異世界に来たみたい。あの踏切で、電車にひかれたんだ」
するとすぐに正人から返事が来た。
「マジかよ、じゃあこの警察とか、きっとお前らを探してる」
「警察がいるの?」
「ああ、パトカーが二台、救急車が一台、いや、パトカーがもう一台来た」
「私聞いたことあるの。あそこで飛び込み自殺した人、時々死体が見つからないって。警察がいくら探しても駄目なんだって。だから運転手の見間違い、ってことにされるんだけど、実は電車のカメラには、ちゃんと飛び込む人の映像が映ってるって」
「なんだよそれ……。けど、そこが本当に異世界だとして、どうしてスマホが通じるんだ? そっちとこっちがどうやって繋がってんだ?」
「わかんない。わかんないけど、だって私たち、地図の上ではちゃんと踏切のあった空き地にいる」
「てことは、そこは日本なのか?」
「そうみたい。でも、周りが雑草だらけで、実際はどこにいるのかわからないの」
「和也は? 和也もいるんだろ?」
「うん、いるよ」僕はLINEに返事をした。
「とにかく場所を変えてみろよ。そこにいても、何もわからないんだろ?」
「そうね、そうしてみる」
僕と美津子は再び手を繋ぎ、歩き出した。
でも途中から、美津子は心細くなったのか、繋いでいた手を引き寄せ、僕の腕にしがみつくようにして歩いた。
まるで僕が急に手を離し、走り去ってしまうのを心配しているかのようだった。
僕はなんだか照れくさかった。
今まで美津子はただの友達で、そんな風に感じたことはなかったのに、なんだか急に美津子が女の子であることを意識してしまった。私服のせいもあったかもしれない。腕にしがみつく美津子の体と僕の間には、美津子の着るティーシャツしかなく、もろに美津子の体の柔らかさと体温が僕に伝わってきた。
そんなもやもやした気持ちを振り払うように、僕は「大丈夫?」と美津子に声をかけた。
美津子は何も言わず頷いて見せたが、その眼はやはり、怯えるように潤んでいた。
僕はそれ以上何もできず、もう何も考えないようにしてひたすら前に進んだ。
鎌を持ってくればよかった。
そんな風に思った。
雑草は高く深く、なかなか前に進めなかったからだ。
「異世界に何か一つだけ持って行けるとしたら、何を持って行く?」
鎌、ではないような気がした。
スマホ?
いや、でも……、物ではないけれど……、「美津子だ」と僕は心の中で言った。