表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

留恋

作者: 野球の戦士

※作中に登場する国家や人物、地域の名前等は、実在するものとは一切関係ありません。

その日の朝、いつものように小学校へと向かっていると、突然牛に襲われた。


それは長期休暇の終わったある夏の一日だった。褐色を帯びた牛が、ふうふうと息を荒げて私を見ていたかと思うと、猛然と私に向かって駆け出してきたのである。


通学路とはいっても、私の家は北の地方の田舎で、周りは山と森ばかりだったから、整備された道を歩ける保証はなかった。石のごつごつした悪路も歩かなければならず、それは本を読むのは大好きでも体育の通信簿が1か2しかない私にとってはつらかった。


私はでこぼこした道を走り続けた。そのときは気が動転していて、通学路も朝礼も朝の読書もなく、また遅刻という概念もなく、知らないうちに私は通学路の途中にあったさびれた公園へと入っていた。山の裾野のそばにある、薄暗い印象のある公園である。後ろを振り返ることはなかったが、牛の荒い息は変わらず聞こえていたし、殺気が確かに私を指し示しているのも感じていた。


すでに私は限界だった。後ろからたけ狂ったけだものに追いかけられて、生命や尊厳の危機を無意識に感じて走ったのだから、無理もない。私は公園の片隅で疲れ切って、がっくりと両膝をついてしまった。


額から汗があふれ、身体中が心臓の鼓動に会わせて震えた。


朝ということもあり、人も少なく、悲鳴をあげても、気づかれないだろう。


私はどうなってしまうんだろう。殺されてしまうのか。身体が震え、目の端にわずかに涙がにじむ。もはや牛の荒い鼻息は背後、すぐそばまで迫っていた。




それからしばらくの間、私は気を失ったのか、何が起きたのかを覚えていない。




私はそのときずっと両目をきゅっと閉じて伏せていたので、状況を把握できなかった。ただ、心臓の鼓動だけを記憶している。


ほてった身体が浮いているように感じて、あれ?と思った。後ろから、すうすうという静かな息の音がしていて、牛ではないようだった。牛はどこかに行ったんだろうか。確かめたくて、ゆっくりと顔を上げて振り返った。


その瞬間、私は、二つの黒い瞳と目が合った。





はたして、そこに立っていたのは一人の男性だったのである。


灰色っぽい工事現場にいるおじさんのような服を着て、私を見つめていた。とはいえその顔は年寄りじみたものではなく、浅黒く焼けた頬はなめらかで、目も少しくぼんでいたとはいえ明るい光をたたえていた。


気づくと、私を追いかけていたはずの牛は見えなくなっていた。


・・・あ、そうか。


この人は、牛を追い払ってくれたんだ。


 「あ、え、えっと」


 私は震えるのどからやっとのことで声を出した。


 「さっきの牛、追い払ってくれたんですよね?」


 その男性はそのとき驚いたかのように、ぴくりと表情を動かした。


 「あー・・・」


 その男性はあいまいな声を出した。視線が、宙をさまよい始める。彼はまるで照れているかのように後頭部に手をあてて、刈り込まれた短髪を手で乱した。


 私は首をかしげた。


 その男性は相変わらず困ったそぶりを見せていた。「あー」とか「うー」とか、何かをぶつぶつとつぶやいている声が聞こえたけれど、何を言いたがっているのかはさっぱり分からなかった。


 「あ!」


 私の身体の奥から声がしぼり出された。こんなところでだらだらしている場合じゃない、


遅刻してしまう!



私は、あわてて走りだそうとした──じくじくと身体が痛んで、一瞬転びそうになってしまったけれど、すぐに脚を運び出せるようになって、再び駆け出した。


 「ありがとうございました!」


 私は振り返りざま、その男性に叫んだ。その男性はややびっくりしたような表情を浮かべて私を眺めていた。




 「ねえ聞いて!私、朝に牛に追いかけられたの!」


 「はあ?牛?」


 私はその日の休み時間、隣の席の男子、星川に話しかけていた。


 その日の朝、私はしっかり遅刻してしまい、とっぷりと先生に怒られた。担任の先生は2年前に先生になったばっかりの女の人だったが、眼鏡をかけていてとってもしっかりしてそうで、細かいことでも見逃さない。そのため(とくに男子からは)「厳しい先生」ともっぱらの評判なのであった。私はその先生は彼らが言うほど嫌いではなかったけれど、かといって好きというわけでもなく、もっと優しい先生が担任をやってくれるのならそっちの方がいいな、なんて思っていた。


 「牛とか見たことねーし、こんなところにいるわけねーだろ!犬かなんかと見間違えたんじゃねーの?」


 「牛だったよ!おっきかったし、私殺されると思ったもん!」


 「まじかよ。信じられないわ」


 星川は、とんとんと次の授業で使う教科書を机の上で揃えながら、私の方をさっと見やって言った。


 「したら、お前凄いな。牛から逃げ切ったんだろ?お前走るの遅いじゃんよ・・・それとも、格闘で牛をぶっ倒したのか?」


 星川はにやりと笑ってみせる。私がしている習い事といえばピアノとスイミングくらいで、牛なんか撃退できるわけがないじゃないか。もともと運動の下手な私を揶揄しているのだろうか。


 でも、牛は撃退されたのだ。このことはまぎれもない事実である。私はこのことを面白おかしく言ってあげようと思って、頭をひねった。そんな私の心理は星川にも見て分かったのだろう、星川は「何だよ、ふふって笑って。面白いことでもあったのか?」とけげんそうな顔で私の顔をのぞき込みながら言った。


 「牛ね、追い払っちゃった」


 「はあ?」


 私はくすくすと笑う。本当は、優しい大人の男の人に、追い払ってもらったのだ。


 「追い払ったって・・・どうやって?牛ってでかいやつなんだろ?どういうことなんだよ、おい」


 星川はどぎまぎした。サッカークラブで外を走り回っているわりに色の濃くない星川はうろたえると、まるで年下の男の子のように見えてしまう。水色のサッカーシャツからのぞく身体のラインは細くて、かなり軽そうだ。


 「さあ、どういうことなんでしょねー」


 とぼけたように言い捨てて、「おい、なんだよー」という星川の声を背後に聞きながら逃げるように席を立つ。あははっ、と私は声に出して笑った。


面白かった。こんなふうにいたずらみたいにふざけて、たわいのない会話をして、それとともに表情を変える星川の純粋さが、そのときは気づかなかったけれど、今から思うと愛しかったんだなと思う。


 あの男の子の話をしたら、星川はどんな顔をするだろうか。私はトイレに向かいながら、そのことを考えるとまた楽しい笑いが頬にあふれて、吐息に混じってこぼれてしまわないだろうかと気をつけるのに必死になった。




 星川と私は、よく友達から「仲良いよね-」と言われる。


 星川はサッカークラブで、私はイラストクラブに入っていたから、接点はなさそうにも見えるのだが、6年生で初めて同じクラスになってから話してみると、お互い会話のリズムや、考え方とが合って、いっぺんにお気に入りになった。


 でも「付き合う」という段階にはまだ至っていなかった。


 「あー、今日も帰ったらサッカークラブ行かないとだし、宿題やりたくねえなー。永野(永野とは私の名字である)、お前代わりにやってくれね?」


 その日、学校が終わって私と星川は一緒に帰っていた。途中まで帰る方向が同じで、なおかつ他の子たちとは違う方向だったので、私と星川とは一緒に帰ることが多くあった。


 「はあ?バカじゃないの?自分でやればいいじゃん、私が星川なんかのためにやってあげるわけないでしょー?」


 「お前って本当ケチだなー・・・サッカー終わったら本当疲れるんだよ察しろよ」


 私は軽く鼻を鳴らしてみせる。運動に縁のない私にとって、星川がサッカーをしていようが野球をしていようがどうでもよかった。また、星川が何か私に助けを求めてきたとしても、私はそれに対して老婆心を起こして「手伝ってあげなきゃ!」なんて思うこともあまりなかった。


私は星川に対してそういうことまでして媚びようという気にはなれないのだった。星川のことを見下していたり毛嫌いしていたりということではないけれど、ひょっとしたら私の「好き」という感情は、星川に向けるものではなかったのかもしれない。


だから、恋愛小説なども読みあさっていた私は、そこに使われる「愛おしい」とか「恋慕」とかいったませた言葉にその答えを求めようとしたけれど、まだ恋愛経験もしたことがなかった私にとっては難しすぎる。


 「もー・・・しょうがないなぁ」


 星川は一瞬期待に顔を輝かせて、「お・・・お?」なんて間の抜けた声をあげる。


 「私に10000円くれたら、やってあげる!」


 「はぁー?!」


 星川は「バカじゃねーの?!こづかい何ヶ月分だよそれ!」と真面目に突っ込んでくれた。また、私はあははと朗らかに笑う。このひらいた笑い方が私は好きだった。男友達は全然多くなかったが、こんなふうに私の好きな笑い方をさせてくれる星川と一緒にいられることは、抱きしめたいくらい大切なことだった。




 「じゃ、またな」


 「うん、ばいばい!」


 それから二日後、いつものように私は星川と二人で一緒に帰っていた。


 季節は夏の暑さが少しずつやわらいでいき、秋らしい気候になりつつあった。


この地方は夏の暑さは引くのが早く、代わりに寒くなるのは早い。今は日が長いが、すぐに短くなって、下校中に緑色の月が空に輝くのを見ながら帰ることも珍しくはなくなるだろう。


 私が一人であの日牛に襲われた公園の前を通りがかったとき、その公園に黒い身影がたたずんでいるのが見えた。


 見覚えのある顔だ。私は誰だろうと思って、その人の顔を遠目からじっと眺める。すると、その人も私の方を振り向いて、にっこりとほほえんだ。


あ・・・あの人は確か。


あのとき私を牛から救ってくれた人だ。


私はどういう顔をしたらいいか分からず、とりあえず笑顔を作って──とはいえ、かたい笑顔になってしまったけど──彼の方に向かって歩いた。公園は西日がよく当たって暗い印象はなかったが、人はいない。


 「あのう」


 彼の目の前に来て、やっぱり言葉がすっと出てこなかったので、たどたどしいしぐさを見せながら、さして意味のないあいさつをしようと思った。


 「この前は助けてくれて、ありがとうございます」


 私はぺこりと頭を下げる。


 沈黙がさっと影を落とした。ん?と思って彼を見ると、相変わらず彼はにこにこしている。


 「ありがとございます」


 彼は、おかしなイントネーションで言った。クラスの男子がたまにやっている外国人のモノマネのどれにも似ず、まったく聞き慣れないし真似もできないようなイントネーションだ。


 「ハハハ。わたし、中国人」


 中国人?!


 私はひどくびっくりして、目を大きく見開いて彼の方を見た。


というか日本語しゃべれるの?!


 「え、えっと、日本語、話せるんですか?」


 「おー・・・」


 また、この前のように彼は黙り込んでしまった。「にほんご」という響きは理解したらしく、彼は「にほんご・・・」とぶつぶつ繰り返していたが、この感じではおそらく日本語は理解できないのだろうし、会話することも無理だろう。


 「日本語」


 彼はそう言って、ぶるぶると首を振った。


「日本語、分からない」と言ったのだろう。

私の身長は150センチちょっとで、彼はおそらく180センチ弱くらいはあっただろう、私はなかば彼を見上げるかたちでその不慣れな口の動きを見ていた。しかし、彼は堂々した顔でほほえんでいたから、私はそこに今まで触れあってきた男性の誰とも違う、不思議な香りを覚えた。


 私は緊張してしまった。だからこの前何を言っても聞いてくれなかったのか。お礼は言ってみたけれど、それからもはや何を話していいか分からない。この人がとってもいい人で、かわいらしいのは分かったけれど、外国人とコミュニケーションなんてとれるわけがない!


 すると、彼はすっと手に持っていたボードと紙(公園に彼がたたずんでいるのを見たとき、彼はそのボードと紙に何かを書いていた。調べ物かなにかでもしているのだろうか)を出して、さらさらと漢字を書いた。


 「私、刘锴リューカイです。四川スーチュアンきた、から」


 りゅう?かい?


 すー?ちゃん?


 私はさっぱり分からなくて、首をかしげた。彼の手元の紙には「刘锴 四川」という漢字が書かれていて彼も何度か発音してくれたけれど、中国語は「ニーハオ」くらいしか知らなかったので、さっぱり理解できなかった。


 だから、彼が言った発音を、そのまま真似するしかなかった。


 「リューカイ、さん?」


 それが名前だと思ったので、音だけ真似て叫んだ。劉鍇さんはこれまでで一番かというくらいに目を輝かせて、「おー!」と歓声をあげてくれた。大げさだけど、それが言葉がほとんど通じない中で、私と彼の意思疎通が成功した初めての瞬間だった。


 彼もまた喜びにたえない表情で、笑みをおさえながら、「私、刘锴です。四川きたから」と繰り返した。


 私はぷっと噴き出して、言った。


 「四川って街の名前でしょ?『四川きたから』じゃなくて、『四川から来た』、じゃないの?」


 彼はぽかんとしていたから(当たり前だ)、私は「だから、『四川すーちゃんきたから』じゃなくって、『四川から来た』、でしょ?」と強く繰り返した。


 彼も私の強い言い方に気づいたらしく、「あー、『四川から来た』!」と、ゆっくりと内側からこみあげてくるような喜びを顔中にたたえながら、おかしそうに笑った。


 「あははははっ!」


 私もとっても面白くて、明るい声で笑った。彼──劉鍇さんも照れたように笑いながら、「あいやー…」なんてぶつぶつ言っている。


 あ、この人とは仲良くなれそう。


 それに私が気づいたとき、私はあたたかい愉悦が胸の底に湧き上がってくるのを感じた。その今まで経験したことのない空を駆けていくような喜びは、私にとって手ごたえがあり、平凡な日常をすっかり小さく見せてしまうほど鮮烈なものだった。




 その会話があったあと、私と彼は筆談(紙に書くこともあったし、その場にしゃがんで地面に棒で文字を書くこともあった)やほとんど聞き取れないような彼の日本語などを交えながら、日が暮れるまで彼と会話をした。


 そんな会話の形式は、その日だけじゃなくてしばらく続いたから、お互いつたないやり方ながらも彼のことをいくらか知ることができた。


 彼が言うには、彼は中国の四川省の田舎の方から出てきたとのことで、故郷にはすでに婚約した奥さんがいるとのことだ。もともとは地元の四川省で仕事(工事現場のおじさんのようなジェスチャーを彼はしていた)をしていたのだが、ある日日本に仕事があるということを知り、今こうして日本で仕事をしている、とどうもそういうことらしい。


 それにしても、彼は日本語を覚えるのが本当に早かった。私は外国人というものになじみがなく、彼がたどたどしい日本語を話していたことも、またどこから覚えてきたのか、ふだん聞きなれた単語を急に話し出したことにも、さして違和感は覚えなかった。けれど、実際それは驚くべき成長だった。まるで私に会うごとに復習を欠かさないばかりか、予習にもかなりの力を入れて取り組んでいるかのような──というかたぶん実際そうだったのだろう──強い求知欲のたまものだったんだと思う。


 「それで」


 私はゆっくりと、一音一音念を押すように発音する。


「日本で、何の仕事、しているの?」


 私は劉鍇さんに向かってにっこりと笑って見せた。変な誤解をされないように。


「おー…」


 彼はもごもごと歯切れの悪そうなそぶりを見せた。そして、不器用そうに一瞬目をふらっと宙に泳がせて、すぐに鍬かなにかを持って地面を耕すようなしぐさをしてみせた。


 あれ?


私はまだ小学生だったとはいえ、そのときの彼の一連の挙動に、不自然さを読み取ることができないほど、鈍感ではなかった。そのとき私は、初めて彼を疑ってしまった。


いったい、彼は日本で何をしているんだろう?四川で工事かなにかの仕事をしているみたいだから、ひょっとしたらなにか機械を扱うような仕事をしているのかもしれないし、あるいは農業みたいなことをしているのかもしれない。


「そうなんだ!」


 私はおおげさに反応してみせる。


私が「彼は何をしているんだろう?」と少しでも不審に思ったことと、嘘をついているんじゃないかと疑ったことを悟られたくなかった。また、それによって私が思い出す、彼のあの恐ろしい深意とを認めたくもなかった。


ただ、何事もない会話がなされただけなんだ、と思い込めれば、今まで通り、新しい中国の友達との関係をつなぐことができるんだと信じていた。


 「私の、妻」


 劉鍇さんはまじめくさった顔で私を見やり──私はすでに彼がこういう表情をするのは、とびきり滑稽な冗談を飛ばすときだと気づいていた──さらさらと落ちていた枝で地面になにかを描き始めた。


 「えー、なになに?」


 私は彼が枝の先で器用にさらさらと線を連ねるのを興味津々で見ていた。


 そのとき、間近にあった男性の何気ない、牢固な香気が、かすかに自分の胸の奥底を波立てるのを感じた。


 やがて、彼はすっと右腕を上げた。


 そこには、いかにも意地悪そうな顔をした、漫画ちっくな女の人の顔が描かれていた。目が吊り上がって、口はとんがり、まとめた髪はところどころあほ毛のようにぼさぼさになっている。けれど、彼特有のやわらかいタッチの線は、固い雰囲気ではなく、かえってユーモラスな印象を私に与えた。


 「私の、妻」


 彼はぼそぼそと、変わったイントネーションで言った。これが、彼の奥さんの似顔絵なのだ。


 笑ってしまった。誰もいない公園中に響き渡りそうな声で、私はお腹の底から声を出して笑った。こんなふうに、身体の奥底のわだかまりをすべて溶かして吹き飛ばしてしまうような笑い声を出したのは、ひょっとしたらそれが初めてだったかもしれない。




 彼は、毎日ではなかったけれど、私が一人で帰っている途中の例の公園にたまにいて、そのたびに私と暗くなるまで一緒に話をした。彼は私に会うと必ずヘタクソな日本語を聞かせてきて、新しい単語とか、言い間違いのチェックなどを求めてくるようになった。


 なにしろ、私はいろんな本を読んでだいぶ博識になっていたとはいえ、まだまだ子どもだった。だから、大人に対して講義じみたことをしたり、ただの常識を懇ろに言って聞かせたりしていると、「放課後の小さな先生」になった気になって、得意だし愉快だった。いたずらのつもりで彼をばかにしてみたり、またあえて底抜けに優しい態度で接してあげたり、なにもかもが刺激的で、楽しかった。外国の人と友達になれたことも、名誉なことだった。




 そんな日々がしばらく続いたころ、私のクラスではあるおかしな噂が急速に広まっていた。


 「まじかよそれ、こっわ」


 朝、私が寝ぼけまなこをこすりながら席で朝の準備をしていると、すぐ机のすぐそばで数人の男子が集まってひそひそ話していた。


 「いやほんとほんと。うちの母ちゃんが言ってた。『外人』が俺らの町にいっぱい来て、いつか俺らの町を飲みこんじゃうんだってさ。こわいよなー」


 「『外人』ってなんだよー。宇宙人みたいなやつ?」


 「さあな。とにかくヤバい奴らだろ。たぶん、そいつらはもう俺らの町に上陸してて、どっかに秘密基地でも作ってるんだよ!そんで、いつか俺らをぶち殺しにくるんだ!」


 「げええ、こわすぎィーッ!」


 その話を始めた男子は、面白おかしく指をふにゃふにゃと動かして、他の男子の腰をこしょぐっていた。馬鹿笑いをきんきん響かせて、とても危機感も何もないまま、どこかに行ってしまった。


 「おう、永野、おはよう」


 「おはよ、星川」


 星川が来て、ランドセルをおろして朝の準備を始めた(星川とはいつも通りの友達みたいな関係が続いていたが、下校中に私が大人の男の人に会っていることは話してなかった)。


 私は、男子のしょうもない噂をちっとも気にしていなかった。だから、さっきの男子たちが去った10秒後には、そのゴシップは、さっぱり脳裏から消えていた。聞いたときはショッキングな内容ではあったが、私とは関係なかったし嘘っぽかったから、覚えておく気がなかった。


 星川が私に対して話しかけてくるまでは。


 「って、『外人』の噂お前も聞いた?なんでも、変な奴らがいっぱい押し寄せてきて、どこかに秘密基地を作って、俺らの町を乗っ取ろうとしてるらしいんだ…くだらねえ嘘だと思ったんだけど、昨日サッカークラブの奴らもみんな言っててさ。どうせ嘘なんだろうけど、怖くね?」


 「…ふーん?」


 (なんなの、星川まで…みんなして頭がおかしくなったのかな?)


 「はーい、みんな席について。朝のホームルーム始めるわよー」


 きりっと眼鏡を輝かせて、先生が入ってきた。その日の朝は、どことなくみんな浮ついていた。ひょっとしたら、それはその日に始まったことじゃなかったかもしれない。もやもやした気持ちのまま、てきぱきした口調で話す先生の言葉を、聞いていた。




 「にーはおー!」


 素っ頓狂な声で中国語を真似しながら、私はその日も公園でたたずんでいた劉鍇さんへと走って近づいていく。


 劉鍇さんは、私の方を振り返って、嬉しそうににっこりと笑った。彼のくぼんだ二つの瞳がその瞬間あたたかい光を放って、「よく来たね。」と、優しく私に語り掛けているかのようだった。


 もう何回目になったか分からない。こうして下校のときに公園にいる劉鍇さんと話すのは、すっかり私にとっての決まったイベントみたいになっていた。


 そして、私はこのイベントを楽しみにしていたし、待ち焦がれてもいた。クラスのどの男子に会うよりも、劉鍇さんに会う方が私にとってずっとしっくりきた。…しっくりきた、というのは、別に他の男子と話すのが嫌になったわけではなく、そのとき私が胸の奥で望んでいた唯一の艶っぽい感覚は、劉鍇さんに会うときにだけ覚えられることにおぼろげながら気づいたのである。


 ひらたく言えば、それは私にとって初めての恋愛だったかもしれない。私は、劉鍇さんに自分の悩みや、不安や、また日常のささいな幸福をすべて話して、同情されたり、慰められたり、一緒に喜んでもらったりしたかった。私は、そうした感情を誰にも抱いたことがなかったのだ。


 「ねえ、見て!」


 私はランドセルを地面にばさっとおろして、中から一枚の紙を見せた。


 それは理科のテストの答案だった。


 100点をとったのだ。


 「私理科すっごい苦手で、いっつも70点くらいなんだけどね、今回すごく頑張って勉強したら、100点取れたの!すごいでしょ!」


 劉鍇さんは、間違いなく私が上気してしゃべったこの言葉は聞き取れていないだろうが、答案に赤く書き込まれたいくつもの丸と、100というきりのいい数字で、なんとなく私の言おうとすることを察してくれた。


 「すごい」


 と、彼は短く言って、右手の親指をぐっと立ててみせた。


 ああ、こういうところいいな、と思った。なぜって、私は中国語話せないし、彼も日本語ほとんど理解できないのに、こんなふうに意思疎通ができるんだ。


私達って凄い。


絶対、一生、離れることなんかないんだ。


 私が感激して飛び跳ねていると、彼は嬉しそうな表情を崩さず、私に言った。


「家、ジュースあります。飲みましょう」


 彼はにっこりと笑った。そしてやおら立ち上がり、「すごい、なんですから。一緒に飲みましょう」ともう一度繰り返した。


 私が100点を取ったお祝いで、彼の家で一緒にジュースを飲もう、と言っているのだ。


 私は、彼が「家」という言葉を出すのを、初めて聞いたような気がする。だから、別になんでもない単語のはずなのに、その発音にはどこか秘めやかな響きがあった。


 「家って、このあたりなんですか?」


 「大丈夫、大丈夫」


 そうか、このあたりに住んでたのか。したら、けっこう近所じゃないか。私は彼についていくために、持っていた理科のテストの答案をランドセルの中にあわててしまう。


 するとその時、公園の前を黄土色っぽい作業着のようなものを来た男性(それは、劉鍇さんがいつも来ていたものとよく似ていた)がふと歩いていったかと思うと、劉鍇さんの姿を認めるやいなや、ずんずん近づいてきた。


 その知らない男の人は、劉鍇さんの前に来て、低い声でなにか中国語でしゃべりはじめた。彼も中国人だったのだ。


 人気のない夕方の公園は、にわかに騒がしくなった。中国の人はみんな大きい声で会話するとは聞いていたけれど、本当にそのとおりだ。まるで私が中国に迷い込んでしまったかのような錯覚を受ける。


 それにしても、この男の人は劉鍇さんの知り合いなのだろうか?いったい何を話しているんだろう?「つぁお」とか「まー」とか断片的に聞こえる異国の音にぼんやりとしながら、私は彼らが会話するのを見ていた。


 「あー…すみません」


 自信なさげに劉鍇さんは私の方を振り返り、ぼそぼそと話しだした。


 「この人、友達」


 劉鍇さんはそのまま黙ってしまい、そのまま「友達」とどこかへ行ってしまった。


 え?今のはなんだったんだろう。ジュースは飲ませてくれないのかな。


 人気のない公園をかえりみた。ブランコやジャングルジム、シーソーなどの影が長く伸びて、神秘的な模様を地面の砂の上に描き出していた。


 褒められて、嬉しかったけれど、そのあといろんな出来事があって、困惑していた。


 ところで、最近、暗くなるのが早くなったようだ。私はぶるっと震えて、自宅への道を小走りで帰る。




 季節は本格的に秋に入った。


 すっかり暑いと感じる日はほとんどなくなり、かわって肌寒い空気が私の町へも流れ込んできていた。


 そしてこの季節は、天気が変わりやすく、雨が多くなる季節でもある。とくにこの季節の雨は冷たく、ひんやりと冷えた雨の朝などは吐く息が白くなるのではないかと感じてしまうほどである。


 私は、じめじめしてうっとうしい雨があまり好きではなかった。しかもゲリラ的に降り出すことが多かったので、この季節になると私はわけもなく不安になったり、そわそわしてしまったりしがちだった。


 その日、いつもと同じように学校に行くと、なにか教室が騒がしかった。


 正確に言うと、星川の周りに数人の男子が集まってがやがやと何かをさかんにしゃべっていたのだ。またこの前の「外人」の話だろうか。いいかげん飽きないのかな。私はどうでもいいや、と思って、星川におはようを言うのも面倒くさく、そのまま私の席に座ろうとした。


 「おい見ろよ、永野がめっちゃ怒ってるぜ!もうバレてんじゃねーの!どうすんだよ星川!」


 「ヒウ!ヒウ!」


 「おい、うるせーよ!さっさとどっか行けよ!」


 いつになく色めき出っていたし、なぜか私の名前が出てきたのが気になった。 


 「ねえ、朝からうるさいんだけど。何の話?」


 「星川が、昨日サッカークラブの帰りに、女子と手つないで帰ってたんだって!」


 「えっ」


 「隣の学校の女子だってよ!そいつ星川のことが好きで、いっつも星川がサッカーやるの見に来てたんだけど、昨日ついにそいつと帰ってたんだよ!」


 顔がこわばっていくのを感じた。私は力の入らなくなった目で星川を見つめる。


 星川が?いつも私と帰っていたのに、他の学校の女の子と?


 彼は私の方を見なかった。申し訳ないとでも言いたげに、また、私をあざむいて愉快だとでも言いたげに、顔をかくしていた。


 一瞬で、私の胸の中の堤防ががらがらと崩れるのを感じた。朝の明るい陽射しがカーテンを翻して窓辺にこぼれる。教室の幼い喧噪が耳から遠のいて、尖った静寂が、かわりに私を刺す。


 私に訪れたそれらの悪感情は、突如として湧き出すものではなく、ゆっくりと、内部から感染していく麻痺のようなものだった。私の感情の息の根が止まって、どれほどかの痛みが刺すのかを、想像する余地さえもなく。


 「ねえ」


 「…なんだよ」


 男子たちが去ったとき、私は星川に声をかける。星川はかくしていた顔を見せた。顔が緊張と困惑でこまかく震えていたが、瞳にはどこか遠くを見るような、冷めた光がはり付いていた。


 「はーいみんな席についてー。朝会始めるわよー」


 私は先生の張りのある声にびくっとして、さっと顔をそむけた。麻痺はじわじわと私を侵略していた。何もわからない、何も感じられない。私はしびれた自分の心身の重たさだけをたずさえて、抜け殻のような一日を過ごそうとしていた。




 その日、星川は帰りの会が終わるやいなや、先生につれられて職員室に行ってしまったから、二人で話し合う時間が取れなかった。


 そういえば確かに、最近星川と一緒に帰る日はぐっと少なくなっていた。いつも、友達と帰るから、とか、先生に勉強教えてもらうとか、とかなんとかで私とは帰らなくなっていた。でも、私は何も思わなかったし、いわゆる嫉妬とかいう感情もほとんど起こらなかった。


 けれど、星川が他の小学校の女の子と付き合っているという噂が耳に入ったとき、私は確かに困惑して、憂鬱にさえなった。まるで私が教室で星川の隣の席に座っていること、少し前まで彼と毎日のように一緒に帰っていたその日常すべてが否定されているかのようだ。


 その日、私は友達と一緒に帰った。たわいない話題が繰り返され、私はそれに合わせて笑う。けれど、私は人見知りで陰ができやすかった。そのとき星川とのことで心にできた暗がりや、劉鍇さんという大人の中国男性とのことなどは話し出せず、重たい気分で彼女たちの輪に入っていた。


 「ばいばーい」


 他の女の子たちと道半ばで別れ、それぞれの家路につく。星川と別れるのはもうちょっと先にいったところだったな、と一人で思い出して、ため息が出た。


 いつもの公園の前を通ると、ノッポな影がぼんやりと立っていた。劉鍇さんだ。


 私は、いつものようにおどけた調子で呼びかけたり、嬉しさで走って公園に向かうこともせずに、ゆっくりと公園へと入って行く。


 彼は私の姿を認めて「よう」と言わんばかりの軽やかさで、右手をさっと上げて私にあいさつをする。


 私はそんな彼のしぐさを、何も言わずにじっと見上げた。


 胸の中でいろんな言葉が飛び交う。ある言葉は私を罵り、ある言葉は慰め、またある言葉は哀れむ。私はとみに自分の弱弱しさ、か細さが身に染みて、鼻の頭がくにゃっとなって、熱い水が目ににじんでくるのを感じた。


 劉鍇さんはびっくりしたように、私の肩を両手で支える。力強い、男の人の手が、私に強く触れた。私はもう立っていることもできなくなって、腑抜けた両足をたたんで、劉鍇さんのお腹と腰へ、頭から、続いて両肩、胸と、身体という身体を彼に預けた。…




 私は乱れた呼吸で、声を枯らして、心にあったものを劉鍇さんにしゃべった。


 私が吐き出したのは、ぐちゃぐちゃになった積木のような言葉で、形をなさず、ただバラバラで無邪気だった。


 どうして、どうして、という言葉を私はよく使った。どうして星川は私を好きになってくれなかったの、どうして星川が他の女の子と帰ってたのを聞いただけで、こんなに泣いているの、どうして私はこうなの、どうして、どうして…あふれ出てくる涙とともに、いろんな言葉が私の口をついて出てきた。


 そもそも、涙だってもうずっと流していなかった。最後に泣いたのは、小学一年生か二年生のとき、体育の授業でどうしても逆上がりでできず、居残りで先生に怒られながら練習したとき以来じゃないだろうか。そのときも、こういう自分の弱さとか、どうしようもなさとか惨めさが、じんわりと私の胸の奥を濡らしたものだ。自分で自分を哀れむなんて、決していい趣味とは言えないけど、私は弱いから、自分を守るために、そうしないといけない時があった。


 劉鍇さんは、そんな私を両手で支えながら、ずっとうなずいていた。彼のお腹は、すっかり私の涙でべたべたになっていたけれど、私がふと顔を上げたとき、彼はじっと私の目を見つめながら、口をきゅっと結んでいた。「大丈夫だぞ。俺はいつだってお前の味方なんだから。」そんな言葉が聞こえてきそうな気丈さと温かさがそこにはあった。


 私はもう一度、彼の身体に私の重心をあずける。えぐっ、えぐっ、と不規則な呼吸を続けて、この世界には私と彼しかいないかのように泣いた。事実、もうそこには私と彼しかいなかった。泣きながら、彼の身体に染み付いた大陸の香辛料の香りや、がっしりとした身体の芯にノスタルジーにも似た恋慕を覚えていた。




 20分くらい泣き続けて、私は静かになった。


 私はまだしっとりと涙のにじんだ瞳で、劉鍇さんを見上げる。まぶしい夕日が彼の背後から照り付けて、彼の顔に端正な影を刻む。


 彼は作業着のようなズボンのポケットに手を突っ込んで、何かを取り出して私に見せた。


 そこには、小さな袋に、茶色っぽいのっぺりした板のようなものが入っていた。


 「牛肉乾」と書かれている。よく見ると袋の表面に小さいキズがついていて、少なくとも新品という感じではなさそうだ。愛着があって、いつも持ち歩いているもの、という印象を受ける。


 彼はそれを私に差し出して、にこにこと笑っている。彼はポケットからもう一つ「牛肉乾」を取り出して、口で噛むしぐさをして見せた。「食べて。」そう言っているのだ。


 私はおずおずと彼から小さな袋を受け取り、ぺりぺりと開ける。鼻を近づけてみると、スパイスのほのかな香りがして、おいしそうではある。


 私はそれをかじってみた。固かった。けれど、しだいにそれはやわらかくふにゃりとしてきて、噛みやすくなってくる。口に入れると、じんわりとしびれるような辛みが残る。けれど、私にとってその味は比較的なじみやすく、好ましかった。


 私と彼はそのとき、公園のベンチに座っていた。お互い無言だった。さっきまで彼に対してのべつ話していた私もぼんやりと疲れて、彼のくれた「牛肉乾」を食んでいた。


 「これ、おいしいね。私、好き」


 私は、彼の方を向いて、言った。夕陽の光線が、涙で濡れて暑さで脂の膜がはった私の頬を焼く。


 劉鍇さんも私を見て、もぐもぐという音が聞こえてきそうに「牛肉乾」を頬張りながら、不器用そうに笑った。


今ベンチに女の子と並んで座ってお菓子を食べている劉鍇さんの姿を想像して、なんだかお父さんみたい、と思うとなんだか和んで、くすっと笑いがこぼれた。


 「あー」


 劉鍇さんは「牛肉乾」を食べ終わると、ちょっと楽しそうに顔をほころばせながら、公園の一角にあったシーソーを指さして、言った。


 「あれ、何?」


 「あれはね、シーソー」


 「シソ―?」


 「シーソー、だってば。ほんっと耳悪いよねー」


 私は彼をからかって、あははっ、と笑った。劉鍇さんは、首をかしげていた。すっかりなじんだ劉鍇さんの困った顔が、かわいく見えてしまう。


 「仕方ないなー、教えてあげるね。こうやって、遊ぶんだよ」


 私はシーソーへと走って行って、その端っこに座る。すると、もう片方の端が勢いよく跳ね上がり、私の座った側はその下にあったタイヤにがすんと叩きつけられ、お尻に衝撃が走る。


 劉鍇さんはぽかんとして私を見ていた。


 「ねえ、何してるの?はやく向こう側に座ってよ!」


 私は身体を上下させながら、高く持ち上げられたもう片方の端を指さす。劉鍇さんはそれでやっと理解できたらしく、シーソーのそばまで来ておそるおそる端へと座った。


 「きゃあっ!」


 びっくりするくらいの強さで私はぐっと上まで持ち上げられた。劉鍇さんの方が圧倒的に重いのだ。


 すこし高いところから見る公園は、ずっと小さく見えた。見るところが変われば、こんなにも印象が違うんだな。私はしばしその光景にうっとりとなって、砂場に伸びる遊具の影を見つめた。


 「ヨー」


 彼はもう一つ前へ移動する。それでも、彼の側は沈んだままだ。さらにもう一つ前にくると、彼の身体はすこし浮いて、また私の身体はすこし沈んで、ふらふらと不安定な揺れを呈する。彼はそこからさらにじりじりと前に出る。すると、とたんに一番端に座っていた私の身体は沈み、彼の側が跳ね上がった。


 「やったあ、勝ったあ!」


 私は声いっぱいに叫ぶ。


 「アーッ!」


 彼はばたばたして、後ずさりを始める。すると、また私の身体がふわりと宙に浮く。


 シーソーで遊ぶといったところで、その程度のことだ。どちらかが上がり、どちらかが下がる。その繰り返し。だけど、そのときはそれが病みつきになるくらい面白くて、いっぱい笑った。劉鍇さんも笑っていた。汗が噴き出してきた。


こんなに楽しく遊んだのがいつ以来なのか分からないくらい爽快だった。


 「うぉ、あい、にー」


 風に混じって、私の口から、どこかの漫画で見た言葉がもれた。


そのとき、私は高く上げられたシーソーの端で、夕陽の熟れた香りと、秋風のひんやりした冷たさを感じて いた。


 公園には依然として人がいなかった。きー、きー、という無機質なシーソーの音が、沈黙の間隙を埋める。日はとっぷりと暮れていて、遊具の影の色は濃度を増し、徐徐に立ち込めた夕闇の色に同化しようとしていた。


時間の流れ、季節の流れは、瀟洒に、しかし足早に、私達のそばを通りすぎていく。


 劉鍇さんは、ふっと優しい瞳を細めて、顔をほころばせた。




 しばらく、「牛肉乾」の辛味が、舌の表面に疼くように残って消えなかった。


 その日、劉鍇さんとの間であったことは、不思議な味わいを私に残した。星川くんが他の学校の子と一緒に帰っていた。その事実は、たしかに一時期私にショックを与えたけれど、劉鍇さんとのことは、それよりもっと色が濃く、深みがあった。


 そのことを感じ取ると、私は劉鍇さんのことばかり考えてしまうのである。そのほうが、私にとって快感だった。


だから、翌日の授業後に「永野さん、ちょっと」と先生に声をかけられて呼び出されたときも、ぽわんとした頭で、どうせ授業でぼうっとしていることでも注意されるのだろう、なんてわけのない楽観ばかりしていた。




 「いいわよ、座って」


 そこは、ふだん授業では滅多に使うことのない「総合ルーム」という部屋だった。たまに学校祭の準備や物を置くのに使うこともあるが、基本的には入ることのない部屋だったから、私は好奇心を刺激された。


 机も椅子もぐちゃぐちゃで、殺風景に見える。けれど、私と先生が向かいあうように並べられた机と椅子だけが妙に生真面目で、違和感があった。


 「最近、すごく寒くなったわよね。永野さんは大丈夫?最近身体の具合壊したりしてない?」


 「別に。大丈夫です」


 先生は軽くうなずく私をじっと見ていた。怒りと、悲しみを押し殺したような固さが、そこにはあった。


 「あのね、永野さん」


 「はい」


 「最近、変わったことはない?」


 固い氷の板のような言葉が、遮断された教室の空気を裂いた。


 「変わったこと?」


 「そう。変わったこと」


 顔からさっと血の気が引くのが分かった。足は震え、舌は乾きだす。


 「そうですね…その、私の隣の席の星川っているじゃないですか、星川が、最近…他の学校の子と付き合ってたりして(私は気が動転してしっかりした日本語を話せなくなっていた)、すごい辛かったんです。付き合うとかじゃないんですけど、なんか嫌で、嫌だったんです…」


 私は機械のようにしゃべった。感情はうつろで、誰がしゃべっているのか分からなくなった。ただ、先生の射るような目が痛い。


 「そう」


 先生は短く答えた。


 「ごめんね。先生には分からないけれど、星川くんにもしも言いたいことがあるのなら、星川くんに話してみればいいと思うわ」


 「はい、そうですね。今度、話してみます」


 私はそこで、笑顔を作って、先生の方を見た。けれど私は笑顔を作るのがやっぱり下手で、先生はくすりとも笑わず、結んだ口から次の言葉が私を刺した。


 「永野さん、最近、まっすぐ家に帰ってる?」


 「あー…」


 先生から次の言葉が出るのを待った。それで、なんとかお茶を濁すしかない。


 けれど、先生はあくまで私に「はい」か「いいえ」の二択を強いた。


 押し黙ったまま、ずっと私を見ていた。私の背後から差し込む夕日が、先生のすべすべした顔と、そこにきらきらと光るメイクの跡をほのかに照らしている。


 「まっすぐ…帰っています。ただ、たまに友達と遊ぶことはありますけど」


 「友達?それは、この学校の子?」


 「そう…です。あー…でも、たまに、そうじゃないときも、あるかも」


 私はあくまで平静に答えようと努めた。本当に、他の学校の仲の良い女の子と遊ぶときのように。


 「そうなのね。それは、男の子?」


 「男の子…というか、男の人?かな?よくわかんない」


 先生の目がきっと光り、顔にかすかに興奮の色が差すのが分かった。


 「そうなのね。実はね…最近、『永野さんが夕方知らない男の人と公園で話してる』って知らせてくれる子がたまにいるのね。だから、先生それ誰なのかなーって思って。親戚の人?まさかお父さんじゃないよね」


 「わかんない。でも、たぶん外国人?あー、中国人って言ってたかも」


 「中国人…?」


 先生はびっくりしたように目を見開いた。


 「ねえ、永野さん」


 先生は、かすかにうるんだ瞳で──そう、確かにこのとき先生の瞳はうるんでいた──私にゆっくり語りかけるように聞いた。


 「いけないこととか、されていない?」


 いけないこと。


そこだけ妙な重みをもって私に投げかけられた言葉。いけないことはいけないことだ。私にはそれは分かる。けれど、でも、それは何だろう?


 なぜ、そんなことを聞くのだろう?


 悲しくなって、涙が自然と出てきた。


 「されてません。そんなことする人じゃないんです。だから、やめてください、本当に」


 私は分からなかったから、虚勢を張ってしゃべった。


 そのときの先生は、先生ではなく、うるんだ瞳で私のように弱い子どもを見つめる、大人の女の人だった。いつも授業やホームルームのときに見せる冷たく厳しい姿はなく、やわらかい優しさに満ちた、しかしそれゆえの悲哀をも持った人だった。


 「あのね、永野さん。よく聞いてほしいの」


 先生は、またいつものようにぴしりとした顔で私に言った。


 「永野さんはね、まだ小学生なの。お父さんとかお母さんとか先生は、あなたに怒ることもあるけれど、永野さんを傷つけてやろうなんて、これっぽっちも思っていないの。けれど、そのほかの大人は──良いひとばっかりじゃない。中には悪い人もいる。永野さんにいけないことをしようとして、わざとにこにこして、友達みたいな顔をして、近づいてくる男の人だっているの。その中国の人は、本当に永野さんと友達になりたいだけなの?もしも、──いいえ、やめておくわ──いい?これから、その中国の人と会っちゃダメ。話すのもダメ。分かったわね?」


 「先生…どうしてですか?私は…」


 「危ないからよ!いい、とにかくもうその人に関わったらダメ。先生はね、永野さんを守るために、こういうことを言っているんだから」


 会っちゃダメ、話したらダメ、関わったらダメ、あまりにも多くの、ダメ…いったい、私は何か悪いことをしたのだろうか?先生の強い口調がいちいち私の身体に刺さり、押さえつけられるのを感じる。


 「…はい、わかりました、先生」


 「うん…そうして」


 「私、もう帰ります」


 力の入らない顔をそむけて、教室を出ようとする。気づいたら、窓から差し込む日はもう赤かった。


 「先生は、永野さんの味方だからね」


 後ろから、懇願するような声が聞こえた。私は聞こえなかったふりをした。




 その日家に帰ると、お母さんはリビングで新聞を広げて読んでいた。


 「お母さん、ただいま」


 「おかえりなさい」


 お母さんは、そのこまかい文字がぎっしりと敷き詰められた紙面から目を離さず、なかば気の抜けたような声で私に答えた。


 「ねえ咲良さくら、中国の人って怖いわねぇ」


 ぴくん、と私の身体が反応した。学校で先生にあんなことを言われたばかりで悶々と考え続けていたから、家に帰っていたときも意識は散漫としていたのだが、お母さんのその言葉はあまりにもタイムリーだった。


 私はどう反応したらいいか分からなかったから、うん、と息だけ漏らして、黙ってお母さんが話すのを聞いていた。


 「中国の人がね、今いっぱい日本に来てるんですって。それで、日本の土地とか建物とかの不動産をいっぱい買いあさっていくの!このへんの山とか施設とかもそう。そのうち、このへんの土地は全部中国人のものになって、中国人が移り住んできて、中国の領土になっちゃうかもねぇ…」


 お母さんは難しい言葉で説明していたが、言っていることの怖さは、いつになくお母さんが真剣な顔をしているから伝わってきた。「中国人がいっぱいやって来て、日本は中国の領土になってしまう。」そんなこと私は今まで考えたことがなかったから、きまりが悪くなった。


 「なにそれ?このへんにも中国人が来てるの?」


 私は頭の中で劉鍇さんのにこにこした笑顔を思い浮かべながら、母に聞いてみる。


 「もちろんよ。山とか、今は使ってない施設とか…そういうところを中国の人が買っていって住みつくの。そういえば、どこかに中国人専用のゴルフクラブができる、なんて話も聞いたことがあるし、心配ねぇ…」


 「あ、そう」


 「咲良も気を付けないとだめよ」


 私はそういうお母さんの声を背に、ばたばたと自分の部屋に駆け込む。


 部屋に駆け込むなり、抑えきれずに泣いた。涙が止まらなかった。


どうして?


どうして、劉鍇さんは日本に来たんだろう?なぜ、彼は私と毎日のように話しているのだろう?・・・仕事のことを聞くたびに彼はうろたえるけれど、それだって本当のことは言うわけにいかないからなのだ。本当は日本を侵略して、中国の領土にしてしまうために、ここに来たのではないのか。考えれば考えるほど、鳥肌が立つようだった。彼の笑顔がはがれ落ちて、冷たい嘲笑を見た。


私は事実が明らかになりそうになると、嵐が吹くような不安を感じた。それは、必ず私を傷つけるものだということを、私はすでに知っていたからだ。


自分の愚かさが憎らしくなって、自己嫌悪に陥った。どうして、信じちゃったんだろう。彼が日本に来たことも、私と話して仲良くなったことも…全部嘘と打算で塗り固められたものに過ぎなかったんだ。先生から言

われたことをふわりと思い出す。氷のような感触が、体中を駆け巡って、自分の身体を支えているのが困難になるくらい、くらくらとしてしまう。




 「ねえ」


 昼休み。私は星川を人のいない教室へ呼び出していた。


 「…なんだよ」


 「私のこと、避けてるでしょ」


 星川は、きゅっと口をつむぐ。まるで悪いことをした子どものように伏せた目を弱弱しく流して、目をそらすのがやっとみたい。


 「私が公園で男の人と話してるの先生に報告したの、星川でしょ」


 星川ははっとなって、私の方を見た。私は波打ち始める胸に知らんぷりをして、まっすぐ、堂々と星川を見るようにしていた。


 「…だったら、なんだよ」


 「いつから知ってたの?」


 「…忘れた。けど、お前と道で別れて、そのあとちょっと聞きたいことあってお前の後追いかけたんだけど…そしたら、知らない男と話してた」


 「そう」


 「あいつ、誰なんだよ」


 星川は、私を詰問するみたいに、それなのにおびえたように、細い声を私にぶつける。その声には、明らかに憤りの色がにじんでいた。


 「中国の人。前、牛に追いかけられた話したでしょ。そのとき、その人が助けてくれたの。それから、仲良くなった」


 「何それ、きっも」


 星川がせせら笑うように言ったので、私はむかっとしてすこし前に出て言う。


 「は?別に私が誰と仲良くなろうと勝手でしょ。それをわざわざ先生に報告するとか、ほんと意味分かんないんだけど。星川だって、他の学校の女の子と手つないでたくせに」


 「あいつは、知り合いなんだよ」


 「だから何?知り合いの女の子だったら手をつないで帰っちゃうんだー。きっも」


 「なんなんだよお前。おかしいぞ、なんか」


 昼休み、同級生が廊下で騒ぐ声が遠くに聞こえる。先生がそれを注意するのが聞こえて、喧噪は一瞬散るけれど、またそのボリュームは大きくなりはじめる。まだ真昼間だ、太陽の光は白っぽく、あの公園のような薄暗い、一日の終わりを示すとろけるような色彩をたたえてはいない。


 「私、おかしいの?」


 「おう。・・・うまく言えんけど、うん」


 「そっか」


 水を打ったように私と彼は静かになった。自分の中の感情もいったん落ち着いて、この教室に入ってからはじめて気まずいなと思った。


 私は呼吸を整えて、教室のすみに置いてあったピアノの椅子に座った。


 「私、もうあの人とは話さないから」


 「は?」


 「は?って何。もう会わないし話さないよ。それで、いいんでしょ」


 ピアノにかけられた布を取って、鍵盤を開けて、私はのろのろと指を伸ばしてたたきはじめる。


 「ほら、昨日までの、降り続いた雨も上がり…」


 卒業式で歌うはずの歌だ。私はもう小学校の最終学年だ。中学校がどういうところか分からないけれど、そこはたぶん大人っぽくて、部活があって、定期テストがあって、…想像すると、不安と期待が混じったどきどきした心情が湧いてきたが、同時に、子どもっぽい私からの卒業をも象徴しているようで、熱っぽい切なさがこみあげてくる。


 「もう、話さない、か」


 「うん」


 「お前、それでいいの?」


 「うん。大丈夫」


 「永野」


 私は何?と聞き返しながら、変わらず、流れるように、ささやくように、鍵盤をたたき続ける。


 「俺さ・・」


「なになに?」


「俺、お前のこと好きだったんだよなぁ」


私はおかしくて、笑いがこぼれる。


 「なにそれ。あはは」


 「な、なんだよ、そんなに笑うなんて」


 「ううん、なんかね、面白いなって」


 「面白いってなんだ?」


 「ねえ、一緒に歌ってよ。せっかく私が卒業式の日に代表してピアノ弾くことになったんだからさ。ほら」


 「お、おう」


 「私も好き」


 明るい旋律は途切れることなく、私と星川しかいない部屋をいっぱいに満たす。


 そこに、私と星川のあたたかい声が流れている。演奏が止むと、私は、にっこりと笑って、星川の方を見た。星川は、照れくさそうに頬を染めて、ちょっと顔を反らした。窓の外の青空は、きりりと高く澄み渡っていた。




 その日の午後、私はずっと楽しかった。


 クラスの男子たちがしゃべっている内容も、いつもはばかばかしいのに、なぜかいちいち面白くて噴き出してしまいそうだった。


 考えてみれば、星川とは以前からまるで恋人同士みたいな関係で、ひょっとしたら暗黙の了解みたいなところがあったのかも知れないけれど、彼の口からはっきりと告白されるのはそのときが初めてだった。むろん、人生で誰かから告白をされたことも。


 星川は、誰か知らない女の子と手をつないで帰っていたそうだ。けれど、それだってたぶん私が劉鍇さんと仲良くしていたのとそんなに変わらなくて、ちょっと見せびらかしてみたかったり、ドラマみたいな展開にうっとりしてみたかったりしただけなんじゃないだろうか。本当は私のことが好きだったのだ。


 それを思うと、私は大好きな音楽を奏でて、声いっぱい歌いたくなった。授業中なのに落ち着かなくて、愉快な気持ちが止まらない。


 もう、十分だ。




 いつもの公園の前。


 日が沈むのが早くなって、同じ時間を帰っているはずなのに、空気は寒く、星がほのかに空に浮かんで見える。


 劉鍇さんは、いつものように公園に立っていて、私を見ると「よう!」というふうに片手を挙げて合図をしてみせる。


 私はそれを見て、一瞬立ち止まった。


 それから、ゆっくりと劉鍇さんのところへ歩いていく。さく、さく、という砂を踏む音が妙に神経質に耳をたたく。


 「ごめんなさい」


 私が勇気を出して言うと、劉鍇さんは表情をくずさず、私の方を見た。


 「もう、劉鍇さんとは話さないよ。ごめんなさい。今日で、最後にしよう」


 このとき、まっすぐ相手の顔を見て話せなかった。


 どういったらいいか分からなくて、胸の鼓動の速さに頭とことばがついていかなくて。


 劉鍇さんはそのときやっと私の意味を理解したらしくて、笑顔がさっと消えた。そして、黒黒としたひとみが、なにかもの言いたげに、私の方を見た。


 「ごめんなさい」


 私は踵を返して、小走りに公園から出る。劉鍇さんは追ってこない。けれど、私はもう言うことは言ったんだ。これでいいんだ、これで、星川にも、先生にも、お母さんにも、後ろ指をさされなくてすむ。


もちろん、胸は苦しいし、痛い。


 けれど…


 だって、劉鍇さんはずっと私を騙してたじゃないか。




 季節はいよいよ冬に入ろうとしていた。


 私と星川が付き合っているといううわさはあっという間にクラスに広まり、からかわれることがいっぱいあった。けれど、それもすぐに落ち着いて、穏やかな時間の流れの中で私は学校生活を過ごした。


 しかし、そんな学校での雰囲気と裏腹に、私の地元は徐徐にごみっぽい騒がしさが立ち込めるようになっていた。


 帰り道、星川と一緒に歩いていると、街の方からけたたましい拡声器の音が聞こえてくる。


 「中国人、日本を侵略するなー!」


 「土地を返せー!」


 「美しい島国を汚すなー!」


 いつの間にか、町で大挙して押し寄せる中国人へのデモが行われるようになっていた。ふぁんふぁんというハーモニカのような音とともに、十数人くらいの集団が叫んでいるのが聞こえる。それは近づいたかと思うと、遠のいていく。実体のない山びこみたいだ。


 「なんなんだ、あいつら。うるせえなあ」


 「たぶんね、中国人が日本を侵略してるから、みんな怒ってるんだよ」


 「はあ?侵略?」


 「知らないの?」


 私は、星川にこの前お母さんが言っていたことを話してあげる。


 「ふーん。よくわかんねーな」


 「でも、怖くない?中国の人、やっぱりうちの地元みたいな自然豊かな田舎とかにもいっぱい来て、どん

どん占領しちゃうんだよ!」


 「ってゆーか」


 星川はすずしい目をして言う。


 「そしたら、お前と話してたその中国人、そいつも絶対ヤバいだろ」


 私は力なくうなずく。


それきり、なぜだか私と星川の会話はしばらく止まってしまった。




 星川と別れて、帰路を急ぐ。


 公園にさしかかると、公園の入り口のところに、あの人が立っていた。


 私は、目を合わせないようにして、足早にそのそばを通り過ぎようとする。


 すると、劉鍇さんは、私の前にさっと立ちはだかった。高い、山のような身体がじっと私を見下ろす。


 私はそれも避けて、走り抜けようとしたが、劉鍇さんがそれをはばむ。


 見上げると、劉鍇さんは一枚の紙を胸の前に掲げていた。


 「?」と書かれた、一枚の紙だった。


 劉鍇さんはその紙を私に見せながら、不安そうな、困惑した顔で私を見ている。


 …どうして?


 私の顔がくしゃっと崩れるのを感じて、劉鍇さんの胸のポケットに入っていたペンを急いで取って、劉鍇さんが掲げていた紙に、思い切り書き付けた。


 もっともっと大きい、「?」を。


 私はもう声を出すことが出来なくて、さらに「?」を描き続けた。紙が「?」マークでぐちゃぐちゃになっても、私はまるでそれが言葉のすべてであるかのようにそこに書き続けた。誰にも答えられない、私さえ知らない問いを、無責任に、目の前の大人にぶつけながら。




 どうして?

 どうして?

 どうして?…




 町で行われるデモは、少しずつ激しくなっていった。


 休日は、部屋の中にいても人々の叫ぶ声が聞こえる。外を歩こうものなら、とげとげしい言葉を書いた旗や、荒っぽい掛け声が嫌でも目や耳に入ってくる。


 そうした動きは、私の日常生活にも少しずつ影を落としはじめた。クラスの男子も中国人がどうとかこうとかいう話を始めたし(その子はもともとそんな話をするような子ではなかったのだ)、町のどこかで誰かが中国人と喧嘩をした、とかいう噂も耳に入る。人が人を傷つける火種が、知らないうちにそこら中にばらまかれているかのようだった。


 「みんな、聞いて」


 担任の先生が、帰りの会が終わるときに、皆に呼び掛けた。


 「みんな、最近町で大人たちが騒いでいるのは知ってるわね。けれど、絶対にその人たちと一緒に叫んだり、ついて行ったりしたらダメ。あと、外国の人に話しかけられても、無視して走って逃げること。分かった?」


 「せんせー、外国の人ってどこの国の人―?」


 お調子者の男子がふざけた調子で手を挙げる。女子がそのそばで、ひそひそと何かを話し合っている。


 「どこだっていいでしょう。とにかく、絶対に巻き込まれたらダメよ。何かあったら先生とかお父さんお母さんに相談すること。…みんな、もうすぐ卒業よね。先生、みんなに元気に卒業してほしいの」


 クラスはざわざわとしはじめ、とみに騒がしくなる。やがて教室はパニックのようになり、先生がなだめようとしても、なかなか収拾がつかなくなった。




 「ねえ、星川」


 「なんだ?」


 「中国人のこと、どう思う?」


 帰り道、いつものように私は星川と帰りながら、聞いた。


 「どうって…ヤバいだろ。普通に帰ってほしいよな」


 「そっか」


 「お前は?」


 「…」


 「おい」


 星川はするどい目で私をにらんでいた。私はびくっとした。


 「おかしいだろ。お前、騙されてたんだぞ。お前はあいつのこと友達だって思ってたのかもしれないけど、あいつは変質者だったんだよ。日本を侵略するために来てるんだぞ?だから、みんなこんなに怒ってるし、追い出そうとしてるんだよ、もうあいつとは話さないんだろ?いいかげん気づけよ。お前、最近本当変だぞ…」


 いつにない剣幕で、彼は私にまくし立てた。私はそれらの言葉にいまいち焦点が合わず、ぼんやりした調子で聞いている。


 そうだ、彼は私を騙そうとしていた。私は、彼に殺されるかもしれなかった。怖い…シーソーで遊んだことも、舌を刺すような牛肉乾の異国の風味も、彼の優しい笑顔も、すべて…一連の記憶を、さざ波のようにゆらゆらと繰り返す。私には分からなかった。分からなくて板挟みで、泣きそうだった。


 でも、結局私の身体は機械だったのだ。


 「うん」


 無感情な声がついて出てくる。


 「私、騙されてたんだもんね。あの人とも、もう話さないし。だから、嫌いだよ」


 これで、いいのだろうか。星川はいくらかほっとして表情をゆるめて、「だろ?」と私に念を押した。


 「うん。これで、いいんだよね」


 私の身体は機械なのに、ほとんど懇願のような、涙交じりの声が出た。




 嫌い。


 それは、私が最も恐れている言葉だ。


 だから、最も言いたくない言葉でもあった。


 「とげとげ言葉」とか「ふわふわ言葉」なんていうけれど、わりと物事をはっきり言う性格の私でも、「嫌い」という言葉は使いたくなかった。


 私は、拒絶されるのが恐かった。だから、星川が私に対して「嫌い」と直接は言わなくても、拒絶の意思を明らかにしてきたときは、胸に亀裂が入るような痛みが走った。


 いま、私は星川の「好き」を取り戻すことができて、胸をなでおろしている。私は私に自信が持てなかったし、猜疑心が強かったから、他の人が私を「好き」と言ってくれないと、鏡の中の等身大の自分でさえ「好き」と思えなかった。


 私はそれだけでよかった。けれど劉鍇さんのことを思い出すと、どこかやりきれなくなる私もいた。私は、彼のことを「嫌い」ではない。むしろ、学校にいるどの男の先生よりも好きだった。


でも、・・・鏡の中の私をより好きでいてくれるのは、劉鍇さんじゃなくて、たぶん星川なんだろうと思う。


 それに、運が悪く、町でおかしな風潮が広まって、私も彼を拒絶せざるをえない状況になっている。私は心の中ではこんなにも劉鍇さんのことを考えて、つらい気持ちでいるのに・・・みんながみんな、私の気持ちも知らずに圧力をかけて、「嫌い」なんて最低な言葉を私に言わせているんだ。


 考えていると、授業中なのに涙が出そうになった。


 私は、顔を上げて、窓の外を見る。


 どんよりと曇った空から、冷たい雨が降り始めていた。ぽつ、ぽつという音はしだいに激しくなり、校庭を絶え間なく踏みならす。


 …私、今日傘持ってきたっけ。




 雨の降る帰り道を、私は走っていた。


 昼間に降り始めた雨に比べれば、雨脚は弱まったものの、依然として降り続いていた。この雨は、明日まで降り続くらしい。


 友達は傘を持っていて、途中までは中に入れてくれたけれど、別れてから、私は走って帰ることにした。雨はそれほど強くなかったので、走ればなんとかなると思った。


 途中、道ばたに誰か男の人が立っているのが見えた。私はばしゃばしゃと水たまりを踏みつけながら走っていたので、さして注意を払わなかったが、それは、しばらく見かけることのなかった、劉鍇さんの姿だったのである。


 それは、いつもの公園よりも手前にある、山沿いの道だった。


 大きなこうもり傘を手に、じっとたたずんでいたが、私に気づくと、ゆっくりと、しかし力強く近づいてきた。


 近づいてくる劉鍇さんの姿は、まったく知らない異質な男の人のようで、ごくごく身近な人のようでもあり、ぼんやりと煙る雨に打たれながら、夢の中にいるような錯覚を覚える。


 劉鍇さんは、持っていたこうもり傘を私の上にさっと差し出した(それは大人と小学生がぎりぎり入れるくらいの、大きな傘だったのである)。


 音が、雨のカーテンに吸い込まれる。私と劉鍇さんだけを切り取って、他の一切をこまかい霧の中に閉じ込めてしまう。


 なにか特別な意味合いを含んでいるかのように、劉鍇さんのひとみはかすかに潤んで見えた。口元はなにか言いたげに震え、静かな息づかいが今まで一度も彼に対して抱くことのなかった緊張感を覚えさせる。


 劉鍇さんは寂しそうに笑って、ゆっくりと歩き出した。私も彼の笑い方を真似して、彼について歩き出す。




 「明日、中国に帰る」


 いつものように、おかしなイントネーションで彼は言った。


 「中国に、帰る」


 彼はもう一度繰り返した。


 「そうなんだ」


 私は彼の顔を見ないで返事をした。


 それきり、会話はなくなって、静かな雨の音が私と彼の間を満たす。


 ゆっくり、ゆっくり、私達は歩く。


 途中、ひどくぐちゃぐちゃとした地面がある。それは雨に濡れた泥土ではなく、デモ活動で無造作に配られたビラである。「故郷を守れ!」とか「外国人の違法な定住を許すな!」とかいった攻撃的な言葉が書き連ねられているけれど、雨に濡れてどろりとなったそれらの紙は、むなしさを通り越して哀愁さえ覚えてしまう。


 沈黙が続く。雨の遠くから、曇天の闇に浮かぶ町の明かりのように、かすかなデモの叫び声が聞こえてくる。なにを叫んでいるのか、まったく聞き取れない。そのときの私達にとって、雨の音は思ったよりも騒がしかった。


 ・・・ごめんね。


 私の隣で黙り込んで、思いつめたような顔をしている劉鍇さんにかけてあげたい言葉。


 でも、どれを言えばいいのか、分からなかった。言っても伝わらないだろうけれど、そのときの私に、自分の気持ちを100%理解するなんて無理だ。


 だってこれは国語の読解問題なんかじゃない。算数の複雑な文章題でもない。神様にでも聞かないと、分からないだろう。


しばらく歩いたところで、劉鍇さんはふと立ち止まった。


 そこは整備された道だったが、脇には草が生えて荒れ地っぽくなっている。その向こうには、町の明かりがにじむ、開けた場所だ。


 劉鍇さんは、ポケットから、小さな黒い箱を出した。


 傷ひとつないしっかりした生地の黒い箱だ。


 私はきょとんとしてその箱を見る。


 「Give you」


 彼はなめらかな英語でそう言った。


 箱を開けると、そこに金の指輪があった。


 「え・・・?!」


私はぎょっとなって、箱の中に置かれていたそれに見入る。


 かなり小さかったけれど、それは確かに金色に光っており、黒い布の上にぴったりとおさまっていた。


 私はそれまでこんなに近くで指輪を見たことがなかった。私に示された金の指輪は嘘みたいにきらびやかで、真実みたいに重い質感があった。


 これを、私に・・・?


 「Give you」


 もう一度、彼は言った。


私が困惑した瞳でためらっていると、劉鍇さんは、私の手に指輪の入った黒い箱を押しつけて、無理に持たせようとした。


私はためらっていた。どうして、私がこんなものをもらわなければならないのか?


 押し合いへし合い、ふと、彼の指先が私の指に触れた。


そのとき、私の中で何かが決壊した。


 違う、違う、違う。


 やめて。


 どうして、そんなことをするの?


 こんなの、絶対違うよ。


 私は、反射的に手を振り払っていた。


 ぱん、と乾いた音がして、劉鍇さんが手で持っていた黒い箱は宙を舞い、荒れた草地にぽつんと落ちた。雨に煙るどこかに、あの金の指輪はなげうたれた。


 劉鍇さんが差し出してくれた傘を走り抜けて、気づいたら、私はまた雨に打たれながら走っていた。劉鍇さんは追いかけてこなかった。




 それが、劉鍇さんに会った最後だった。




 「まず第一に」


 社会科を担当する男の先生は、放課後の職員室で、椅子をくるくると回しながらもったいぶった調子で話し始めた。


 「中国では、土地がとっても高いんだよ。たとえば、日本で土地が高い都市といえば東京だけど、その東京でさえ中国の北京や上海の郊外よりも土地が安いんだ。そして第二に、国の不動産の扱いの問題がある。そもそも中国では土地は国家のものだから・・・」


 中学に上がり、私はいつものように職員室に行って先生に質問をしに行っていた。そろそろ受験勉強を始めなければならない時期だ。吹奏楽部に所属していた私は、部活が終わった後に職員室で先生に質問をしてから帰るということを習慣づけていた。


 「なるほど、そうだったんですね。ありがとうございます」


 「自分で問題点を見つけて、それを聞きに来るというのは素晴らしいね。永野さんは、やはりこのあたりでは最難関のY高校を受けるんだろう?」


 「はい。私、将来は世界で活躍できる仕事がしたくて。そのためには、今からいろんなこと勉強しなくちゃいけないですから」


 「それにしても、一時期中国人がこのあたりに押し寄せてきて、デモになったこともあったらしいね・・・それはもう、2年前のことか。私が前いた学校は──ここからはいくらか離れた学校だったんだけど──中国人とのことは、そこまで大きな問題にはならなかった。けれど、この町は自然が豊かだし、なにより山の奥には貴重な水源地帯があるそうじゃないか。おそらく中国人は、それ目当てで、この町に入ってきたんだろうな」


 私は、こくん、とうなづく。そうなんですか?という意味あいで。


 「先生も中国にいたことがあるけれど、彼ら彼女らはおそろしくストイックな人たちでね・・・自分たちが生き残るために、強い主張をいとわない。目的を達成するために合理的と思われるものは、どんどん利用する・・・」


 「利用する」という言い方が、ひどく引っかかる。


 「まあ、最近いったんは落ち着いているみたいだし、しばらくは中国人とのことは心配しなくてもいいだろう。・・・永野さんは、この問題に、興味があるのかい?」


 「い、いいえ。そうでもないんです。先生、ありがとうございました」


 私はぺこりとあいさつをして、職員室を後にした。


 ひんやりと冷えた廊下に、私一人がぽつんと立っていた。ちょっと社会の先生の説明が長かったから、もう友達も皆帰ってしまっているだろう。


 仕方ないな、と一人ため息をついて、廊下に置いてあったカバンを持ち上げる。


 ふと、窓の外を見ると、グラウンドで野球部の一年生らしき男の子がグラウンド整備をしていた。


 傾いた陽がその男の子を照らすと、グラウンドに細長い影法師が伸びる。そのとなりに、グラウンドの端に植えられていた木の、さらに長い影法師がぼんやりと並び立つ。お互い並んでいるのに、片方は長く片方は短く、またお互いそっぽを向いているような距離感があって、なんだか切ない。


 ふと胸の奥がざわついて、かばんの中を探す。


 隅の方に、小さな黒い箱がある。


 あの日、劉鍇さんが私にくれた指輪の箱だ。


 最後に会って二日後くらいに、私はふと思い直して、あのとき払い落とした金の指輪をもう一度探しに行った。すると、箱と金の指輪は、そのときもまだあの草むらに落ちていたのだ。


 驚くことに、それは本物の純金だった。降り続いた雨の中でも錆びることなく、あの日と変わらない輝きで、私を待っていた。


 よく見ると、箱の布の下には紙のメモが入っていた。


 「いつまでも わすれないで  刘锴」


 ヘタクソなひらがなだったけれど、まっすぐで力強かった。その下には電話番号らしきものも書かれていたけれど、雨でふやけてしまってもう読み取ることができなかった。


 私は一瞬くすっと笑ってみせたけれど、すぐに切なさが胸を押しつぶす。


 誰もいない廊下の窓際で、私は指輪の輝きにじっと見入る。


 しばらくして落ち着くと、それを胸の奥に静かにしまうようにかばんに入れて、帰る準備をした。すると、後ろから私を呼ぶ声がする。


 「おい永野、お前今から帰りっか?」


 振り返ると、そこには星川がいた。サッカー部の白いシャツを着けて、小学校の頃よりずっと伸びた身長で、私を見下ろしている。


 「うん、今から。一緒に帰ろ」


 いつものように、小学校の頃と同じように、二人で並んで帰る。あたたかい星川の身体と声が、いつも私のそばにあった。


 そんなふうに、彼と一緒に明るく笑いながら、幸せを噛みしめていても、心の中では、記憶の奥底に埋もれてしまった、あの中国男性のことを考えてしまうのだ。




 なぜ、私と劉鍇さんは友達のままでいることができなくなったんだろう?あの日、劉鍇さんに対して私がぶつけたいっぱいの「?」は、今も消えることなく、胸の奥底で静かにたゆたっている。


 決して、私は悪くないのに。


 中国の人が、土地や資源目当てでこの町に大挙して押し寄せてきたことを、私は知っていた。私の多くの友達や先生は、同じように、劉鍇さんも私に対して何か悪いことをしようとして、近づいているんだよと諭した。


 でも、私はそれはあくまで政治の上での話じゃないかと思う。私と劉鍇さんの間でそんな会話が交わされたことなんて一度もなかった。私にとって劉鍇さんはいつも優しく私を迎えてくれて、心の矛盾も受け止めてくれる、初めての大人の男の人だったから。


 私はそう信じてる。


 でも、別れる日に私に純金の指輪をくれたこと、これだけはどうしても分からない。


 どうして?

 

 結局、あれが、私と劉鍇さんとの関係のしるしだったの?




 劉鍇さんにお願いがあります。私は今でもこの町に住んでいるから、もう一度、私に会いに来てくれないでしょうか。無理なら、手紙でもかまいません。


 あなたがくれた純金の指輪を、お返しであなたに送らせてください。それからもう一度、初めて出会ったあの公園で、ゆっくり話したいのです。


 だから、劉鍇さん、あなたは今、どこにいますか?






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ