第116話 炎嵐
「古の炎、沈黙の夜に揺れ──」
詠唱を始めた瞬間、狼の動きが変わった。
危険だと分かったのだろう。そりゃそうだ。こっちだって、普段こんなもの唱えている人間がいたら距離を取る。
だが、もう遅い。いや、どうだろう?
第一小節。
第二小節。
第三小節。
長い。
とにかく長い。
詠唱前提のこのゲームで、二十小節の音読は頭がおかしい。
「星々の嘆きを、灼熱の衣に化えん──」
狼が飛び込んでくる。
避ける。
避けながら走り、唱える。
深夜のススキノで一人ポエムを叫びながら回避行動を取る三十代男性。
字面にするとかなりひどい。
でも、今さらだ。
ここまで来るのに、どれだけ恥をかいてきた。
どれだけ孤独な思いをして、どれだけ深夜作業をしてきた。
その全部が、この長い詠唱のためにあった気さえしてくる。
第十小節。
スマホが震える。
俺の周囲に赤い火の粉みたいなエフェクトが滲み始めた。
MPバーがごりごり減っていく。
ちゃんと発動に向かっているらしい。こんな時だけ律儀なアプリだ。
「孤独なる魂よ、爆炎の翼を拡げ──!」
狼の爪がAR画面の端を横切る。
警告音が耳障りに鳴る。
それでも止めない。
ここで噛んだら全部無駄だ。
かつて、定時で帰りたい一心で、深夜のオフィスで延々とコードを追っていた頃の集中力。
あれが今、最悪の形で活きていた。
第十五小節。
第十六小節。
AR画面の端で、境内表示そのものが赤く染まっていく。
狼もさすがにまずいと思ったのか、踵を返した。
させるか。
「我が叫びは嵐、我が意志は炎。終焉の刻を告げる朱となれ──!」
あと少し。
走る。
息が上がる。
喉が焼ける。
肺が痛い。
目の奥がちかちかする。
でも、詠唱は切らさない。
そして最後の一節。
「終末を顕現せよ。我、ここに至れり。――炎嵐!」
発動。
次の瞬間、AR画面の半径十メートルが全部炎で埋まる。
見渡す限りの炎の奔流。スマホ越しの視界と現実の視界との差異が酷い。まるでスマホがこちらを向いた懐中電灯のようだ。
爆発というより、表示領域ごと焼き切った感じだった。
狼の巨体も、境内に残っていた歪みも、再湧きしかけていた黒い影も、まとめて赤い光に呑まれた。
狼が最後に何か吠えた。
だが、その声は途中で途切れた。
AR画面が激しく明滅し、見慣れないメッセージが流れた。
【System Message:Lord Authority Lost.Area Rebooting...】
「……マジか。やったか?」
そこで限界だった。
膝から崩れ落ちる。
スマホが手から滑り、アスファルトに落ちて嫌な音を立てた。
しばらくして、スマホの異常な発熱が引く。
顔を上げると、空が少し白んでいた。
目に見えていたARのノイズは消えている。
聞こえるのは遠くの車の音と、カラスの声くらいだ。
どうやら、本当に終わったらしい。
割れたスマホを拾い上げる。
画面は死んでいた。
「……南無」
それだけつぶやいて、俺はその場にひっくり返った。
たぶん、きっとここから先の後始末は誰かがやってくれる。




