9 鬼退治
「やなこった。それになんで俺が来た道を戻るような真似しなくちゃいけねーんだ。それにな、俺だってこう見えて忙しいんだ。これから村の鬼退治に行かなくちゃいけねーからな」スサノオは木々の間に差し込む陽の光を見上げながら言った。
「鬼退治?」
「ああ、そうとも。山を下ったとこにある村に鬼が出るらしい。直接悪さをするわけじゃないが、どうやらその鬼の出た村には病気が流行って全滅しちまうらしい。俺はその鬼を退治しに行く。なんだったらついてくるかい。そのなんだ、お前さんの女を助けるにしても、どうやって化け物を退治していいやらお前さんだってわからんのだろう」
夜に見た時は、口数の少ない静かな男だと思ったが、今はなんだかやけに饒舌な男になっていた。
「どうするよ」
どうするよ。僕はその言葉をもう一度頭の中に繰り返した。
どうするよ。スサノオについて行くかどうかの問題ではない。
どうするよ。どうやって平城京に向かえばいいのか、どうやって美津子を探し出せばいいのか、どうやって美津子を助け出せばいいのか、まったく答えが思い浮かばないのだ。
「どうした、考え込んで。どうせお前さんみたいな無力なガキじゃ、なーんもできやせん。とりあえず俺について来い」
村に着いたのは日が傾き始めた頃だった。
藁ぶきの丸い古びた家がいくつかならんでいた。
家の前に立ってこちらを眺める女や子供を見かけたが、みな一様に生気がない。
やせ細って、顔に影がある。
「ここいらじゃ、男はみんな労役に出ている。残った女たちで作物を育てているが、それも全部税として町の役人に持って行かれちまう。食うもんがないのさ。川の近くにでも住んでいりゃ、まだ魚が取れるからマシなもんだろうが、ここいらじゃあ何を食って生きて行けばいいのかさえわからない」スサノオはそう説明した。
やがて村の奥にある少し大きな家の前に来ると、「ちょっと待っとけ」と言ってスサノオは家の中に入った。
ちょっとと言われたけれどスサノオはなかなか出てこないので、僕はこっそり隙間から中を覗いた。
中は真っ暗で、スサノオが真ん中に座って誰かと話しているのがかろうじて見える程度だった。
僕は暗さに目が慣れるのを待ち、その奥にいる誰かに目を凝らした。
やせ細った黒い老人のようなものが地面に横たわっているのが見える。
それが本当に老人なのか、人間ですらあるのかどうか、ここからはよく見えなかった。
僕は諦め、家の前に腰を下ろした。
日はもうすぐ沈もうとしている。
不意に小さな女の子が現れ、話しかけてきた。
「何してるの?」
女の子は腰まで伸びた髪がぼさぼさで、日焼けした顔に落ちくぼんだ目でじっと僕を見つめてきた。
「鬼退治に来たんだ」僕は鬼の正体も知らないし、退治するのも僕ではないのだけれど、そう答えるしかなかった。
「鬼?」
「そうだよ。見たことある?」
「ないよ」
「そうなんだ」僕がそう言うと、女の子はふっと目の前から消えてしまった。
えっ!? なんだ今の!?
僕は驚いて辺りを見回したけれど、今の女の子はどこにもいなかった。
身を隠すような場所もない。
そもそも女の子はどこかに隠れたのではない。僕の見ている前で消えたのだ。
なんだ今の!? なんだ今の!? なんだ今の!?
僕は背中に不吉なものを感じ、震える足で立ち上がった。
けれど身を隠すような場所もない。
僕は再びスサノオのいる家の中を覗いた。
まだ出てこないのかな、まだ出てこないのかな、まだ出てこないのかな……。
スサノオは相変わらずこちらに背中を向け、その向こうにある老人のようなものに話しかけている。
「ねえ……」と、再び足元からさっきの女の子の声がした。
僕は思わずその声に視線を向けた。
けれどそこには誰もいなかった。
日はもう沈んでいた。
まだ明るいものの、光にはまったく力がない。
夜になろうとしていた。
その気配を感じた。
夜には夜、朝には朝、昼には昼の気配のようなものがある。
部屋に閉じこもり、目覚ましをかけずに眠りに落ちて次に目を覚ました時、時計を見なくてもそれが朝なのか昼なのか夜なのか僕にはわかった。それぞれに気配があるからだ。
いま感じるのは夜の気配だ。
じわじわ、じわじわと歩み寄ってくる。
太陽の光には音がある。
光が降り注ぐ音だ。
雨のように音がある。
その音がいま消えようとしている。
その逆に、夜は静けさを伴ってやってくる。
何かを吸い込もうとしているような静けさだ。
僕は正気を失いそうだった。
どこだここ……、僕は一体何でこんなとこに来てしまったんだ。
そんなことを考えている時、ふと家々の間を何かが横切るのが見えた。
それは白い影のような物だった。
太陽の光の下では恐らく見えない、ぼんやりと白い影だ。
なんだ今の……。
僕はじっとその場所を凝視した。
今はもういない。
気のせいだったのか。
そう言えば、来る時には見えた人影が、今はどこにもいない。
家に入ったのだろうか。
それすら気が付かなかった。
いつの間にみんな消えたのだろう。
辺りはますます暗くなっていた。
薄闇だ。
何かの気配に目をやると、さっきの白い影がまた見えた。
僕はもう怖いと言うよりも、池のほとりでふと現れた蛍の光でも見るように、その姿を目で追った。
こんどはその白い影はなかなか消えなかった。
白い影は人よりも少し大きいくらいだ。
よく見ると、背中をかがめた人間のように見える。
藁で作った蓑のようなものを頭からかぶっている。
と、しばらくするとまた違う白い影が現れた。
白い影はどうやら同じ方向に向かっているようだった。
村の奥に見える森の中から、村を突っ切ってどこかに向かっているようだった。
白い影がまた見えた。
また……、まただ。
白い影はどんどんと数を増して行き、行列のようになっていった。
なんの足音もせず、無言で、ゆっくりとした足取りで進んで行く。
暗さが増せば増すほど、白い影はくっきりと形を帯びていった。
今や白い影の数は、何十、何百にも膨れ上がっていた。
「なんだろうな、こいつら」
僕はその声に飛び上がって悲鳴を上げた。
「うっさい! 大きな声出すんじゃねえよ」いつの間にか外に出てきたスサノオは言った。
「それにしても、お前さん、こいつらが見えるのか」
「こいつら?」
「鬼の正体だよ」
「鬼? これが?」
「まあ、鬼とは聞いていたが、そんなんじゃなさそうだな。害もない。ただ薄気味悪いだけだ」
「でも、これ、いったい何なの?」
「亡霊だよ」
「亡霊?」
「おっと……」そう言ってスサノオは、胸元から小さな緑色の首飾りを出した。ひん曲がったキュウリのような形をしている。
「なにそれ?」と僕が聞くが早いか、その緑色の首飾りはスサノオの手の平の中でくねくねと蠢き、小さな蛇となった。そして何かに苦しむように丸まって体をくねらせると、みるみる長く、大きくなり、鈍い銀色の蛇になり、絡み合い、ねじれながらスサノオの手の平からこぼれ落ちそうなほどになった。さらにどうやらそれは一匹ではないようだった。頭が七つある。尻尾も、どうやら七つだ。と、僕は昨日の夜に寺で見た七匹の蛇を思い出し、「うわっ!」と言って後ずさった。その間も蛇はどんどん大きくなり、スサノオが地面に置くと、もう小さな子供なら丸呑みできそうなほどの大蛇に変わった。寺の中では暗くてよく見えなかったが、どうやらその大蛇は胴体が一つに繋がっている。とぐろを巻いているが、長さは十メートル以上ありそうだ。一つになった胴は、何百年も生きている大木のように太かった。
僕は自分でも気づかないうちに腰を抜かして尻もちをついていた。