帰り道
「ソフィア、いままで何処に……、……? 少し顔色が悪いですか?」
「いえなんでもありませんお母様。それよりお話が済んだのならすぐに帰りましょう早くすぐに」
変態に脅かされた心の傷は、愛しのペットに癒してもらった。
本当はエッテの謎の癒しパワーで治してもらうつもりだったんだけど、我が家のあちこちと繋がってる常時解放型のアイテムボックス、通称【袖の下】への呼びかけに応じて出てきたのは、エッテではなくフェルだった。
そのフェルによると、どうやらエッテはお兄様から頼まれ事の真っ最中らしい。
お兄様の頼み事なら仕方ないよね!!
男といえば、お兄様。
お兄様といえば、世界最高の男性であり、愛と美と優しさを兼ね備えた完全無欠の兄であり、全世界の女性が恋せずにはいられない魅惑のフェロモンを放つ至高の御方なのである。
かろうじて男という分類に当たるだけの変態なんかに脳の容量を割く余裕があれば、お兄様との楽しい妄想をする方がよほど健全。
そう気づいた後は、お兄様の優しい微笑みを思い出しながらフェルの背中を何度も撫でる事で、私はようやく、変態の恐怖を払拭出来たのだった。
「それではお父様。また」
「……ああ」
馬車の外で、二人の話し声がする。
お爺様の声が少し元気の無いようにも感じるけど、私にそれを気にかけるような精神的な余裕は無かった。
だって、魔法で強化した耳に、聞こえてくるのだ。
あの変態が、私を探す声が。
「あの馬車、ソフィアちゃんが乗ってるのかなー。もう帰っちゃうのかなー。俺に手ぇ振ってくれたりしないかなー」
アイツ絶対頭湧いてる。
相方のおじさんが注意してる声も聞こえるけど、間延びしたその声を聞く限りでは、立場上注意したにすぎない程度だ。ちゃんと首に縄掛けて縛っておいて欲しい。
あんな嬉々とした変態の前に顔なんて出したらどうなることか分かったもんじゃない。
早くおうち帰りたいよォ……。
「……ソフィア様。どこかお加減が悪いのですか?」
お爺様が用意してくれた馬車の中、自分では体の動かせないアイラさんの補助として一緒に我が家に移り住む事になったソワレさんが、頭を抱えた私を見て心配そうに声を掛けてくれた。
「あ、いえ。大丈夫です」
心配かけてごめんなさい。
ゴキブリ見つけて悲鳴上げちゃうようなものなので無視していいですよ、とまではぶっちゃけられないけど、少し気分が悪いという事にして横にならせてもらった。気分が悪いのは事実だしね。
そうこうしているうちにお母様の操る馬車は動き出し、私の心配とは裏腹にあっけなく門を通過。そのまま揺られていると、やがて街の喧騒が聞こえ始めた。
若い男性の気合を入れる声。誰かに指示を出す鋭い声。子供の元気な声。年配の女性の笑い声。声。声。声。
それら雑多な声に紛れるように、ポツリと。
ソワレさんの口からも、声が零れた。
「……アイリス様が、来られて」
――泣いている?
声は平坦なのに、何故かそう思わせる声音。
「……ソフィア様が来られてすぐ、アイラ様がお目覚めになられたのは、」
伏せられたままの瞳からは、どんな感情も読み取ることは出来ない。
それでも、分かる。
傍らにいるアイラさんの手を大事そうに握り締める、その姿を見れば。
彼女がどれだけアイラさんのことを想っているのかは、痛いほどに伝わってきた。
「お二人が何かをして下さった。そう考えて、よろしいのですよね?」
「……」
その質問に、私は肯定も否定も返すことができない。
お母様からの口止め。
その重さを、正確に図ることが出来なかったから。
でもソワレさんには、その沈黙だけで十分だったみたいだ。
「ありがとうございます。アイラ様をお救い下さり、本当に、本当に。いつか目覚めの時は来ると信じてはいました。それでも、もしもこのまま、と。……そんな、不安、が……。……っ」
深く下げられた頭が、とぎれとぎれの言葉と共に、小刻みに揺れる。
……優しい人なんだな。
スカートを濡らすその熱い感情の滴は、私には見る資格がないような気がして。
私は逃げるように視界から外した。
……十年以上、か。
それだけの期間、親しい人が寝たきりになるというのは、どんな気分なのだろうか。
それだけの期間、何の反応も示さない人の面倒を見るというのは、どんな気分なのだろうか。
私には何一つ、分かりそうになかった。
叔母さんが一緒に住むことになりました。




