私は平和主義者であり…
私は小学生の頃、いや、物心つく頃から少女漫画を読むことが好きだった。私個人が恋愛に興じることなど考えもしなかったが、漫画の世界に広がる恋愛には興味があったのだ。
そしていつしか、その乙女チックな口調が私に移っていた。
「お城に閉じ込められているわたしをね、いつか白馬に乗った王子様が救い出してくれるの」
そんな風に言い出しかねない口調は周りの人間にとっては異質なものと捉えられたようだった。異質なものを煙たがる、その傾向は幼き者ほど抑制が利かず顕著だ。事実、私はそれが原因で「メルヘンお嬢様」という大層な渾名と共にいじめられることがあった。
いじめは中学生になっても続き、私は教室の隅へと追いやられた。
そんな時だった。彼が現れたのは。
中学二年生になり、さも当然のように一人で食事をしていた私に初めて話しかけてきたのは彼だった。
「君を物語の世界から救い出してあげるよ」
最初は、何て生意気な男だと思った。私は別に好きでこうしている訳ではない。勝手に私を憐れむな。
だが、そんな精一杯の意地っ張りは、次の彼の言葉で泡のように一瞬にして弾けた。
「君は面白い。傍から見てもそう思っている。なのに君が周りから忌避されるのは間違っている。正義のヒーローが悪に負けるのも間違っている。だから、僕に手を貸させてもらえないかな」
弾けたというか、唖然とした。そんなことをしても彼には何一つ利益はない。あるのは、いじめられっ子と同類、というレッテルのみ。
だから、その自己犠牲の精神を私には理解できなかった。
けれど、そこで差し出された彼の手のひら。そして、聞こえる聴衆の噂声。
――メルヘンお嬢様が王子様に手を伸ばされているー。
――あそこだけ童話の世界とか、マジウケるー。
――王子様は……えっ、八重樫君?
不安な気持ちで彼の顔を見上げる。その顔は、満面の笑顔。
だが、どことなく悪戯めいた悪い笑顔。
乗った!
私はその手のひらを強く握りしめた。そこからだ、私の日常が変化したのは。
彼が提案したのは、私の口調を変えること。小難しそうな言葉をそれっぽく使い回し、自分が子供でなく大人であり頭が良さそうに見せること。
そんなことで変わるのかと当時の私は疑問の渦に巻き込まれていた。しかし、効果はすぐに訪れた。
そもそもの原因は、私が口調により子供っぽく見えるからであり、それを普通にするだけでいじめはなくなるだろう。
だが、彼の狙いはそれだけではなかった。いじめはなくなった。そして、もう一つ。
友達が増えたのだ。
今の口調に変えてから、私の成績は飛躍的に上昇した。それもそのはず、毎日引っ切り無しに辞書を引いていた上に、それがきっかけで勉学を楽しいと思えるようになり、進んで勉強に励むようになったからだ。
そんな私を見て、隣の席の子がちょっとした数学の質問をしてきた。それを教えることから始まり、いつの間にか同じ机で食事を囲むまで発展した。そうしてできた中学初めての友というのが加納麻美である。
それからの日常は無味乾燥な日々を送っていた過去とおさらばし、私にとっては非日常となった。
加納麻美を友と認めたその日、私は彼にお礼を言おうと決め、学校に向かった。正直に言おう、その時の私は既に彼によって恋の毒牙にかけられていた。
だが、私にとってのヒーローは、周りにとってもヒーローだったのだ。
私が教室に入ると、他教室の生徒も混じり合い喧騒の甚だしい中、真剣な顔で私の知らない女子生徒の相談を受けている八重樫亮太の姿があった。
誰これ構わず手を差し伸べる彼を見て、私は思った。恋をしているのは私だけであり、彼は私を見ていない。彼にとって私は、一般人Aでしかないのだ。
ともすれば溢れそうになる涙を必死に堪え、私はトイレの個室へと逃げ込んだ。
着衣をしたまま便座に腰掛け、私は眼差しを上に向けた。その時、私の頭の中で漂流していたものは、彼に対する対抗心であった。
越えてやりたい、そして彼の方から私に振り向かせてやりたい。
そのためにはまず、周りの人に自分を認めてもらうことが大事だと考えた。
勉学に励み、人に優しく接する。私は周りに期待をさせ、周りは私を期待する。
今思えば、周りの期待に応えようとするその姿勢が、今のこの平和主義を掲げるに至ったのだと私は思う。そして、彼の自己犠牲の精神も。
***
まあ、そんな行動もすべて、彼に対する恋の裏返しというやつである。
結局、現実は実力行使で自分から振り向かせるスタイルとなってしまったが、結果は成功なのでそれならそれでいい。
彼は私のどこを見て、どう考えて告白を受け入れたのかは分からない。だが、他人に取られるよりはよっぽどましである。
少なくとも、好意は抱いてくれているようなのだ。ならば、ここから、ここから始めればいい。
白い歯を見せて笑う、八重樫亮太を本当の本当に振り向かせることを。
すると、彼は私に右の手のひらを差し出してきた。その手のひら、その姿は中学生の頃初めて彼の手を取った、あの瞬間を私に思い出させた。
「じゃあ、行こうか」
一体どこへ、などと野暮なことは聞かなかった。
僅か一センチ余りの隙間から見えるその手。一目で男の子だと分かる、少しゴツくて、それでいて温かそうな手のひら。
果たして、その手のひらは私をどこへ連れて行ってくれるのか。
そんな果てしない想像が私を包みこんだ瞬間、羞恥の気持ちを春風が空の彼方へと運んでいった。
世界を閉じていた私の手を、まだ熱を帯びる頬へとずらし、もう片方の手をその大きな手のひらに重ねた。
四年の月日を正常に経た、成長の感じられる温かさを私は手放したくなく、強く、強く握りしめた。
こうして、私の平和主義の証明と言う名の復讐劇はハッピーエンドで幕を閉じたのである。
***
握りしめた手からは、彼の熱が直に感じられる。
そんな幸福を味わいながら私は空を見上げ、いつもの言葉を思い描いた。
私は平和主義者である。
それは最大利益の最大幸福を追求する、自己犠牲を厭わない存在であり、愛のある勇敢な者のことである。