セミになって飛んで行きたい
今ほどッ! もっと身体が小さければとッッ!!
今この時ほど強く願ったことなど無いッッ!!
どうかあの恐ろしいお母様の視線から私の姿を隠しておくれーッ! お願いだよう、カイル頼むぅ!!!
――という、切なる願いが届いたのか。
カイルの背中にぴったりと張り付き、ガクブルと震えていた私の行動は、幸いにもお母様を逆上させる結果にはならなかったようだ。
……不幸中の幸いってやつかな?
まあ安心するにはまだ早いかもしれないけどね。未だにお母様の怒りは絶賛継続中だけど、一応客人でもあるカイルの前では噴火しないように強靭な意志で抑え込んでるって可能性も充分過ぎるほどにありえるからね。
そんな可能性はできれば間違いであって欲しいんだけど、ほら、現実って結構厳しいからさぁ……グスン。
とはいえ、未だに私が無事でいるのも確かなわけで。
いやあ、生きてるって素晴らしいですよね。お母様のお説教なんか食らったら寿命が縮んじゃうからね。割とマジで。
こうして落ち着いて過去を振り返るだけの余裕が持てたことは大変に素晴らしい。ただその喜びを、素直に甘受できる環境じゃないのはほんのちょぴっとだけ素晴らしくないかなー、なんてことも、思ってみたりなんかしちゃったりして。
……いや嘘です。今のナシ。お母様はやさしい、ワタシダイスキ。
お母様には何度も心の内を読まれているというのに、私には学習能力というものがないのだろうか。また無防備にお母様の非難をしてしまうなんて……、って違う。今のは違うの。別にお母様を非難してたとかじゃなくて!
これはえーっとあの、そう! 私が! 愚かな私が悪いのであって!!
お母様の愛のムチを素直に受け止められない私がお馬鹿なだけって話なんですよねアハハハハ!
……えー、というかですね。わざわざこんな言い訳がましい思考なんかするまでもなく、私がとてつもないお馬鹿なのは見れば分かっちゃう事なんですよね、残念なことに。
なによりもまず、頭隠して尻隠さずを体現しているこの状況がね? お粗末過ぎて目眩がするよって話なんですよ。まともな思考をしていれば人から隠れるのに頭だけを隠すバカなんていないでしょう。そんな人が目の前にいたら「あの人、頭は大丈夫か……?」と疑いたくもなるでしょうよ。
そんな残念極まる人物が誰あろう私なわけでね。もちろん頭だって大丈夫な要素など何一つない。
悲しいことに、本当に、何一つ、安心出来る要素が無いんだよね……。
冷静になって改めて考えてみるとね、当然あの時の行動は過ちだったと分かるんだけど。何度考えてみても……もうね。もう、馬鹿かと。阿呆かと。脳の蕩けたノータリンかと。
愛想笑いでもしながら失神してた方がまだ現実逃避できるだけマシだったんじゃないかと思うんだよね。
思考を止めることは全面降伏にも等しい愚行だと理解しているのに、あの時はお母様の視線から逃れることしか頭になかった。少しでも考える頭があったのなら、カイルの背中で視界を遮るだなんて子供じみた方法は何の意味も無い、緊急避難にすらなり得ない愚行だとすぐに理解出来たはずなのに、あの時の私にはそんなことを考える余裕さえまるでなかった。それほどまでにお母様が怖かったのだ。
……っていうか、そもそも全然隠れられてないしね。お母様の視線から逃れるという当初の目論見すら失敗している。
これでは単に「私はお母様に叱られるようなことをしてますよ」とお知らせしただけだ。だというのに、未だにお母様からの何のお叱りも飛んでこない。
私にはこれが何よりも恐ろしかった。
恐ろしや。ああ恐ろしや、恐ろしや。
恐ろしいという言葉すら生温いほどに恐ろしい。お母様は今何を考えて黙っているんだろうね。
……今までも、私は散々お母様のことを怖い人だと思ってきたけど、どうやらそれでもまだお母様の真の恐ろしさを理解するには足りなかったみたいだね。お母様の恐ろしさには底が無いんじゃないかと今では思うよ。
……と、そんなことを考えながら、そろりとカイルの背中からそっと顔を覗かせてみたら。外れていて欲しいと願った私の予想は見事に的中。お母様の視線は未だ真っ直ぐに私を捉えたままだった。
もちろん何も見なかったことにしてカイルの背中に舞い戻りましたとも。私はほら、カイルに張り付く仕事が忙しいからね。
みんみーん、なんちゃって。いやあ、セミの真似事も楽じゃないなぁ……なんて……あはは。
…………。
……………………な、なんで誰も何も言わないんだろ。え、何この空気。何? 誰の発言待ち?
まさか私がカイルの背中から出てくるまでずっとこのまま……なんてことは、流石にないよね? まさかそんなことはありませんよね?
……えぇー、いやだぁ……。出ていきたくないよぅ……。
誰でもいいからこの空気ぶち壊してくれないかな。私がそう願ったまさにその時。
――ガチャ
執務室のドアノブの回る音が確かに響いた。誰かがこの部屋に入ろうとしている音だ。
まさかお兄様が私を助けに!?
ひゃっほう、流石は愛しのお兄様!! 実に完璧なタイミングです!!!
お兄様が現れたら真っ先に飛びつこうそうしようと、身体に力を入れて待ち構えていると、扉が静かに、少しずつ少しずつ開いていって。やがてその僅かな隙間から見えた待望の顔が――って、
……んん!?
「…………」
――スゥー、パタン。
少しの隙間だけを開けて部屋を覗いていたその人物は、部屋の様子を少しの間だけ窺うと、すぐに何事も無かったかのように再び扉を閉じてしまった。
…………え。今のってお父様……だよね? ……ん? なんだ今の。
……どうせ空気を壊すならもうちょっとキレイに壊せなかったもんかなと、私は現実逃避気味に、そんなことを考えていた。
「……学院でソフィアの良くない噂が流れているそうです」
「噂?ソフィアの?そうなのか?」
「事実確認は出来ていませんが、なんでも……、…………、……という話があるようで」
「――――――」
「なのでまずは二人に話を聞こうと――あの、聞いていますか?……これはしばらくは無理そうですね」
――という経緯があったようです。




