波濤~戦国時代連作短編小説集~
第一章 虚貝
第二章 間隙の夢
第三章 敦盛のあと
第四章 雁金無情
第一章 虚貝
松平元康(徳川家康)正室 ~築山御前暗殺事件~
「姫、なにをしておるのじゃ」
「貝あわせにございまする」
「貝あわせ?」
「はい。ふたつの貝殻をこうやってあわせるのでございます。竹千代どの(のちの家康)、こんなに貝殻がたくさんあっても、あうものはたったの一枚しかありませぬ」
「おもしろそうじゃ。わしにもさせてくれぬか」
「なりませぬ」
「なにゆえじゃ」
「貝あわせは女子のあそびにございまする。竹千代どのは海道一の弓取りになられるお方。女子のあそびにうつつをぬかされてなんとなされます。武芸の鍛錬が第一にございまする」
「姫はきびしいのぉ」
「いいえ、御屋形様(今川義元)は、竹千代どののことを、『竹千代は、いまは亡き祖父の松平清康どのに生きうつしじゃ。清康どのは勇猛果敢な名将で、存命中は三河一国をおさめておった。竹千代の父、広忠どのとは雲泥の違いで、われら今川の庇護など無用であった。祖父ゆずりの武将の血をうけついだ竹千代は、必ずや三河を強国として再興するであろう。わしは竹千代と手をたずさえて天下をおさむる日を心待ちにしておる』と、いつも仰せになられております。わらわもそう信じております」
「瀬名姫(のちの築山御前)?」
「はい」
「姫はまことに、三河の宿なしとさげすまれておるこの人質の、このわしが、三河の国主になると思うておるのか」
「御意」
「なにゆえじゃ、なにゆえ、それほどまでにこのわしが信じられよう」
「わらわは竹千代どのをお慕いしております。ただそれだけにございまする。今は不遇の身なれど、かならずや竹千代どのはご立派に大成なされます」
「姫、わしもそなたが好きじゃ。そなたがむすび合わせたその貝のように、終生仲むつまじく暮らしたいものじゃ。きっとそなたの望みがかなうようつとめよう」
「ありがたきしあわせにございまする」
天正七年(一五七五)八月二十九日、築山御前を乗せた輿が、浜松の南西、富塚に着いたのは、三河岡崎城を出立してから三日目のことであった。朝の晴天が嘘のように、午後から小雨が降り続いていた。異様に湿度が高く、むせかえるような暑さであった。
築山御前は輿にゆられながら、幼き日の家康との語らいに思いをはせていた。
「お方さま」
家康の家臣である野中三五郎重政の声は、地を這うように低く生気がなかった。
「重政、いかがした?」
輿の扉が静かに開き、御前が顔をのぞかせた。
「ハッ、申し上げまする。お方さまをのせた御輿は、浜松城には参りませぬ」
「なにゆえか」
「大殿の命にございまする」
「浜松へ渡るようにと申したは偽り(いつわり)か!」
「御意!」
「重政、家康どのは、この正室の築山を討ち取れと申したか」
「……」
片膝をつき、地面をにらみつけたまま顔を上げられずにいる重政のにぎり拳は激しく震えていた。
*
徳川家康の正室築山御前は、今川義元の妹婿、関口刑部少輔義広の娘として、天文十一年(一五四二)駿府に生まれた。駿河、遠江、三河の太守今川義元の姪にあたる名家の息女である。幼少の頃からその美しさは家中の憧憬を一身にあつめていた。義元もこの美貌の姪をこよなく愛していた。
家康の父、松平広忠は三河の領主であったが、弱小ゆえ今川の庇護を受けねばならぬ状況におかれていた。広忠はその忠義の証として、嫡男竹千代を人質として今川へ差し出したのである。
弘冶三年(一五五七)、今川義元の媒酌で、瀬名姫(のちの築山御前)は、人質として今川家にあった松平元信(竹千代‐元信‐元康‐家康)と祝言をかわした。のちに元信は義元の命により元康と名をあらためた。義元が尾張の国主織田信秀と信長の『信』の字を嫌ったことによる。
永禄二年(一五五九)、瀬名姫十七歳の時、元康とのあいだに嫡男の竹千代(のちの松平信康)を、翌年には亀姫を出産した。しかし二人が仲むつまじく暮らせたのはこの時までで、亀姫出産の永禄三年に一変する。
その年の五月十九日、上洛途上にあった今川義元が、桶狭間で織田信長の奇襲により討ち死にするという信じられない事態が勃発した。
今川の先鋒隊として出陣していた松平元康(家康)は、今川義元の訃報を知るや、瀬名姫とわ子らを駿府に残したまま、松平の居城であった岡崎城に帰還したのである。激怒した義元の嫡男今川氏真は、瀬名姫の父、関口刑部の首をはねた。
松平勢は駿府に残された瀬名姫母子を奪還すべく、今川の居城西郡城の鵜殿長照を攻め、長照の二子を捕らえた。松平元康(家康)は、二子と瀬名姫母子との交換を氏真にせまった。鵜殿長照は今川義元の妹を母にもつ血縁。氏真はやむなく人質交換を許諾した。
永禄五年(一五六二)、瀬名姫母子は無事岡崎城に入り、元康と再会した。歓喜した瀬名姫は、岡崎城に雅な築山を築造し、草花を愛でた。その優雅な姿から家臣たちは瀬名姫を築山御前と呼ぶようになった。しかし瀬名姫の喜びもつかの間、元康は今川との同盟を破棄し、織田信長と同盟を結んだのである。さらに信長との同盟の礎として信長の娘徳姫と嫡男信康との婚姻を成立させた。そして義元から授かった元康という名を家康とあらためたのである。
築山御前は次々と耳に届いてくる夫の政の一部始終が信じられなかった。御前にとって織田信長は伯父を討ち取った仇敵なのだ。夫は妻の実家を見捨ててその敵と同盟を結んだという。そればかりでなく、仇敵の娘と自分の腹を痛めた息子信康を結婚させるというのだ。やむをえずとはいえ、わが父(関口刑部)を死に至らしめたのも夫が戦線を離脱して岡崎に帰ったことが原因ではないのか。しかも夫は若い信康に岡崎城を明け渡し、自身は単身で浜松城へ赴任してしまった。
御前の苦悩ははかり知れなかった。岡崎に来て以来、ほとんど別居状態が続いていた。今川と縁続きにあたる築山御前を織田家の目をはばかり遠ざけようとした家康の思惑も理解できないことはなかったが、心中穏やかでない御前には、男の政などに気づく余裕はなかった。風の便りでは浜松では多くの側女に手をつけているという。
築山御前は浜松にいる夫家康のもとにたびたび文をおくった、
『あなたのいないひとり寝のさびしさに、涙が床にあふれて唐船が浮かぶほどです。いったいあなたはなにをしているの? わたしは鬼にでもなってあなたに思い知らせてやるわ』
これだけ激しい恋情を訴えても氷結した夫の心は融けない。もはや唯一のいきがいは元服して立派に成長した岡崎城主松平信康、わが子しかいない。信康は諸国の誰もが絶賛する武将となっていた。あの仇の信長も手放しで褒めちぎるほどであった。やがて御前の夫への恋情と嫉妬の炎は信康に飛び火する。
築山御前にとって目ざわりは信長の娘徳姫である。あろうことか御前は織田と敵対する武田領甲州出身の側室を信康にすすめたのである。策は的中し、信康は側室の虜となる。姑のいじめに耐えかねた徳姫は、普段から武田家ゆかりの医師を侍らせている御前の行状を書状にしたため、信長へ報告した。
「築山御前、武田家内通のおそれあり」
激怒した信長は、信康と築山御前母子の処分を家康に厳しく迫った。まもなく信康は岡崎城を出て、二股城に幽閉される身となった。父の厳罰に驚いた徳姫は泣いて詫びるが信長はとりあわなかった。
『大成する前に芽は摘むが上策』
信長にとって理由などどうでもよかった。わが嫡男信忠の力量に勝る信康は目障りだったのだ。徳姫を嫁がせたのも信康の動静をうかがう為であった。御前の夫へよせる恋情が取り返しのつかない事態をつくりだしてしまったのである。
そして数日前、浜松からの使者が岡崎の御前のもとを訪れた。
「こたびの一件につき、浜松へお渡りになるよう殿の厳命にございまする」
家康は家臣の野中重政に築山暗殺を命じていた。
*
「重政、そなたもわらわが武田と内通しておるなどと?」
「滅相もございませぬ」
「ならばなにゆえじゃ。なにゆえわらわの命を奪わねばならぬ」
こたびの家康の招請が自身にとって死出の旅となることを御前は察していた。
「若君の御為に……」
「わらわが命を捨てれば信康どのの助命は聞き入れられようか」
「御意」
依然、重政は頭をあげずに地面をにらみつけたままである。その肩に本降りとなった雨がふりそそぐ。
「今川の……この今川の血が、わらわに流れておらねば、かようなことにはならずにすんだものを。わらわがそなたたち三河武士からそしりをうけるはいっこうかまわぬが、信康どのまでが、なにゆえそなたたちから疎んぜられねばならぬのじゃ」
信長は徳姫からの書状にある真偽をたしかめるため、岡崎から松平の重臣酒井忠次と家臣の奥平信昌の二人を清州に呼び寄せた。信長の歓待に気を許した二人は、あろうことか、信康が側室にご執心であること、徳姫とのいさかいから織田家の侍女を手討ちにしたことなど、気性の荒い信康の傍若無人ぶりをすっかり露見させてしまったのである。信長が家康に、信康の処断を厳しく申し渡してきたのはこの後のことである。
「若君は当家にとって御宝にございまする。けっしてお方さまが申されるようなことはございませぬ」
「だまらっしゃい!」
御前は激した。
「ハハッ」
重政はぬかるんだ地面に深々とひれ伏した。
「かような仕儀をまねいた責をとり、信康どの側近のそちたちが腹切って詫びるが常道ではあらぬか!」
「ハハッ」
「とはいえ、終生この愚かな母が、息子を死地へ追いやったというそしりは、まぬがれようもない」
御前の瞳に涙があふれていた。
(わらわがいったいなにをしたというのか……)
岡崎に来てから家康は変わった。特に織田と同盟を組んでからは全く別人と思えるくらいで、もはや政敵となった実家の古女房などいらぬといわんばかりの豹変ぶりだった。
(駿府での愛しき日々は家康にとって保身のための偽りの暮しであったのだろうか。家康は自分に刃を向けているのだ。今、ここで死すことはかまわない。ただ、もう一度会いたい。あって真実を知りたい。ひと時であったにせよ、自分が本当に愛されていたのかどうか確かめたい。たとえその場で手討ちになろうとも……)
御前は瞑目し言葉を失っていた。重政は目頭が燃えるように焼けていくのを感じていた。お家の大事を救うつとめと知りつつも、主君の奥方を殺害するなどというのは尋常ではなかった。
「お方さま、御輿を乗りかえられますようお願い申し上げまする!」
重政はずぶ濡れの顔をあげてそう叫んだ。
「御輿をかえてなんとする。わらわを討つならばここでよい。わらわは見苦しく命乞いなどはせぬ。武人の妻らしく潔い死にざまを見せようぞ」
「いえ、そうではございませぬ。命をお捨てにならず生きのびてくださりませ」
「そちはわらわに生きのびよと申すか。生きて恥をさらせと申すか。そちはわらわを女子と思うて侮っておるのか!」
野中重政は家康から築山御前暗殺を命じられてより三日三晩、寝ずに苦悶した。
(恩顧ある殿の正室をなにゆえ殺さねばならぬのか。たしかに若君を窮地に追いやったのはまぎれもなく御前の仕儀によるものである。家中に御前に対する怨嗟が渦巻いていることも事実である。だがしかし、この手で命を奪うなどというのは……)
重政は苦肉の策を考案していた。御前を落ち延びさせるために侍女をひとり殺害するよう手筈を整えていたのである。
「重政、かような愚策弄するに及ばん。わらわはこの地で果てよう」
御前は雨に煙る山々をながめながらつぶやくようにいった。
「わらわがしあわせじゃったは、若かりし頃、駿府にて元信(家康)どのと暮らしたほんのわずかな日々じゃった。岡崎に参ってからは心休まる時がなかった。重政、わらわはそちたちが申すほど、生きしておけぬほど、わるい女子か? わらわはただ殿を慕っていただけなのじゃ。妻が夫を慕い、恋焦がれてなにが悪い。申せ重政、なにゆえ家康どのはわらわを疎んぜられるのか。なにゆえ、命を捨てねばならぬのじゃ」
「……」
重政は黙し、ひたすら平伏するのみであった。
「義元公さえ存命であったなら、かような不幸こうむるにおよばぬものを。あの桶狭間での今川軍の敗戦が、わらわを地獄へ突き落したのじゃ。憎きは織田上総介信長。死してもこの恨みはらさでおくべきか、重政!」
「ハハーッ!」
「よいか、わらわの首、かならずや信長のもとへ持参し、信康どのの汚名をはらしてたもれ。悪しきはこの母のみ。この愚かな母が為した所業」
「ハッ!」
「わらわの命などもうどうなってもかまいはせぬ。なれど信康どのだけは死なせとうない。もし信康どのを死地へ追いやるようなことでもあれば、わらわは首一つになっても、信長のもとへおもむき、見事刺し違えてみせようぞ!」
おもてをあげた重政は嘆願した。
「お方さま、なにとぞ、なにとぞ、御輿をうつってくださりませ」
「もうよい重政、そちの忠義、忘れはせぬ」
「ハハッ」
「女子とはつらいものよ。黙って耐えねば生きることもままならぬ。されどわらわは正直に、気の向くままに生きた。死をたまわるは戦国の世の習い。重政、家康どのにつたえてくだされ。武田家内通などまったくもってありはせぬ。わらわの存ぜぬ話。よいか、しかと、しかとつたえてたもれ、わが身、潔白なりと!」
重政は御前の言葉にこの世の無常を感じずにはいられなかった。
「最後の頼みじゃ、この文を浜松の家康どのに届けてくれぬか」
重政は御前から書状をうけとるとふところ深くに納めた。
御前はそれをたしかめるや否や、膝元に隠し持っていた懐剣で喉もとを深く突き刺したのである。
「ザザーッ」
ほとばしる御前の鮮血が御輿を真っ赤に染めていた。不意を突かれた重政は絶句した。血しぶきをあげる御前の上半身が前のめりに御輿から飛び出し、重政の前にうなだれた。
「なんということを……」
重政はとっさに首に刺さった懐剣を引き抜き、御前をかかえ起こした。
「重政、後生じゃ、とどめを……」
とぎれとぎれの御前の言葉が無残に響いた。
「ウォー」
重政は獣のような雄たけびをあげた。そしてその懐剣で御前の心の臓を刺し貫いた。
「お方さま、おゆるしくだされませ……」
重政は御前を抱きしめたまま大声を上げながら男泣きに泣いた。
「おいたわしや……」
無情の雨は激しく降りしきっていた。
築山御前絶命、享年三十八歳。
野中重政が浜松城に帰ったのは夕暮れを過ぎていた。
「重政、御苦労」
家康はなにごともなかったかのようにいつもの冷めた口調でいった。
「して築山はいかがした?」
「築山御前は北富塚にてご自害あそばされました」
御前絶命の瞬間がよみがえり、重政の目頭は再び熱くなった。
「そうか、殺したのか」
「ハッ?」
重政は家康の一言が信じられなかった。殺害を命じておきながら「殺したのか」とはいかなる意味か。重政は命令を受けてより今日まで一睡もせずに苦悶してきた日々が馬鹿らしく思えてきた。わが妻が死んだと聞いても同様ひとつ見せない酷薄な主君。一日千秋の思いでこの浜松へむかっていたあの御前の胸中を察すれば、重政の胸は張り裂けんばかりの痛みに襲われるのだった。
「築山はなにか申しておったか」
「武田家内通などわらわの存ぜぬ話、わが身、潔白なり、と仰せになられました」
「なにをたわけたことを。自分で蒔いた種。自業自得じゃ」
重政は家康への怒りがこみ上げてくるのをおさえきれなくなっていた。
「お方さまより書状をさずかって参りました」
重政は雨に濡れ墨がにじんだ書状を家康の前に差し出した。家康は書状に目をとおすと、片頬に笑みを浮かべながらいった。
「女子とは女々しいものよ。今わの際にまだかような戯言を書いてよこすとは。殺すは忍びないと思うていたが、後々(のちのち)まで災いを残すよりはましやもしれぬ。駿府時代からの長いつきあいじゃったが、重荷をひとつおろしたような気分じゃ」
そういうと家康は、書状を重政の前に放り投げた。
『わらわ不幸にしてこの仰せかうむるといへど、いかでか君を怨む心のつゆあるべき』
(かような運命といえど、あなたさまを恨む心など露ほどもござりませぬ)
「失礼つかまつります」
重政はいたたまれず席を立った。
「骨をおらしたの。ゆるりとやすめ」
「ハハッ」
重政は部屋を辞してわたり廊下に出ると、歩きながら自分の行動を激しく後悔した。
(あの時、なにがなんでも御前を御輿から引きずり出し、助けるべきだったのだ。殿から「殺したのか?」といわれたことを悔いているのではない。酷薄な主君のために御前の命を捨てさせたことを悔いているのだ。なにゆえこのようなつとめをせねばならぬのだ。命令を厳守した俺の誇りはいったいどこにあるというのか……)
野中三五郎重政は、この日を最後に出奔し、二度と家康の前に姿を現さなかった。武士を辞め、故郷へ引きこもったといわれている。
築山御前自害の知らせを聞いても、信長は信康への糾弾の手をゆるめなかった。信長は信康の首を待っていた。再三再四、浜松の家康に使いを出しては、信康の処断を迫った。
そしてついに、家康は嫡男松平信康に切腹を言い渡したのである。最初に介錯役を仰せつかったのは渋河四郎右衛門だったが、ことの恐ろしさに動転し行方知れずになってしまった。渋河四郎衛門の書置きには、『三代相恩の主の首を討つなど滅相もない』とあった。
家康はその大役を服部半蔵正成に厳命した。
天正七年九月十九日 遠州二股城
白装束に身をつつんだ松平信康の前には、父家康の使者として二人の家臣が沈痛な面持ちで座していた。
ひとりは服部半蔵正成、もうひとりは天方山城守通綱。ともに信康の介錯、検視という大役を背負っていた。
「半蔵、母上は富塚にて自害したときいたが、まことか?」
信康が沈黙を破った。
「御意にございまする。野中重政の報せによりますと、見事な最期であったとうけたまわっております」
半蔵は平伏したまま静かにこたえた。
「あの母上がの……」
「おいたわしゅうございまする」
二人の重臣はそういうと深々と平伏した。
「徳はいかがしておる」
「徳姫さまは大殿の命により織田家に帰参された由にございまする」
「さようか。わしもとうとうひとりになってしもうた。父上には絶縁され、母上には先立たれ、妻とは離縁の憂き目。呪わしい運命のもとに生まれてきたものじゃ。されど生まれいでたを悔いてはおらぬ。父上を恨む気もさらさらない。わが生涯、わずか二十年。微力なれど父上の助力となれただけでもしあわせじゃった」
「若君……」
たまらず半蔵が肩を震わせ嗚咽した。
「母上同様、武田家内通などというのは真っ赤ないつわり。かような戯言に踊らされ、汚名をうけたは余の不徳のいたすところ。わが汚名が父上に及ばぬよう、信康は、わが身潔白なり、と申して、見事、腹かっさばいたと伝えてくれ。お父上とは会うことも許されなんだ。この日を迎えるまでに一目だけでも会いたかった……」
「ハハッ」
両名はふたたびかしこまって平伏した。
「道綱、この母上から譲りうけたあわせ貝を二人の娘に届けてはくれぬか?」
信康と徳姫の間には、幼い二人の娘があった。
「かしこまりましてございまする」
「くれぐれも娘たちのことをよしなに頼む」
信康は懐紙につつんだ貝殻を自分の前に静かに置いた。
天方道綱は信康の前に進み出ると、両手で捧げもって懐におさめた。
「半蔵」
「ハッ」
「介錯たのむ」
信康は袂をひらき、刀を左腹部へ垂直に突き刺した。
「うむーッ」
信康は苦悶の表情を見せながらも、すかさず刀を右手前へ渾身の力をこめて引き、腹部を切り裂いた。
「介錯……」
無言の半蔵は長刀を信康の頭上に振りかぶっていたが、両手両膝がガクガクとふるえ、刀を振り下ろせないでいる。
「若君できませぬ。おゆるしくだされ!」
半蔵は長刀を放り投げると両膝をつき、天を仰いで泣き出した。
「たのむ……」
ひかえていた天方道綱が素早く刀をひろいあげると絶叫した。
「御免!!!」
血しぶきが飛び散り、一瞬のうちにあたり一面は血の海となった。信康の首は薄皮一枚を残し、胴体につり下がっていた。
「若君、若君、若君!」
服部半蔵は狂ったように信康の首にしがみついて慟哭した。
天方道綱は袂からころび落ちた虚貝を見つめながら、悄然と立ち尽くしていた。
〈この章 了〉
第二章 間隙の夢
~明智光秀の胸奥~
天正十年(一五八二)五月十六日
武田家を滅亡へと追いやった徳川家康は、織田信長より駿河一国を加増された。そのお礼もかねて、家康は安土城の築城祝いに大名旗本二十八名、小姓十二名をつれて上方見物に訪れていた。非武装手ぶらの物見遊山であった。
武装せず旅に出ることについては、諸将のあいだでずいぶんと意見が対立。ほとんどの家臣たちは軍備を整えるようにと諫言した。
しかし家康は、「右府さま(信長)は計算高いお方。われわれを一網打尽にしてなんの得になるか、そのくらいのことはおわかりじゃ。それにわれらがものものしいいでたちで京に乗りこめば、せっかく平和が訪れかけたと安堵しておる都の民にふたたびいらぬ不安をあたえることになろう」と諭した。
「しかし、殿。信康さまのこともござりましょう。つい先頃のことではありませぬか。古来より、備えあれば憂いなし、と申しましょうほどに」
本多平八郎忠勝はそれでも引き下がらず家康につめ寄った。家康の嫡男信康は、信長から武田勝頼と共謀したとの嫌疑をかけられ切腹に処せられた。正室の築山御前も同じく自刃。徳川家にとっては忘れられぬ悲劇であった。
「だまらっしゃい! そのようなこと、そちにいわれるまでもない。おなじ過ちをくり返さぬようにと、わしが忍従しておるのがわからぬか。このたわけめ!」
結局、家康のこの一喝で平服軽装の旅となったのである。
「殿、それにしてもこの城の贅沢なこと。天守閣が七重の楼閣ですぞ。まったくもって驚きでございますなぁ」
鳥居元忠が、城下を見下ろしながら目を丸くしていった。
「派手好みの右府さまらしいわい」
本多平八郎忠勝がふてくされたようにこたえた。
「平八郎どの、言葉をつつしみなされい」
年長者である本多正信がそういっていさめた。徳川家康は客殿の上座に大きな腹をつきだし、どっかと腰をおろしていた。
大襖がひらかれた。服部半蔵正成が廊下で平伏している。
「いかがした、半蔵」
家康がきいた。
「ハッ、申し上げまする。惟任日向守さま(明智光秀)、お目通りを願い出ております。
「なに、光秀どのが。すぐにお通しせよ」
「ハッ」
半蔵がさがると明智光秀が入れ替わりに入ってきた。烏帽子を冠した正装の光秀は鷹揚に平伏した。
「三河守(家康)どのにはご機嫌うるわしゅう存じ上げたてまつります。
「日向守(光秀)どの、かたぐるしい挨拶は抜きにして、さあさあ、お顔をおあげくだされ」
家康は満面に笑みを浮かべた。顔をあげた光秀の表情はさえなかった。
「わざわざ日向守どのが見えられるとは、いかがなされた?」
「すでに上様よりお聞きおよびのことと存じ上げまするが、それがし、ただいまより急遽、中国への援軍のため、備中へ参ることにあいなりもうした。それゆえ三河守どのの饗応役を近臣の長谷川秀一と菅谷九郎左衛門の二人に交代させていただきたくお願いにまかりこしました」
光秀は静かに言上した。
「これはまたご丁寧なごあいさつ恐れいりまする。右府さま(信長)からもくれぐれもよろしくとのこと。心おきなくご出陣なされませ」
「ありがたきお言葉を頂戴いたし、恐悦至極に存じ上げたてまつります」
光秀はふたたび平伏した。
「備中といえば羽柴どの(秀吉)が戦地でござりましょうや」
「さよう。ただいま高松城を攻略中にございまする。その援軍とのこと」
「日向守どのがご出陣となれば、毛利軍の敗退はわかりきったこと。この家康もご武運を心よりお祈り申し上げる」
明智光秀の徳川家康饗応役罷免は突然のことであった。家康の滞在は一週間。光秀は安土を案内したのち、京・堺と家康一行に随行する予定にしてあったのだが、家康が近江に到着する前日の五月十四日になって、突然信長は光秀に備中出陣を下知した。饗応に不備があったのか、それとも戦略的配慮からか、何も語らぬ信長の真意は量りかねた。
しかも本日、信長から言いわたされた内容は光秀を絶望の淵においやるものであった。
「現在の所領(近江、丹後)は没収。毛利領の出雲・石見を切り取り次第あたえる」
ようするに毛利領を平定しなければ城持ち大名から格下げにするという厳しいものであった。たとえ攻略に成功したとしても山陰僻地の行政がうまくいく保証はどこにもない。
ここ数年来の光秀に対する信長の命令は過酷を超越したものであった。丹波攻略と並行して石山本願寺攻めに参戦。ともに片づけたと思うやいなや、つづいて安土城築城の普請総奉行に任じられ、築城したら休むまもなく徳川家康一行の饗応役。それがすまぬうちに今度は備中へ行けという。
「日向守どの?」
家康が呆然としている光秀に声をかけた。
「ハッ」
「いかがされた。この三日間、それがしの接待で気づかれなされたか」
「滅相もございませぬ。いささか不調にて……」
「それは大事になされよ。日向守どのは右府さま(信長)の懐刀。織田家に名将多しといえど、そなたほど智に長けた武将はおりますまい。くれぐれもご自愛めされよ」
「かたじけのうござる。三河守どのもご道中お気をつけなされるよう」
「うむ、それがしへのおもてなしの数々、感謝つかまつる」
家康は光秀に対して深く丁重に頭をさげた。
(できたお方であることよ)
かねてより光秀は家康のこのおだやかな人柄に好意をよせていた。激情にかられ事あるごとに絶叫する信長に接するたびに、光秀は腰が低く人をつつみこむ優しさにあふれた家康を思い浮かべた。また家康も儀礼を尊ぶ光秀に敬意をはらうことを惜しまなかった。
「ところで日向守どの、右府さま(信長)は当月晦日(天正十年五月三十一日)、帝への参内で京へ赴かれ、四条西洞院(本能寺)に滞在なされるとうけたまわったが、まことでしょうや」
「ハッ?」
信長の予定は光秀には知らされていなかった。
「なんでも森蘭丸どの以下、馬廻り小姓数名でご警護にあたられるらしい。家臣をご信頼なされる右府さまの度量の大きさには頭がさがる思いでござる」
家康があらためていうまでもなく、重臣たちは諸国に遠征しており、京には明智勢をのぞいて将兵はない。柴田勝家は越中(富山)の上杉景勝と、滝川一益は上州(群馬)の北条氏政と、丹羽長秀は四国の長宗我部に備えて摂津(兵庫)で渡海の準備中、羽柴秀吉は備中(広島)で毛利と交戦中である。一万を超す将兵を今すぐ用意できるのは光秀以外にはなかった。
(あーっ!)
光秀の心に、今までなら到底およびもつかぬような思いが閃光のようにひらめいた。
「日向守どのも存ぜぬ右府さまお忍びのことでござれば、大殿(家康のこと)、お口が過ぎましょうぞ」
沈着冷静で知られる徳川重臣石川数正は、そういうと家康に流れるような視線をおくった。光秀に似て智将の誉れ高い数正の諫言には家康も黙って耳を傾けることが多かった。
「いかにもいかにも。それがしとしたことが、ご容赦めされい」
家康の陳謝をかき消すように外が騒がしくなったので、本多平八郎忠勝が一喝した。
「なにごとぞ!」
光秀の後ろの大襖がいっぱいにひらいた。一瞬、部屋が静まり返った。そこには織田信長が森蘭丸をしたがえて立っていた。
「平八郎、わしじゃ、信長じゃ!」
「ハハッー!」
平八郎はキツネにつままれたような顔をしてひれ伏した。
「光秀、なにをしておるのじゃ?」
信長が静かに言った。
「これは上様……」
光秀はふりかえると信長の前に平伏した。信長はそれを無視して家康が空けた上座に進み出、立ったまま光秀をにらみつけていた。痩身の信長の瞳が獣のように鋭く光った。信長は瞬き一つしない。信長の視線に射抜かれた光秀が弱々しく言った。
「饗応役交代の儀、三河守(徳川)さまへ、言上……」
「誰がさようなことをせよと申した。余はそちに備中の羽柴が援軍に向かえと申したはずじゃ」
「ハッ、その儀はたしかに。されど、三河守さまに非礼があってはと……」
「たわけ! こざかしげにいらぬ世話を焼かずによいわ。うぬは余の命がきけぬと申すか。余が浜松(家康)どのにことわりを入れたは、礼を失すると申すのか!」
信長の怒号が光秀の言葉を奪った。
「けっしてさようなことは……」
「うぬのその過分な思いあがりが、余の決断を逡巡させるのじゃ。蘭丸!」
「ハッ」
美童の蘭丸はまるで人形のようにかしこまり、片膝つきの姿勢をたもちながら凛としてこたえた。
「扇!」
蘭丸は懐にしのばせていた鉄扇を信長に手渡した。
「うぬの頭は腐ったか、これでもくらえ!」
信長は上段にかまえた鉄扇を光秀のいくぶん禿げあがった頭めがけて振りおろした。
「ビシッ!」
危険を感じた光秀が心もち後方へさがったため、まともに一撃をくらわずに済んだものの、烏帽子は飛び落ち、額には傷が残った。したたり落ちる血が光秀の鼻筋に流れ落ちていた。
「ハゲ! さがれ! うぬにはもう用はない」
唇をかみしめたまま光秀はひたすらひれ伏すばかりであった。
「じゃまじゃ、そこをさがらぬか!」
信長は容赦なく光秀を足蹴にした。
光秀は客殿を辞した。敬慕する家康の前での恥辱。織田軍団きっての智将とうたわれた明智十兵衛光秀も見る影がなかった。
(当月晦日、四条西洞院(本能寺)に右府さまご滞在。森蘭丸どの以下、数十名でのご警護……)
うつむき加減で廊下を渡る光秀の脳裏に、家康のこの一言が繰り返しこだましていた。
明智十兵衛光秀は、享禄元年(1528)、美濃守護士土岐家明智光綱の子として、美濃の石津郡多羅に生まれた。早くして父光綱と死別した光秀は、叔父光安に育てられ、美濃明智城にて齋藤道三に仕えた。幼少の頃から学問を好み、兵法軍学書を読破するほどの秀才であった。茶の湯にも優れ、歌人でもあった。眉目秀麗で芳醇な知性を感じさせるその表情からは、豪傑、武勇といった戦国武将独特のイメージは微塵もなかった。信長家臣の中でももっとも教養豊かな人物であった。羽柴秀吉は光秀のことを『動く兵法軍学書』などと大真面目で称していた。
弘冶二年(1556)、光秀二十九歳のとき、長良川で齋藤道三、義竜親子が戦った。叔父光安は、敗れた道三に味方したため、明智城は陥落し、光安は討ち死にした。この時、光安はその子弥平次秀満(左馬助光光春)と、おなじく甥の次郎光忠を光秀に預け、城から脱出させた。光秀はこの二人と妻子をつれ、越前長崎の称念寺へ落ちのびた。以後、約十年間、光秀は諸国を転々と流浪した。
永禄九年(1566)越前の朝倉義景に仕えていたとき、将軍足利義昭が朝倉家に身を寄せていた。将軍家再興をもくろむ義昭の思惑とは裏腹に、朝倉義景にはまったく上洛の意志はなかった。それを見てとった光秀は、永禄三年(1560)に桶狭間にて今川義元を撃破し、すさまじい勢いで領土拡大をつづけていた織田信長と足利義昭との間を周旋し、義昭の上洛を果たした。以後、義昭、信長の両方につかえ、京都の行政にも携わった。
元亀二年(1571)、信長につかえて六年目、光秀は近江滋賀を与えられ坂本城主となり、十五万石の大名となった。異例のスピード出世であった。
天正元年(1573)、織田信長により室町幕府滅亡。光秀は以後、信長の武将として各地を転戦した。天正三年(1575)に日向守となり丹波の計略に着手。そして天正六年(1578)に細川藤孝の協力を得、内藤忠行の亀山城、さらに八上城の波多野秀治を降した。天正七年(1579)に丹波征服。翌、天正八年(1580)には、丹波一国を加増され、亀山城主となった。
光秀の叡智は冴えわたり、信長の天下平定プロジェクトには必要不可欠な存在となっていた。が、しかし、最近になり二人の関係は急激に悪化。ことあるごとに衝突を重ねる始末であった。革命児信長のコンセプトは、既成の権威や伝統、象徴といったものを壊滅することであった。その一連の既成こそが乱世を生み出した諸悪の根源であると思っていた。
一方、光秀はその博学ゆえに、伝統や権威というものは、未来に継承すべき貴重な財産であると信じて疑わなかった。そんな光秀には、次第にエスカレートする信長の侵略行為が到底理解できなかった。神社仏閣を焼き払い、僧侶や女こどもまでも情け容赦なく殺戮する信長の残虐行為に、光秀は主従の関係を忘れて信長をいさめた。だが、その諫言は信長の逆鱗に触れ、光秀は取り返しのつかない立場に追いやられようとしていた。
人間の欲求は「生と死」、生きてさえいればよいという次元のものから、「自己実現」などという高度な欲求に昇華する。天下平定という信長のビジョンはまさしく自己実現へのハイレベルな欲求であった。そして信長はその高度な欲求を欲するものは自分以外に認めなかった。家臣たちは、生命の確保であるとか、物質的享受であるとか、その程度の欲求を有しておれば良いと考えていた。それが光秀は古来の常識という定規で、信長と同じ次元に自分を置き、信長の行為をいさめようとする。信長には許しがたい光秀の越権行為であった。光秀の知識教養は時によって、まわりくどい表現を生み出すことがある。それが革命に必要な大英断に逡巡をおよぼす。それは信長のもっとも嫌いなことであり、悲劇は光秀がそのことに気づいていないことであった。
天正十年(1582)五月二十三日。安土を進発した光秀は、いったん坂本城に帰還。備中出陣への準備は着々と進んでいた。誰も備中への出陣を疑う者はなかった。しかしながら光秀の苦悩は、すでに深淵へたどりついていた。信長が自分を備中へ出陣させるというのは、明智家断絶の序章に過ぎない。安土を立つ前、すでに光秀には備中出陣の意志はなかった。とてつもなく重厚な閉塞感が光秀に信じがたい解決策を想起させていた。
光秀は信長への反逆こそが自分たちに残された唯一の道であると決断したのである。いかに光秀が努めようと信長の眼に光秀の義は映らない。今さら秀吉のように媚びへつらうような芸当はできない。また仮に光秀一人が切腹したくらいで明智家を存続させてくれるような主君ではない。だからといって手をこまねいて自家の滅びゆくのを黙って見過ごすわけにはいかぬ。
「ときは、いま、雨が下しる五月かな」
家康からもれ聞いた『当月晦日、四条西洞院に右府さまご滞在。森蘭丸どの以下数十名でのご警護』というこの極秘情報が、信長を誅殺するという信じがたい打開策を決断する引き金となったのである。まさに時は今しかない。織田本隊にまともに挑んでも勝ち目はない。ところが百戦錬磨の信長が思わぬ油断から無防備の京に入るという。光秀は千載一遇の好機に恵まれたのである。だがこの打開策を決断すると同時にあらたな苦悩が光秀を苦しめることとなった。見識と教養に秀でた光秀にとって、『主殺し』とはあきらかに『謀反』を意味する。それはすなわち『逆賊』という汚名を着ねばならぬことになる。このことは光秀にとって簡単には容認できぬことであった。
武田晴信(信玄)は父信虎を駿府に追放した。齋藤道三はその生涯で主殺しをかさね、美濃一国を手中におさめた。齋藤義竜は父道三と家督をめぐって争い、その父を殺した。骨肉相食むは戦国の世では日常茶飯事のことであったが、光秀にはそれを肯定して実行に移すだけの強固な度量に欠けた。もともと光秀にその度量があったなら、このたびのような信長との確執が起きる前に、事態は変わっていたであろう。いずれにせよ、今、栄華を極めた武田家も齋藤家もこの世にない。
逆賊の宿命であろうか……。
不吉な予感が光秀の決断を鈍らせていた。光秀は坂本城に帰還してから一週間あまり答えのでない問答をくり返していた。
「齋藤利三どの、お越しにございまする」
廊下で小姓の声がした。
「とおせ」
「はっ」
光秀は自分の決断を重臣一同に下知する前に、腹心の明智左馬助秀満か齋藤内蔵助利三には打ち明けておこうと思った。甥にあたる秀満は激しやすい明智軍きっての武闘派として知られていた。逆に利三は思慮深い策謀家といえた。光秀の惑いを解くには一気呵成に事を運ぼうとする秀満よりも沈着冷静な利三のほうが適任であると思えた。
小姓がさがると、齋藤利三が神妙な顔つきで入ってきた。利三は光秀の前に座し、深々と平伏した。
「内蔵助、宴はいかがじゃ?」
頭をさげたままの利三にむかって光秀がいった。
「たのしい宴とあいなってございまする」
利三は片ほおをゆがめて笑みを浮かべた。
「うそを申せ。そちの顔にそう書いておるわ」
「これは面目次第もござりませぬ。殿のご推測通り、酒宴はいささか沈んでおりまする」
「家臣たちは何と申しておる。かまわぬ申せ」
「われらこれより宿なしと」
「さようか……」
光秀は訊いたことを悔いた。自身が予想しうる最悪の事態を家臣たちも考えずにはおくまい。利三の当然の答えに光秀は窮した。
「秀満どのにおかれましては、『所領を召し上げたうえに、わが明智の精鋭を羽柴(秀吉)の援軍に行かせるなどという愚かな命をくだされた上様(信長)は、ご乱心あきらかなり』と声高に叫ばれております」
「なに左馬助がさようなことを……」
光秀の脳裏を席巻する怨嗟は家臣たちにも連鎖していた。それは至極当然のことでもあった。
「内蔵助、わしの忍従もこれまでじゃ」
光秀の問いに利三はこたえなかった。
「信長を、討つ!」
光秀は初めて心のうちを明かした。
「わしには愛する妻子を死に至らしめてまでも信長との盟約を守り通した徳川どののような堪忍も度量もない」
信長は徳川との盟約を確かめるために家康の嫡男信康と正室築山御前の命を奪った。それは徳川にとってみれば織田家への生贄に他ならなかった。家康は血涙を流す思いでその仕打ちに耐えた。
「さりとて快川和尚のように悟りを開くにはあまりに未熟すぎる」
先の甲州攻めの折、信長は武田家ゆかりの恵林寺を焼き払った。恵林寺は武田信玄の菩提寺であり、帝の信任も厚い名僧快川和尚がいた。火を放つよう命じた信長を光秀は必死で諌めた。しかしこの時も光秀の諫言は聞き入れられず、僧、稚児、使用人など百数十名が焼き殺された。すでに信長は比叡山で四千人、伊勢長島の一向一揆では門徒二万人、そして「高野聖」とよばれる諸国を巡礼している僧千三百人を殺戮していた。老若男女おかまいなしの無差別殺人だった。
燃え盛る炎の中で快川和尚は座したまま合掌していた。そして炎がその身をつつみこんだ瞬間、快川和尚はカッと目を開き、織田勢をにらみつけながら声高らかに言い放った。
「心頭滅却すれば、火、おのずから涼し」
すべてを超越した諦観の極致であった。羽柴秀吉は燃え落ち、崩れ落ちる和尚の姿をヘラヘラ笑いながら見つめていた。光秀は自分の力の無さを痛感した。
(自分の出世の下敷きにするために、どれだけ人の命を奪えばいいというのか。『天魔の所為』と呼ばれる信長の手先となっている自分はいったい何者なのか?)
「わしはいずれの御仁でもない。わしは自分の心に正直にありたい。わが正義を貫きたい。いかようにみても、信長は悪鬼羅刹じゃ。数々の所業、断じて許しがたい。じゃがの、利三、主君に刃をむけるは忠孝の義に叛くことになりはしまいか」
「無用なお気遣いかと」
光秀は意外であった。秀満ならいざしらず、利三はかならずや光秀の決断を思いとどまるよう説くに違いないと思っていたからである。
「なに、無用じゃと?」
「御意にございまする。殿、殿はなにゆえ亀山城築城の折、その城を「周山」と号されましたや!」
利三は語気をあらげた。それは主君の惑いを解き放つ厳しい口調であった。
「自らを大陸(中国)周王朝の武王になぞらえたのではありませぬか。悪逆非道の殷の紂王を誅殺する、そのご決断でござりましょうや」
「まこと、そちの申す通りじゃ」
「天下に号するを謀反とは申しませぬ。悪鬼にはもはや殿の礼節や忠義は無用にございまする。殿が天下さまになられることは明智家のみならず、諸国万民のためにございまする。殿に仕えてから今日までこの利三、このときをどれほど願っておりましたことか。のちのち必ずや殿のご決断は万民が認めることとあいなりましょう」
すでに利三は信長への忠義を捨て去っていた。利三はあからさまに信長を罵倒し、光秀の決断を英断であると言いきったのである。
「うむ」
光秀は利三の射抜くようなまなざしを受けながら黙って何度もうなずいていた。
その日、夜半から降り出した雨は夜通し降り続けた。寝苦しさからか眠りが浅く、光秀は亡くなった妻との思い出を夢の中に見ていた。
*
明智光秀の妻、煕子は美濃国妻木城に拠った士豪妻木勘解由の娘で、光秀が二十六歳の時に娶った。かねてより許嫁として二人は結ばれることになっていたのだが、それが不思議なことに嫁いできた時は煕子ではなくその妹であった。なぜなら煕子は祝言の前に疱瘡を患い顔半分にその後遺症としての痣が残ってしまったのである。醜いあばた面になった煕子を嫁がせるのは忍びないと、父である妻木勘解由は、その妹を姉の煕子と偽って明智家へ嫁がせたのである。
事情を知った光秀は書状を認めると妹ともども実家へ送り返してしまった。
「それがしの許嫁は煕子どのでござる。いかなる事情があろうと妹どのを娶るわけにはいかぬ。終生をともにするは、許嫁としての契りを交わした煕子どの以外にはござらん。問答無用、煕子どのをそれがしにお届けくだされ」
光秀は煕子の美醜などまったく意に介さず、こころよく娶ってしまった。妻木勘解由は自分の浅はかさを若い光秀に思い知らされ心から陳謝した。当人の煕子は感激のあまり、三日三晩、涙がやまず、顔を伏せて光秀を見つめることができなかったという。それからしばらくは煕子にとって夢のような幸せな日々が続いた。
しかし嫁いでから六年目、居城であった明智城は焼け落ち、煕子は光秀とともに流浪の旅に出ることになる。生活も困窮を極め、朝夕の食事にも事欠く始末。それでも煕子は光秀の士官が叶うようにと身を粉にして苦しい家計をやりくりした。
浪人ながら光秀はその学力博識をもって塾を開き、学問を教えたりしていた。また光秀は浪人を集めて連歌を催したりもした。収入はほとんど無償に近いそのわずかな受講料である。
当時、『汁講』といって、武技を談じあったりする武士の修養を目的とした私的なサークル活動があった。メンバーが交代で亭主役を担当し、場所と酒肴を用意する取り決めとなっていた。ある日、その順番が光秀にまわってきたのだが、客をもてなす金がない。煕子には汁講がわが家であることは伝えておいたが、おそらくどうしようもないだろうと諦めていた。光秀は困り果てたが、どうすることもできずにその日を迎えることになってしまった。
当日になって驚いたことに、素晴らしい御馳走が並んでいるではないか。それに酒まで用意されており、光秀の面目は十分すぎるほどたもたれたのである。しかし、その喜びもつかの間、奥に控えていた煕子の姿を見て光秀は愕然とした。
「ひろ、それはいかがしたのじゃ……」
なんと煕子は自慢の黒髪をバッサリと切り落としていたのである。わけを聞くと、髪を売って今日のもてなしの費用にあてたという。当時、髪は女の命といわれた。今と違って、髪を切るということは女を捨てるに近い行為であったのだ。かりにも武家の内儀が髪を切るとは……。それは捨て身の妻の献身であった。
「なんということを」
光秀は自分のふがいなさに涙を流した。
「殿御が泣いてはみっとものうございまする。わ
たくしは貴方さまの妻になれただけで幸せなので
ありますから、わたくしの心配など無用でござい
ます。心おきなく武芸学問にお励みくださいまし」
「おひろ、すまぬ。きっとこのままではすまぬ」
のちに細川忠興に嫁いだ光秀の娘玉子は、煕子
の子で、後世キリスト教に帰依し、細川ガラシャと呼ばれた。関ヶ原の合戦では石田三成と対峙し壮絶な最期を遂げる。
以後、修練を積みあげた光秀は朝倉家に仕官し軍事面でその才能を開花させた。しかしながら光秀は安穏とした暮らしを好まなかった。
永禄九年(1566)、将軍家上洛に意欲を燃やしていた光秀は、まったく上洛の意志のない朝倉義景を見限り、朝倉家に寄宿していた足利十五代将軍義昭公を織田家へ周旋し、信長の軍事力を後ろ盾に義昭の上洛を果たした。そして自身もまた織田家へ転じた。
光秀が織田家重臣の大名たちを抜き去り、大大名へとのし上がるのに時間を要さなかった。目を見張るような立身出世をともに支えてきた煕子も五年前、労該でこの世を去った。気のせいかもしれないが、心の支えだった煕子を亡くしてから、光秀を取り巻く雲行きが怪しくなってきたような気がしないでもなかった。
*
翌早朝、備中出陣の軍議という名目のもと重臣たちが招集された。出席者は以下の通り、明智左馬助秀満、明智次衛門光忠、齋藤内蔵助利三、藤田伝五、溝尾勝兵衛、奥田宮内。
「軍議といえど、所詮は羽柴(秀吉)が援軍。なにゆえ、わが明智が羽柴の下風に立たねばならぬのか?」
「上様はなにかといえば羽柴を贔屓なされる」
「上様出陣までのつなぎのようなお役目。結局は羽柴の手柄になるのじゃ。これほどの貧乏くじもござるまい」
諸将は不満を隠さず口にした。それでも光秀が座につくと私語もなくなり、軍議はいつもの緊張した雰囲気に包まれた。
開口一番、光秀の一言は重臣たちの度肝を抜いた。
「備中には出陣せぬ」
「殿、なにゆえにございまするか!」
齋藤利三以外の重臣たちが、その意を伺う鋭い目つきに豹変した。
「上様は明智を見放されたのじゃ。わが領地を没収し、羽柴の下風に立てと仰せになるは、明智に用無しの烙印を押したも同然。こたびの命にはこの光秀従わぬ」
光秀は冷静に諸将を諭すような口調で言った。
「まさしく仰せのとおり。もはやこれまでじゃ!」
明智秀満が檄した。
「人間とは愚かなものよ。わしは信長こそが天下を平定する器量の持ち主であると信じて疑わなんだ。天下布武を成し遂げるためには、もちろん血も流さねばならぬ。なれど神仏も恐れぬ信長の所業にはさしものわしの忠義も従うを逡巡する日々のくり返しじゃ。これ以上、罪もない人々を殺戮する天魔の所為に手を貸すつもりは毛頭ない」
だれにも異論はなかった。まったく光秀のいうとおりであった。しかもその刃が今、自分たちに向けられようとしているのだ。
「すでに譜代の大名である佐久間信盛どの、林通勝どのは織田家を追放された。備中より帰還してのち、おそらくわれらも同じ憂き目にあうことであろう」
光秀の言葉に重臣たちは大きくうなずいて居ずまいを正した。
「殿、もはや時を数えるは無駄なこと。われら一同、お下知を賜りとうございまする」
すべてなにもかも知りつくしている齋藤利三が光秀の前に進み出て言った。
「殿!」
明智光忠が、溝尾勝兵衛が、藤田伝五が、奥田宮内が口々に光秀の決意をうながした。
「殿、お下知を!!!」
明智秀満が絶叫した。
光秀は家臣たちそれぞれのまなざしに無言の視線でこたえると、言い放った。
「そちたちの命、わしにくれ。これよりこの光秀が天下に号する」
「ハハッ!」
重臣たちは声をそろえて平伏した。
「よいか者ども、敵は四条西洞院本能寺にあり!」
その声は夏空のごとく澄みきっていた。
〈この章 了〉
第三章 敦盛のあと
織田信長正室 帰蝶 ~本能寺異聞~
「夜更けてまいりました。それでは父上、失礼つかまつります」
三位中将信忠どのが妙覚寺に帰ったのは、夫信長が敦盛を舞ってしばらくしてからのことでございます。いつものように蘭丸どの以下、美童の小姓を従え、寝所に向かう夫の足取りはめずらしく乱れておりました。
天正十年(1582)五月二十九日、夫の上洛にともない、わたくし(信長正室、帰蝶、別名濃姫)も京へ同道いたしました。帝への参内や所用を済ませた夫は、わずかな手勢を率いて、昨日、宿舎となるここ四条西洞院本能寺に参りました。そして今宵、嫡男信忠どのを召されて親子水入らずの宴とあいなったのでございます。
第十五代将軍足利義昭公とともに全国平定に乗り出した夫は、譜代の諸大名を各地に派兵し、京にありながら戦勝の報せが届くのを心待ちにしているようです。日々、人生五十年と敦盛を謡う夫は、四十九歳にして天下を掌中におさめるその仕上げに着手しておりました。
わたくしが、織田家へ嫁ぎましたのは、今から三十四年前の天文十七年(1548)のことでございます。当時、『まむし』と恐れられていたわたくしの父上齋藤道三は、織田家とは敵対関係にあり、夫の父上である織田備後守信秀さまとの度重なる戦に明け暮れておりました。父は、尾張から執拗に美濃へ攻め込んでくる織田軍に手を焼いているようすでございました。
父道三が頭を痛めておったのは、織田方が美濃を攻める戦の名分が、たんなる領土拡大を目論むものでなかったからでございます。御承知のとおり、父道三は油の行商人から美濃の国主へとのし上がった戦国大名でございます。商人から武士に転身してまもなく、謀略をもって主人を亡きものにし、さらには守護代土岐頼芸さままでも他国へ追放したときいております。織田軍の美濃侵攻の大義名分は、失地回復を目指す旧国主土岐頼芸さまへの合力ということでございました。
一進一退を繰り返した末、父は頼芸さまを一旦もとの居城大桑城へ帰還させることで織田との講和を成立させました。そしてその証として、織田・齋藤両家の婚姻が整ったのでございます。夫織田三郎信長十五歳、わたくし帰蝶十四歳の早春のことでございました。父の御苦心をおもえば、わたくしが両家の礎となるくらいの覚悟はできておりましたが、じつはこの時、わたくしにはすでにお慕いする殿方がいたのでございます。その方の名は、明智十兵衛光秀さま、いまの明智日向守光秀どのでございます。
わたくしの母、小見の方は美濃の国恵那郡明智の城主明智駿河守光継の娘で、光秀どのの父上光綱さまとは姉弟となるのでございます。幼いころからともに過ごすことも多く、兄妹のように仲むつまじく接するうち、わたくしは、いつのまにか十兵衛さまを殿方としてお慕いするようになったのでございます。
*
青葉山山麓にある久遠の滝へふたりで馬を駈け訪れたとき、わたくしは十兵衛さまに思いのさまを告げました。
「帰蝶は尾張には行きたくありませぬ」
「姫、無理を申すな。こたびの婚礼は両家にとって……」
「十兵衛さまは、帰蝶をお嫌いになられたのでございますか?」
「そうではござらぬ。いくら慕いあっていようとも、こたびの婚礼の意は大きい。齋藤家の行く末を考えたら、あきらめるよりほかない」
「いやでございます。大うつけと評判の信長などに嫁がねばならぬ帰蝶の心情、十兵衛さまは少しもお考えくださらないのですね」
「わしも気持はそなたと寸分違わぬ。されどこの戦国の時世、たがいの情愛が成就するほど甘うはない。わしはそなたとめぐり会えたこと生涯忘れはせぬ。織田・齋藤両家が断絶することなく互いに達者で暮らしておれば、また逢える日も訪れよう」
「はかない運命でございまする。ならばこの生涯、わらわ自らの手で閉じとうございます」
「いかがするつもりじゃ?」
「父から授かったこの懐剣にて信長と刺し違える覚悟でございます。父道三は、世間の風評通り信長がまことうつけならば、わらわに信長を討ち果たせと命じられました」
「たわけたことを……」
*
わたくしが織田家に嫁いで八年後の弘冶二年(1556)父道三は、わが子義竜によってその命を奪われました。わたくしの兄上義竜の出生には、かねてから忌まわしい噂がございました。わたくしと腹違いである兄の母上深吉野さまは土岐頼芸さまの愛妾で、戦の恩賞として父が授かったといわれておりました。父の側室としてあがったときすでに深吉野さまは身籠っておられ、その子種はなんと前守護土岐頼芸さまであったと風評が流れておりました。その噂を信じた兄上は、実父(頼芸)を追放した鬼畜であると父道三を恨み、刃を向けたのでございます。しかし、その兄もまた五年後の永禄四年(1561)に病に倒れ、この世を去りました。新しく城主となった竜興は、わが夫信長により稲葉山城を攻められ、開城し伊勢長島に落ち延びましたが、その後、頼った朝倉氏滅亡と運命をともにし、齋藤家はここに断絶しました。その朝倉を滅ぼしたのも誰あろう夫信長でございます。
父道三が亡くなる三年前の天文二十二年四月、父は美濃・尾張国境の富田正徳寺で信長と会見したそうでございます。
「情けのない話じゃが、わしが死んだのちは織田信長が美濃の国主となろう」
夫信長の雄姿に類まれな英傑ぶりを発見した父は、側近にそうもらしたと言い伝えられております。父道三の予言通り、竜興を追放して美濃を征服した信長は、井ノ口を岐阜とあらため、ここを天下統一の本拠といたしました。
夫信長が稀代のうつけ者であるという風評は、奇才がもつもう一つの顔で、事実は父道三が看破したとおりの天才武将にございました。夫の監視下では、実家へ手紙一通出すこともままなりません。ましてや嫁ぐ日、父が申したように、寝首を掻くなど思いもよらぬことでございます。
わたくしが正室であるというのはまったく表向きのことで、嫁いでこの歳までお恥ずかしい話でございますが、一度も夫と寝所をともにしたことはございません。それでも父道三が健在な頃には、夫がわたくしの部屋を訪れることがままございましたが、父が亡くなってからというもの、年賀に顔を合わすくらいにございます。
夫信長は男色を好んで、もしや女嫌いではないのかと邪推いたしたこともございましたが、さようなことはなく、すでに側室にはわ子も数多できておりました。家中にはわたくしが産まず女であるという噂が飛び交い、わたくしにつき従ってきていた侍女たちは、夫の冷酷な仕打ちに涙にくれる毎日でございました。なにゆえ、それほどまでに夫がわたくしを疎んじたのかは定かではございませぬが、唯一、わたくしとの馴れ初めが政略によるものであったからではないのかと思われるのでございます……。
*
「お方さま…お方さま…」
夜明け間近でしょうか、侍女の一人がわたくしを呼び起こしました。
「何事か?」
次女はわたくしの耳もとへ口をよせると、小鳥が囀るような小声で申しました。
「日向守さまの使いと申すものが内密にお方さまにお目通り願いたいと」
「なんじゃと! 光秀どのの使いじゃと?」
わたくしは急いで次女が案内する部屋に向かいました。わたくしの胸はなぜか高鳴り、えもいわれぬ胸騒ぎがしました。
まだ朝陽も差し込まぬ薄暗い部屋に、一人の武者が平伏しておりました。
「おもてをあげられよ」
燈火にうつしだされたその顔を見て、わたくしは愕然といたしました。
「もしや…そなたは…」
「お久しゅうございまする。お方さまの御慈悲により今日まで生きのびてまいりました」
眼前にいるその若者は、三年前の天正七年九月十九日、遠州二股城にて自決して果てたはずの徳川家康どの嫡男松平信康どのでございました。
家康どのの正室築山御前と嫡男信康どのは、甲州の武田家と密かに通じて、織田徳川断絶を謀ったとの嫌疑をかけられ、夫信長の命により粛清されました。信康どのの正室は夫信長と側室生駒どのの間に生まれた徳姫でございました。わたくしは、側室の子なれど幼き頃より慣れ親しんだ恭順な徳姫が、最愛の夫を失うのが不憫でならず、美濃より連れてまいった忍びの手のものを徳川に内密に送り込み、信康どのを救い出す手筈を整えるよう申しつけておりました。しかしまもなく、信康どのの首が夫の元へ届けられたと聞いて、わたくしは、信康どのはすでにこの世にないものと思っておったのでございます。
「無事であられたか」
「二股城で自害したは、それがしと瓜二つの影武者にございまする。近臣の者にも悟られぬ最期を見事演じてみせた由にございまする。それからのちは、日向守さま(明智光秀)の重臣齋藤利三どの配下の忍びとして地に伏せておりました」
「浜松どの(徳川家康)にはお目通り願いましたか?」
「滅相もない。それがしが生きていることが上様(織田信長)に知れれば、父上(徳川家康)の身に災厄が降りそそぐは必定。父上もいまだそれがしが存命であることは存じませぬ。すでに亡きものとして弔っていただいております」
「さようか。それは苦なことよの」
わたくしは過酷な運命を背負わせたわが夫を少しばかり嫌悪しました。
「されど本日より、父上にお目通りが叶うこととあいなりましょう」
信康どのは微笑をうかべてそう申しました。
「それはいかなる意か?」
わたくしは信康どのの申すことが理解できずにおりました。
「織田・徳川の同盟はまもなく没し、あらたに明智・徳川の連合軍が天下をおさむるということにございまする」
「なんじゃと! 聞き捨てならぬ、信康どの、そなた気でも狂われたか。天下平定間近のこの織田軍がさような……」
思わず絶句すると、わたくしの背中には氷雨をあびせられたような悪寒が走りました。
「お方さま、もはや天下は織田家のものではござりませぬ。時をして天下人となられる日向守(明智光秀)さまは、お方さまとの古の約定を本日履行いたしたいと申されて、それがしをここに忍ばせたのでございます。ご正室を亡くされた日向守さまは、お方さまをご正室としてお迎えなされる所存にございまする。まもなく明智の精鋭二万の大軍がここ本能寺を取り巻くこととあいなりましょう。お方さま以外は、ねずみ一匹屋敷から出してはならぬという厳命を仰せつかっております」
「このたわけものが! わらわは右大臣織田信長の正室じゃ。それが何故に謀反人の大将の元へ嫁がねばならぬ!」
わたくしは気丈にそうは申したものの、『謀反人』という言葉を口にしたときには、胸を針で刺すような痛みを感じました。
「お方さま、信長はそれがしの母上(築山御前)の命を奪いました。おなじく日向守さまの母上も見殺しにされました。お方さまの父上齋藤道三公をお救いもせず見殺しにしたのも信長ではございませぬか。かような悪鬼になんの義理立てがいりましょうや!」
「ならぬ! 謀反など決して許さぬ。とどめおかねば今生はまたもや地獄に逆戻りではないか。なにゆえじゃ、家康どのまでが明智に合力するとは……」
「お方さま、もはや時はござりませぬ。あと一刻もすれば天下は明智と徳川の手に落ちまする。それがしとここを退去なさるが肝要かと」
わたくしは信康どのの話もすまぬうちにわたり廊下へ飛び出していきました。
「誰かある! 曲者じゃ!」
わたくしは大声をあげて駈けだしておりました。
「お方さま、いかがなされました?」
警護の森力丸(森蘭丸実弟)どのの声がいたしました。
「謀反じゃ、明智日向守の謀反じゃ!」
わたくしはそれだけいうと力丸どのの胸にすがりつくように飛び込みました。
「お方さま、なんと仰せになられた!」
驚いてわたくしを抱きすくめる力丸どのの背後から振り下ろされた信康どのの長刀が、力丸どのの左腕を切り落としたのでございます。腕は血しぶきをあげて軒下まで転げ落ちました。力丸どのの肩口からあふれ出す鮮血が天井まで血柱となって噴き上げております。
「ギャーッ!」
わたくしのあとを追っていた侍女はあまりの恐ろしさに気絶して果てました。
「おのれ、なにやつ!」
振り向きざま、力丸どのは残された右腕で刀を抜き放ちました。しかし、一刹那、信康どのの長刀は力丸どのの首を左腕と同じく軒下まで斬り飛ばしていたのでございます。
「……」
わたくしは言葉を失い、軒下に転がり落ちた力丸どのの首と腕を見つめておりました。首からはドクドクと真っ赤な血が流れ出しております。
「お方さま、いかようにしてもそれがしとは同道できぬと仰せにございまするか」
信康どのの瞳は獲物を追う獣のように殺気に満ちあふれておりました。
「ゆるしてたもれ……」
そういいながら目を伏し、顔をあげたときには、わたくしの眼前に信康どのの姿はありませんでした。わたくしは、力丸どのの血ぬられた首をひろいあげると、一目散に夫の寝所を目指しました。
「お方さま、いずこへ!」
他の侍女たちがわたくしのあとを追ってまいります。
「ダン! ダン! ダダン!!!」
そのとき、場外からものすごい数の銃声が鳴り響きました。
寝所の表には森蘭丸どのが平伏しており、中から夫信長の絶叫する声が聞こえてまいりました。
「なにごとぞ!」
顔をあげた蘭丸どのが凛として答えます。
「水色桔梗の旗印。あれはまぎれもなく明智日向守が軍勢」
「であるか」
夫はぽつりといいました。
「さよう明智光秀、謀反にございまする!」
「是非に及ばず。光秀ならぬかりあるまい。蘭丸、弓を持て!」
まもなく白装束に身をつつみ、弓を携えた夫が飛びだしてまいりました。わたくしは呆然として、森力丸どのの生首を抱きしめたまま夫が弓を射る姿を見つめておりました。
わたくしに気づいた夫は、瞳から憤怒の炎をたぎらせ怒声を発しました。
「この美濃のマムシめ! 今日まで生かしておいたをいいことに、光秀とつうじておったとは……よくもこのわしを、たばかりおって!」
わたくしに向けた夫の強弓から今、弓が放たれようと……。
織田信長正室 帰蝶(濃姫) 享年四十八歳
世紀のクーデターから十一日後、明智軍は中国から全速力で引き返してきた羽柴秀吉軍と山城の山崎街道で激突。世にいう「山崎の合戦」である。光秀の思惑とは裏腹に組下の大名は誰ひとり、明智の援軍に向かわなかった。死してもなお、信長のカリスマ性はゆるぎなく生き続けていたのである。娘、玉子の婿、細川忠興、藤孝親子も、光秀謀反の旗印のもと、秀吉軍に加わったのである。戦闘は一刻余(約二時間半)で決着がついた。明智軍惨敗。光秀は敗走の途中、山城の北端、山科の小栗栖の竹やぶで、土民の突きだした竹やりの一撃をくらい重傷を負った。もはやこれまでとあきらめた光秀は自刃。介錯は溝尾勝兵衛であった。勝兵衛は光秀の首を藪の中に埋め隠し、自分は坂本城まで引き返し、城兵共々討ち死にして果てた。しかし、光秀の首は敵兵に探しあてられ秀吉のもてへ届けられた。秀吉は光秀の首を京の粟田口に晒した。翌日、齋藤内蔵助利三は六条河原で処刑された。
この後、時代は秀吉の天下となるが、秀吉が没するとすぐさま徳川家康が天下獲りに動く。関ヶ原、大阪冬・夏の陣をへて家康は豊臣家を滅亡に追い込む。家康は忍従の果てに徳川安定政権を築きあげた。そして三代将軍家光の時に、家康は奇怪な行動に出る。家光の乳母の齋藤内蔵助利三の娘おふく(のちの春日局)を登用したのである。仮にも謀反人の娘を、である。しかも家光の母、二代将軍秀忠の妻は信長の妹お市の方の三女小督である。小督からすれば、伯父信長を殺した仇の娘なのだ。なにゆえか、もしかして「本能寺の変」の首謀者は家康だったのか……。未だ、この家康の「おふく」登用の謎は不明である。
〈この章 了〉
第四章 雁金無情
柴田勝家室 お市の方散華 ~織田・浅井の血脈~
天正十一年(1583)四月二十四日 越前北ノ庄城天守
「もはやこれまでか……」
柴田修理亮勝家は敗北を確信した。
機動力に勝る羽柴軍(秀吉)に柴田軍は翻弄され、壊滅的な打撃を受けていた。頼みの前田利家は、羽柴との友誼から戦線を離脱。徳川、毛利、長宋我部などにも援軍を要請していたが叶わず、柴田軍は孤立無援の状況に置かれていた。
天守から眺める夕暮れの城下は羽柴軍の放火により灰塵に帰そうとしていた。
天正十年六月二日早暁。四条西洞院本能寺に宿泊中の織田信長は、明智光秀の謀反により非業の死を遂げた。その時、柴田勝家は越中の上杉景勝と対峙していた。身動きのとれない状況を打開できず、勝家は打倒光秀の軍を起こすことができなかった。
一方、羽柴秀吉は、中国毛利の居城である高松城に籠城する清水宗治と交戦中であった。信長の訃報を知るや、秀吉は毛利の使僧安国寺恵瓊を介し講和を急ぎ成立させた。そして清水宗治の切腹を見届けるやいなや、秀吉は全速力で畿内へ引き返し、山崎街道で光秀と激突した。世にいう『中国大返し』『山崎の合戦』である。結果は秀吉の大勝。光秀の天下は、たったの十一日で露と消えた。
明智光秀の首をあげた羽柴筑前守秀吉は、その戦果により織田家筆頭宿老柴田勝家を凌ぐ権力を手にすることとなる。のちの清州会議でも重要な懸案のほとんどは、秀吉の思うがままとなった。織田家の跡目相続についても、三男信孝を推す勝家と、秀吉は真っ向対立し、二条城で討ち死にした嫡男信忠の子、信長の孫にあたる三歳の三法師を強力に推した。議論は紛糾したが、結局、丹羽長秀が秀吉側についたため、三法師が跡目相続人と決定した。しかも後見人は秀吉本人。事前に丹羽長秀と話をつけていた秀吉の権謀術数に、勝家はまんまと陥れられたのである。
台頭する新参の秀吉と譜代の重臣である勝家は、必然的に決戦を余儀なくされた。信長の次男信雄を旗印にかかげる秀吉と三男信孝を担ぐ勝家は賤ヶ岳でついに激突した。決戦の真実の要因は、勝家の意地であった。百姓あがりの下賤な成りあがり大名に対する、譜代の大名勝家の面子であった。丹羽長秀のように面子を捨て、羽柴の下風に立つぐらいなら、死を選ぶが部門の道であると勝家は信じて疑わなかった。
「初陣に松一本を手植えして負けば墓地のしるしとやせむ」
初陣から六十二歳となったこのたびの決戦まで、常に決死の覚悟で臨んできた勝家であった。
「勇猛果敢進みて退かず。敵に背を見するな!」
勝算を度外視した決戦であると思われようが、ここで立たぬ訳にはいかないのだ。勝家は清州会議以降の羽柴からの侮りに、一矢報わずにはいられなかった。
柴田軍二万に対し、羽柴軍三万。数の上でも羽柴軍が優勢であったうえに、頼みの前田利家率いる7千の精鋭部隊が退去を始めたのである。もはや柴田軍には退く道はなく、勝家は死を覚悟した。残されたつとめは、妻子を場外へ退出させるだけであった。
「こなたは三人の姫と一緒に城を出て、生きながらえてくだされ。筑前(秀吉)とて、主君(織田信長)の妹親子を手にかけはしまい。夢にまで見たそなたと結ばれて、わしは幸せであった」
燃え盛る城下を虚ろな瞳で見つめるお市の方の背へ、勝家は静かに言った。
「わ子らはお言葉に甘え、お助けいただきますが、わらわは勝家どのと共に城を枕にいたしたく存じます。もはや生き恥を晒すには及びますまい。生きるも地獄。それにしても二度までもあの猿(秀吉)に城を焼かれる運命になろうとは思いもよりませなんだ」
めずらしく色白のお市の方の頬が上気していた。
*
戦国時代絶世の美女といわれたお市の方は、天文十六年(1547)に、織田信長の異母妹として尾張に生まれた。幼少の頃より稀にみる美貌の人として、近隣諸国にその名は鳴り響いていた。
十六歳のとき、兄信長の命により、小谷城主浅井長政に嫁いだ。長政はこの美貌の妻を溺愛し、ふたりの間には三人の美しい娘と男子が生まれた。
天正元年(1573)お市二十六歳のとき、兄信長が浅井の同盟国越前朝倉を攻めた。「浅井の了解なしに朝倉を攻めない」という誓約を無視した信長の侵略行為であった。浅井は織田・朝倉のいずれにくみするかを苦悩した結果、代々友好関係を築いてきた朝倉を選択する。一時、浅井が朝倉の援軍にまわったことによって、信長は窮地に立たされたが、すぐさま反撃に転じ、浅井、朝倉を滅亡させた。お市の夫、浅井長政は小谷城落城のおり、お市と三人の娘、さらには嫡男万福丸を城外へ脱出させ、自身は城内で切腹して果てた。寄せ手の大将は木下藤吉郎秀吉(のちの羽柴秀吉)。秀吉はお市と三人の娘を無事信長のもとへ届けた。しかし万福丸は秀吉の手によって串ざしの刑に処せられた。
以後、お市は信長の弟織田信包のもとで娘三人と暮らしていたが、信長が本能寺で討たれたため、お市は信長三男信孝の勧めもあり、柴田勝家に再嫁した。好色な秀吉もお市獲得に触手を伸ばしたが、お市は断固として拒絶した。兄信長の命令であったにせよ、わが子万福丸を串刺しにした張本人の庇護を受けるなど思いもよらなかった。
小谷落城から十年。またしてもお市のいる城へ秀吉が攻めてきたのである。運命のいたずらは悲劇の連鎖を、お市の身の上に浴びせかけていた。
*
「それはならぬ、主君の妹であるそなたをみちづれにはできぬ。女子をみちづれにしたとあれば、この鬼柴田末代までの恥となろう」
「ならば勝家どのは、この身を、あの憎き猿(秀吉)にゆだねよと申されるのか?」
「うむ……」
勝家は思わず言葉をつまらせた。たしかに、お市がいうように、秀吉は言葉たくみにお市へいいよるに違いない。下賤の身ゆえ、秀吉は名家名門には目がなかった。お市は主君の実の妹である。喉から手が出るほど欲しいに違いない。
「お方、美しきそなたは、なにゆえこの老爺に嫁がれた。この無骨一辺倒、なんの取り柄もないこのわしに」
「らちもない、なにをいまさら仰せになられる。すでにわらわは小谷で一度は死んだ身、かような生きる屍を愛でてくれたお前さまへの御恩は死しても忘れるものではありませぬ。恨むは、ただただ羽柴筑前。あの猿が、兄にとってかわるなどとは思いもよらなんだ。醜き猿が蛇のようにこのわらわにつきまとうのじゃ。勝家どの、今生に別れを告げたいわらわの心情お察しくださらぬか」
眉をつりあげ口を一文字にしたお市の顔は、勝家が初めて見る厳しい表情であった。
(お屋形(織田信長)さまにそっくりじゃ……)
勝家はお市のその表情に、亡き信長の面影を見た。
お市の決意は揺るぎなかった。二度まで落ちのびて生きながらえるつもりは毛頭ない。ここで勝家と死をともにするのが、秀吉に対するお市の意地でもあった。
「羽柴筑前守どのの使者よりのご口上申し上げます!」
息を切らせた城兵の一人が、渡り廊下で声高に言上した。
「猿めが……、申せ!」
「今夜半は、お市さま母子をふくめた婦女子を救出するため、全軍の攻撃を一旦中止する。すみやかに城外へ退却できるよう、柴田どのには手筈万端滞りなくとのこと。しかるに総攻撃は、翌明朝とする」
「猿め、小賢しげにこのわしに差配しよるわ。あいわかったと申せ!」
「ハハッ」
城兵は脱兎のごとく駈けだしていった。
「お市さま、なんと仰せになろうと、それがしと枕をならべて自刃することはあいなりませぬ。あの世にて亡きお屋形さまに、どの面さげてまいりましょう。お気持ちだけはありがたく頂戴いたしましょう。となりの部屋に姫たちがお待ちでございます」
勝家は、家臣として仕えていた頃の言葉使いに変わっていた。お市は勝家に背を向け、黙って部屋を出た。
隣室には、三人の娘が端座し、母の訪れを待っていた。小谷城落城のおり六歳だった長女茶々(ちゃちゃ)は、お市が浅井長政に嫁いだ年齢十六歳になっていた。二女お初十二歳。三女小督十歳。美しき父母の容貌を受けつぎ、三人いずれ劣らぬ麗しき姫であった。茶々は、すでに馥郁たる色香をただよわせている。その美しさゆえに茶々は数奇で熾烈な運命を背負うこととなる。
母が座すのを見はからったように、茶々が口を開いた。
「母上、母上はもしや勝家どのと、この城にてご自害あそばされるつもりでは?」
「はい、わらわは、この城にて死する覚悟です」
お市はいきりたつ娘を諭すように言った。
「なにゆえにございまするか。なにゆえ、かような北国の田舎大名に、右大臣織田信長の実の妹である母上が、殉じねばならぬのでございましょうや。かような城など捨てて、落ちのびるが上策にございまする。もしかして女々しき勝家が、母上に心中をせまったのではござりませぬか。こたびの戦もあの筑前(秀吉)に打ち負かされ、敗戦に次ぐ敗戦。このわらわの胸は不甲斐なき義父のため、忸怩たる思いに蹂躙されておりまする。母上が勝家づれに殉ずる義などどこにありましょうや!」
茶々は鋭い視線をお市に浴びせかけていた。
「茶々、わらわは柴田勝家が妻じゃ。妻が夫に殉ずるを、そなたは道理とは思いはせぬのか?」
「母上、いつわりを申されますな。かようないつわりにだまされる茶々ではございませぬ」
「なんと、もう一度申してみよ、そなたは、そなたはこの母が申すことを、まこといつわりじゃと申すか!」
お市はたまらず激した。成長した娘の言葉にひるみそうになる自分を、激しく叱咤した。
「母上がお望みとあらば、なんどでも申しましょう。まこといつわりでございます。夫婦の情愛があったればこそ、妻が夫に殉ずるを道理と申しましょう。母上が生涯愛した人はただ一人。わらわが父上、浅井長政にござりましょう。その最愛の夫と死をともにせずして、なにゆえ勝家などと死するお覚悟か。茶々にはさっぱりわかりませぬ」
茶々のいうことはもっともだった。たしかにお市は、長政と死ぬことができなかった。ひょっとして、その後悔の念に苦悩する日々から逃れるために、死のうとしているのではないのか。そのために勝家を利用しようとしているのではないだろうか。お市は今まで考えもつかなかったわが身の卑劣さを娘に思い知らされたような気がした。
「茶々、母は、なにゆえ長政どのと死をともにせなんだかわかりますか」
お市はつとめて冷静にたずねた。
「さあ? それはどうだか……?」
「遠慮はいらぬ。はっきり申すがよい」
「ならば申します。それはただただ、今生への未練ではござりますまいか!」
お市は胸に刃を突きつけられたような鋭い痛みを感じた。この娘は、ただ生きていたい存念から母が落ちのびたのだと思っているのだ。わが母は、なさけのない女々しい女子だと思って生きてきたのだ。お市は瞼からあふれでる涙を拭おうとしなかった。
「母上?」
「母上……」
茶々の後に座っているふたりの娘は母の涙を見てシクシク泣き出した。茶々は自身も目を真っ赤にさせながらお市の顔をのぞきこんでいた。
「茶々、母はあのとき、そなたの父長政どのと死にたかった。そなたがいうように最愛の夫に殉じたかった。されど長政どのは、わらわを死なせてはくれなんだ。そなたたち幼子だけを残して死ぬのは忍びないと、わらわにそなたたちを託したのじゃ。この母の苦悩察してはくれぬか……」
お市はそれだけいうのが精いっぱいだった。
「母上……」
茶々は先ほどまでの気丈な姿が嘘のように悄然とうなだれた。
「あれから十年。そなたたちも立派になられた。もはやこの母なくとも生きていけよう。いまさら落ちのびて、再び夫をもつような辱めは受けとうない。生きる女子にはそれをことわることはできぬのじゃ。いかに愛する殿方といえど、生涯添いとげるは至難じゃ。わらわはわらわの意に反して二夫にまみえた。されどわらわはしあわせじゃった。長政どのも、勝家どのも、ともに深い愛情をそそいでくだされた。その愛情に差異はない。たしかにそなたがいうように、わらわが長政どのに寄せていた愛情と、勝家どのへのそれとは違いがあろう。されど一度は小谷で死んだ身。この生ける屍をいたわり、そなたたち三人の姫をわが娘同然に慈しんでくれた勝家どのの恩義を忘れられようか。茶々、このわらわを、この母を、柴田勝家の妻として死なせてはくれまいか」
茶々は返す言葉がなく、うつむいてたまらず落涙した。
「母上、死なないで……」
お初、小督の二人の姫が泣きながら言った。
「茶々、柴田の家紋は存じておるか」
「はい、丸に二つ雁金でございまする」
「さようじゃ。丸の中に寄り添う二羽の雁。茶々、母はあの一羽の雁となりて勝家どのに殉じたい」
「ならば母上は織田家を捨てると申されるのか?」
お市は茶々の問いにはこたえず、懐から手鏡を差し出し茶々の前に置いた。
「これは?」
「これは浅井に嫁ぐ日、兄信長から祝いでいただいたものじゃ」
その手鏡には織田家の五葉木瓜紋が印されていた。
「この鏡は、この母の形見として、そなたが譲りうけてほしい。わらわは勝家どのと二羽の雁金となり、この北ノ庄に散る。されどそなたたちには気高き織田・浅井の血が脈々(みゃくみゃく)と流れておるのを忘れるでない。そなたたちは、その血を末代までも受けつげるよう努力してたもれ。それが小谷で自刃した父長政どのの遺言じゃ」
黙した茶々の瞳からふたたび涙があふれ、手にした鏡の上に雫を落とした。
「母上、なにも知らず義父柴田勝家どのを悪しざまに申した失礼の段、ご容赦くだされませ。われらが三人は無事この城を出て、新しき道を歩みまする。妹姫ふたりは、この茶々が守って見せまする。お心おきなく、ご生害あそばされますよう。茶々はかならずや父の遺言を守り、この気高き血を後の世まで受けつぎ残すよう努めまする」
「よう申された。茶々、最後にこの母にひとつ心配事があるのじゃ」
「なんでござりましょう」
「そなたの美しきその柔肌、けっしてあの万福丸を串刺しにした汚らわしい筑前(秀吉)だけには許してくださるな。われらがかような運命を背負わねばならぬこととなったのも、あの筑前が仕業。憎きは羽柴筑前!」
「母上、ご案じ召されるな。あのような醜き猿には指一本触れさせませぬ。もし万が一、
筑前がいかがわしき振る舞いをしようものなら、見事あの猿首、掻き切って見せまする。母上、心配ご無用にございまする」
「それを聞いて安心しました。まだまだ若いそなたたちに後の世をゆだねるは心苦しいけれど、この戦国の世が泰平の御世にかわるまでは、これがこの世の習い。そなたたちの御世にはきっと安寧の日々がおくれるよう、この母が祈っております。もう時もあまりない。外に供の者が控えていましょう」
「母上!!!」
三人の姫は母の胸に飛び込み、今生の別れに涙した。
柴田勝家は天守の大広間で、瞳を閉じ、腕を組みながら、時が流れるのをじっと待っていた。羽柴秀吉の計らいで戦闘が一時中断されていたので、城内には奇妙な静寂が訪れていた。
「お方さま、お方さま、なりませぬ。なにとぞ、なにとぞ、もどられてくださりませ。」
表廊下で発した突然の声に勝家が目をあけると、そこには城外へ脱出したはずのお市の方が立っていた。
「お方、いかがした?」
「わらわには、もういずこへも帰るところはござりませぬ!」
お市は勝家に正対し、厳しい表情でいった。
「ならぬ、あれほど申したのがわからぬか!」
勝家も声をあらげた。
「なにゆえにございまする。なにゆえそれほどまで、わらわを疎んぜられるのか」
「疎んじてなどおらぬ。そなたはわれらが主君の妹御でござる。われらと枕をならべて死なせるわけにはいかぬのだ」
勝家は苦渋の表情を見せ、懇願した。
「勝家どのは、わらわに猿の妾になれと仰せになるのか?」
「……」
勝家は口を真一文字に結んでお市の問いに答えなかった。
「ふ、ふ、ふ、それもよいかもしれぬ。こうなれば、あの憎き猿と、刺し違えて死ぬよりほかに道はない!」
勝家は、そういって振り返ったお市の方の手を力強く手元へ引くと、自身の懐ふかく抱き寄せた。
「お方……」
「わらわをこの城で死なせてくだされ。そなたの妻として、そなたの手でわらわの命を奪ってくだされ。後生じゃ勝家どの、お願い申しあげる」
「それほどまでに……」
勝家はお市の決意が翻ることはないと痛感した。もはやこれ以上の説得に意味はない。
「お方、このわしと死んでくれるか」
「ありがたきしあわせにございまする」
勝家は従者を呼ぶと、人生最期となる酒宴を用意させた。ふたり以外の者はそれぞれ部屋に帰り休むように命じた。
酒肴が並べられ用意が済むと、勝家は酒杯をお市にささげた。
「もったいのうございまする」
「いいのじゃ。今宵はこの柴田権六が、お屋形さまから市姫さまの饗応役を仰せつかったのじゃ。遠慮なくすごされよ」
お市は酒杯になみなみとそそがれた酒を一気に飲み干すと、勝家に返杯した。勝家は一心に、お市がそそぐ酒を見つめていた。
「くくく……くっ」
勝家は胸をつまらせ絶句した。そして肩を震わせ男泣きした。戦国の世を知りつくした老将の瞳からこぼれた大粒の涙が盃にしたたり落ち、小さな波紋をつくった。
勝家は死ぬことになんの惑いも恐れもなかった。ただ、この最愛のお市との別れが惜しまれてならなかった。しかしながら、お市とともに死ねるというそのことが、勝家の心を諦観の極致まで引き上げて、よりいっそう潔い死にざまをみせるようにと決意させたのも事実であった。
ふたりは夜深くまで飲み明かし、枕を並べて最期の夜を過ごした。
翌朝、いっせいに羽柴軍の総攻撃が再開された。銃声が轟き、あちらこちらで将兵の絶叫が響きわたっていた。
「申し上げます。羽柴軍使者より、お市の方さまが退却なされていない由、依然城内にいらっしゃるのならば、すみやかに御退却されますように、との言上にございまする」
「筑前(秀吉)め、うろたえておるわ。お市さまは貴様のような下賤の者に渡すものか。猿よ、貴様がお市さまを死に至らしめたのじゃ。そのことを生涯後悔するがよい。よいか、こう筑前に申せ!」
「ハハッ!」
「柴田修理亮勝家室、お市の方さま。城内にて見事御生害。よいか!」
そう声高に叫ぶと、勝家はともに白装束を身につけたお市に向かい合った。
「お方、よろしゅうござるか」
お市には微塵も迷いはなかった。やっと死ねる。やっと長政のもとへ行くことができる。そのことしか、お市の頭の中にはなかったのだ。自分を信じている勝家への背信には、煩悶し眠れぬ夜を過ごしたが、こうして一緒に死出の旅につくことで許してもらうより他なかった。お市が落ちのびることを拒否したのは、死ぬことによって勝家への恩義に報いることであった。もし生き永らえたら、勝家との暮らしすべてが偽りであったことになるのだ。ただ、ただ、ひたすら勝家を裏切り続けたことになるではないか。
お市の悲劇は、政略の具としての結婚に愛の存在を見つけようとしたことではないだろうか。分ちがたい強い愛が生じれば生じるほど、不幸の階段を真っ逆さまに突き進むことになるのだ。生きる屍となり、すべての感情を捨て去ることが、戦国の世を生き抜く女の処世術なのだ。だがしかし、ともに暮らし、子を生し、慈しみあったふたりの間に、愛という感情が芽生えずにあるだろうか……。
勝家はお市の懐剣を手にすると鞘を抜きはなった。
「お屋形さまお許しくだされ」
勝家はお市を強く抱きしめたまま、その胸に白刃を沈めた。
柴田勝家室、お市の方絶命。享年三十六歳。
お市を床に寝かせると、勝家は見事切腹し、自身でわが首も掻き切って見せた。
柴田軍は二人が自刃したのち、用意してあった大量の火薬によって天守閣を爆破。北ノ庄城は炎上。全軍壊滅した。焼け跡からは、お市、勝家いずれの遺骸も発見されなかった。
柴田勝家を破った羽柴秀吉は、つづき滝川一益を降し、さらに勝家が跡目相続に推し、賤ヶ岳の合戦の旗手となった信長三男の神戸信孝を、兄信雄の命により尾張国内海の野間の大御堂寺で切腹させた。
お市の娘、三人に姫たちはそれぞれに波乱万丈の人生をおくることとなった。
長女の茶々(ちゃちゃ)は、母の願いむなしく豊臣(羽柴)秀吉の側室となり、淀殿と呼ばれ権勢をふるったが、関ヶ原、大阪冬・夏の陣で徳川家康と対峙するが敗北し、息子の豊臣秀頼とともに非業の死を遂げた。だがしかし、豊臣家を断絶させた茶々は、母お市の方の復讐を遂げたといえるかもしれない。
次女のお初は、京極高次に嫁ぎ、大阪冬の陣では、実姉淀殿(茶々)と徳川家康との講和交渉の使者までつとめ、天寿を全うした。
三女小督は、徳川二代将軍秀忠に嫁ぎ、三代将軍家光の母となった。織田、浅井の血を徳川まで伝え、その血は明治維新以降現代まで脈々(みゃくみゃく)と流れ続けている。
〈完〉
あとがき
私の伯父二人は戦争体験者である。父は六人兄姉の末っ子で、上に三人の兄がいた。一番上の兄は満州へ出兵し、二番目の兄は海軍に入隊し特攻志願兵だった。三番目の兄は病弱で徴兵されず、私の父は徴兵前に終戦を迎えた。子どもの頃、よくこのふたりの伯父から戦争の話を聞かされた想い出がある。長男の伯父は中国人を殺害する現場を目の当たりにしたそうで、その悲惨さは言葉にできないとよくもらしていた。伯父は伝令部隊(実際にはどう呼ぶかわからない)に属していたそうで、直接、人を殺害した経験はなかったようである。(本人の弁)しかし,実際に妊婦を串刺しにしたり、子どもを容赦なく切り捨てたりするさまは、狂人の所業としかいえず、瞳を閉じ、手を合わせ、おびえていたのが正直なところであったようである。一部落を全滅させた時、家から出てこない人間は外から火をつけてあぶりだしたという。その村の長老が一人、家の前で座禅していたのを、中隊長が日本刀でその首を切り落とした。すでにその中隊長は自らの手で数十人の人間を殺していた。伯父はその地獄のさまが未だ忘れられないと、飲むときまって戦争の恐ろしさを私にいって聞かせた。そして、その中隊長は夜になると、中国酒(「ちゃんちゅう」と伯父は言っていた)を飲んで暴れ出し、寝ても一晩中うなされていたらしい。神経がやられて気狂いになっていたそうである、なにもかもが狂ってしまうのが戦争なのだ。二番目の伯父は特攻志願でありながら、飛行訓練が終了し、自分の出陣の前々日に終戦を迎えてしまい、結果として命を捨てずに済んだ。しかし伯父は死んでいった戦友に申し訳ないと、一年間は酒を飲み自暴自棄となった。その時は死ななかったことが恥ずかしく、表に出るのも億劫だったという。平和な時代にいる私たちには想像もつかないことだが、戦争とは道徳や常識といったものが一変してしまう恐ろしい環境なのである。戦場で狂人と化すことができぬ常識人などは、何の役にも立たないのである。おかげで満州から帰った伯父は万年二等兵だった。終戦後、復員して神戸駅で降りるとき、帰る身寄りのない同期で一等兵となった戦友の襟章と交換してもらい、胸を張って帰ったという。あとでことがばれて大変だったと笑い話で聞かせてくれたことがあった。余談が長くなったが、話を戦国時代に転じる。戦国時代とは、日本国内で、そんな地獄絵図をひろげたおぞましい時代であった。隣りの国同士で殺しあい、奪いあう、まさに気狂い集団があちらこちらで組織されたのである。親が子を、兄が弟を殺害し、その首を獲ることに奔走した。その地獄を終息せしめんと登場したのが信長であり、秀吉であり家康であった。しかし私はこの三英傑があまり好きではない。時代を変革するがためのやむにやまれぬ行為だという人もいるが、信長はあまりに残忍でむごすぎる。秀吉はエゴイズムの権化のようで、後継者問題で気が狂ってしまう。家康は狡猾で醜い。「築山御前暗殺事件」に代表されるように、家康には無情ともいえる冷たさが潜んでいる。妻を殺せと命を発するなどは忍従なのではなく、ただただ冷酷であるだけだ。私はむしろそんな狂気の時代にあって、上杉謙信や明智光秀のように平時の良識や常識を遵守しようとした武将たちが好きだ。その中でも「明智光秀」という武将が、私はもっとも好きである。「三日天下」、「謀反人」とあまり評判はよろしくないが、歴史はそもそも勝者の論理であり、後々ねつ造され、勝者を美化したものにほかならない。私は歴史学者でもなんでもないので、正直なところ光秀がなにゆえ信長を討ったかを論理だてて解説できるほどの知識を有していない。しかし、私は光秀が信長を討つことによって天下を自分のものにしようなどと画策したのではないことだけは確信している。信長の天下平定は、朝廷までもわたくしせんとしていたのは明らかである。そういう意味では平清盛と寸分たがわぬ。信長は清盛と同列。私欲の果ての天下獲りである。学生時代から私欲による天下人でない光秀を一度書いてみたかった。執筆にあたっては歴史原本として「信長後記」太田牛一著、榊山潤氏口語訳を基本にした。時代考証等はまったく私の未熟な知識では表しえないので、すでに小説として著されているものや、月刊誌「歴史と旅」などから引用したものも多数ある。それぞれの諸先生方に深く感謝の意を表したい。




