1 三人の絆
「異世界に行けるって噂、本当かなあ?」美津子はズレた眼鏡を直しながら言った。
「んなわけあるかよ、下らねえ」正人が言った。
二人は僕の中学一年の同級生だった。
美津子は小学校に入った時からずっとクラスが同じ、正人も小学校五年からの同級生だった。もともと友達ではあったのだけれど、中学に入って同じクラスになると、さらに三人は仲良く話すようになった。
美津子は少し神経質な子で、ただでさえ痩せているのに髪の毛をぼうぼうに伸ばしているせいで、さらに顔が小さく見えた。いつもうつむき加減で、下から覗き込むように黒縁の眼鏡の奥から人を見た。人と話すのが苦手で、と言うか、中学に上がってから美津子は小学校からの友達以外誰ともしゃべらなかった。人見知り、と言うのとは少し違うような気がした。美津子は初めての相手と何かを話そうとすると、決まってうまく話せなくなった。「わ、わ、わ、わたし、き、昨日、お、お、お、お母さんとイオンに、あ、あ、新しい服を……」と言った具合にだ。美津子はそれを、吃音と呼ぶのだと言った。
「キツオン?」と僕が尋ねると、「そう。緊張しちゃうとうまく話せなくなるの」と美津子は言った。
うまく話せなくなるだけでなく、言葉そのものが出てこなくなるのだとも言った。
「言葉そのものが出てこなくなる」と言う状況がどのようなものか僕には想像できなかったけど、美津子が時々他の人と話をしている時、急に黙り込んで何も話せなくなるのを見て、僕はきっとそれは「言葉そのものが出てこなくなる」せいなのだと思った。
そんなわけで、もう中学になって四か月も立つと言うのに、美津子には誰も新しい友達ができなかった。
正人は小学校の時はどこにでもいる普通の男の子だったが、中学に入ると急に言葉遣いが乱暴になり、先生にも反抗するようになり、後ろ髪を少し伸ばすようになった。スマホを買ってもらい、流行りの歌を聴くようになり、服も大人びたものを好むようになった。一度だけ、クラスの男子と喧嘩をしたことがあった。小学校の時は、一度もそんなことはしなかったのに、僕はその時初めて正人が人を殴るとこを見た。
喧嘩の原因はよくわからなかった。
「なめやがったからだ」と正人は伸ばした後ろ髪を触りながら言った。
それ以来、クラスメイトはみんな正人を怖がるようになったが、僕と美津子にとっては正人は正人、その関係は小学校の時のまま何も変わらなかった。
「ねえ、一度行ってみようよ、踏切」夏休みを三日後に控えた学校の帰り道、美津子がそう言った。
「え、マジかよ」正人が言った。
「まさか怖いの?」
「はあ? 俺のことなめてんのか?」それは正人の口癖のようなものだった。
「私にまでそんな言い方するのやめてよ」
「悪かったよ。和也は?」和也と言うのは僕の名前だ。
「うーん、そうだな。面白そうかも」と僕はそんなに興味が無かったせいで、曖昧な答え方をした。
「マジかよ」正人は制服のシャツのボタンを外しながら言った。
クラスでは乱暴な言動の多い正人だったが、僕と美津子には優しかった。
美津子も美津子で、どんな大人しい相手にもすぐ緊張してキツオンになるくせに、僕と正人と三人になると、他の人が聞いたらびっくりするほど思ったことをずけずけと言った。僕自身がどうかと言うと、僕はまあ、どちらかと言うと目立たないダメ生徒だ。成績は悪い。勉強で面白いと思える教科なんて一つもなかった。体育もダメ、美術もダメ、音楽もダメだった。何にも興味がなかった。でもそれが悪いとも思わなかった。学校へは、ただ正人と美津子に会いに行っているようなものだった。考えてみれば、僕も中学になって新しい友達などできてはいなかった。三人でいればそれでいいや、そんな感じだった。
こんなちぐはぐな三人だったけれど、一緒にいるのが楽しかったし、ただそれだけではなく、いつしか絆のようなものが三人を繋げているような気さえした。
三人がそれほど仲良くなるには、きっかけのようなものがあった。中学になって一か月ほど経ったときのことだ。英語の授業中、美津子が女の先生に教科書を読むよう当てられた。美津子はクラスの中でも頭がいい。小学校の時からテストがあるとだいたいどれも三位内に入った。そんな美津子も、教科書を読むのは苦手だった。声を出さないといけないからだ。そしてその時美津子は、先生から少しイラついた様子で「佐賀さん、もう少し大きい声で読んでくれる?」と注意された。佐賀と言うのは、美津子の苗字だ。美津子は人の気持ちや雰囲気に敏感なとこがある。その時は先生のそのひと言で緊張してしまい、それ以上教科書を読むことができなくなった。
「どうしたの? 佐賀さん? まだ終わってないわよ? 続きを読んで? 授業が終わっちゃうわよ?」先生に執拗に言われれば言われるほど、美津子は縮み上がって読むことができなくなった。やがてクラスからクスクスと笑い声が上がるようになった。僕はその笑い声が嫌いだった。僕は何をしても失敗することが多かったのでよく笑われたからだ。だから美津子がどれほど嫌な気持ちになっているかわかったし、友達の美津子が笑われていることは自分自身が笑われているより気分が悪かった。
そんな中、突然教室に「ガタンッ!」と大きな音が鳴った。正人が何の前触れもなく自分の机を蹴り飛ばしたのだ。クラスは一瞬にして静まり返り、みんな正人に注目した。先生ですら、わけがわからず唖然として口をつぐんだ。
きっと誰もわからなかっただろう。その時なぜ正人が机を蹴り飛ばしたのか。
けれど僕にはわかった。正人もきっと、美津子が馬鹿にされたように笑われるのが我慢できなかったのだ。そして美津子に集まる嫌な視線を、机を蹴り飛ばすことで自分に向けさせたのだ。
クラスのクスクス笑いは治まったけれど、今度は正人を中心に嫌な空気が漂った。誰も何も言わなかった。まるで腫れ物扱いだった。
だるまさんが転んだをしているように、誰も物音一つさせず動かなかった。
数十秒の時間が流れて、やはり最初に動こうとしたのは正人だった。
僕にはわかった。正人は立ち上がってこの教室を出て行こうとしている。自分が悪者になろうとしている。けど悪いのは正人じゃない。正人は出て行くべきじゃない。負けを認めるようなものじゃないか。悪いのはこの教室にいる奴らなんだ。美津子を笑ったこいつらなんだ。美津子を追い詰めたあの女の先生なんだ。だから正人は悪くない。正人を止めなくちゃ。正人を出て行かせては駄目だ!
僕はそう思った瞬間、正人より先に立ち上がっていた。
急に立ち上がったものだから、椅子が後ろの机に当たって「ガタンッ」と音をさせた。
その音に驚いて、今まで黙ってうつむいていた正人も僕を見た。
その後どうするか考えていたわけではない。
ただ僕は、美津子なんかよりまったく英語は読めなかったのだけれど、美津子の読めなかった英文を、震える手で教科書を開きながらしどろもどろに読んでいった。
放課後、正人は大笑いしながら僕に話しかけてきた。「お前、急に立ち上がってびっくりするじゃねーか!」
「最初に机蹴り飛ばしたの正人だろ?」僕も笑いながら言った。
「それになんでそのあと教科書読むんだよ」そう言うと正人はさらに笑い声をあげた。
「なんなのよ二人とも、恥ずかしかったじゃない!」そう言いながらも美津子も笑いの中に入ってきた。
三人の仲が急に深まったのはそれからだった。
退屈な放課後、どうせ行く当てなんてどこにもなかった。
誰が賛成したわけでもなく、自然と三人の足は踏切の方へ向かっていた。
夏の日差しは放課後になってもまだ高かった。
「どうせなら夜になってから来た方がおもしろいんじゃないか?」
「正人はいつも強がり言って」
「でもやっぱ肝試しは夜に限るよ」
「肝試しなのか?」
「まあ、ある意味そうよ」
実は踏切の場所を知ったのは、中学に入ってからだった。噂もよくは知らなかった。踏切は隣の小学校の学区にあったので、中学になり、隣の小学校と合同になってから詳しく知るようになったのだ。
「踏切まで行ってどうするんだよ」正人が言った。
「異世界に行けるって噂だよ?」美津子が言った。
「そんなの本気で信じてるのか?」
「わかんないけど、あった方が面白いじゃない」
「けどそれどうやって行くの?」僕は尋ねた。
「わかんないけど、ある条件がそろった時に踏切を渡ると、異世界に行けるって雅代が話してた」
「ある条件ってなに?」
「わかんない。誰も知らないって」
「なんだよそれ。電車が来た時に渡れば行けるんじゃねーか?」正人は美津子を怖がらせるように言った。
「それで行けるのは異世界じゃなくてあの世だよ」僕がそう言うと正人は大声を上げて笑った。
踏切へと続く空き地が見えてくると、まずその道の入り口を探さなければならなかった。空き地は子供が作ったような木の柵でいい加減に塞がれていた。三人で柵の隙間を見つけて中に入り込んだ。
柵に沿って歩いていると、「これじゃね?」と言って正人がその道を見つけた。と同時に、高く生い茂った雑草の向こうから、突然踏切の音が聞こえてきて三人は飛び上がりそうに驚いた。雑草は話に聞いていたより深く茂り、中には二メートル近くもあるような草もあり、壁のように行く手を塞いでいた。
「どうやって進むんだよ……」正人が言った。
「なんだか怖い」
「やっぱそうだろ?」
「また今度にしよう」僕は言った。
「今度って、それでどうするんだよ」
「うちに鎌があるよ」美津子が言った。
「カマ?」
「おじいちゃんが庭の草を刈るのに使ってた」
「美津子そんなに行きたいのか?」
「うん、興味ある」
美津子は神経質で普段はどちらかと言うと内気で臆病なのだけれど、今回は何のスイッチが入ったのか頑なに主張を曲げなかった。
「どうせなら夜に来ようぜ」
「一番怖がるのは正人のくせに」
正人は美津子を怖がらせて思いとどまらせようとしたのかも知れないけれど、逆にその言葉で引っ込みがつかなくなってしまったようだった。
「俺はどっちでもいいよ。美津子がそう言うなら夜で決まりな」
「僕もいいけど、美津子、夜に遊んだりできるのか?」
「うちは大丈夫。お母さんは夜仕事だし、おじいちゃんは早くに寝ちゃうから」美津子の家は、お母さんとおじいちゃんの三人暮らしだった。お母さんは看護師をしていて、月の半分は夜に働いていた。
「おじいちゃん、何時ごろに寝るの?」僕は聞いた。
「うーん、九時には寝てると思うよ」
「じゃあいつにするんだよ?」
「明後日の夜は? 次の日から夏休みだし」
「いいね、それ!」美津子は賛成した。
僕と正人も、それでいいと言って約束した。