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波濤~戦国時代連作短編小説集~

作者: 小山彰

第一章  (うつせ)(がい)        

第二章  間隙(かん げき)の夢       

第三章  (あつ)(もり)のあと      

第四章  (かり)(がね)無情(むじょう)  


 第一章 虚貝

     松平元康(徳川家康)正室  ~築山御前暗殺事件~



「姫、なにをしておるのじゃ」

「貝あわせにございまする」

「貝あわせ?」

「はい。ふたつの貝殻(かいがら)をこうやってあわせるのでございます。(たけ)千代(ちよ)どの(のちの家康)、こんなに貝殻がたくさんあっても、あうものはたったの一枚しかありませぬ」

「おもしろそうじゃ。わしにもさせてくれぬか」

「なりませぬ」

「なにゆえじゃ」

「貝あわせは女子(おなご)のあそびにございまする。竹千代どのは海道一の弓取りになられるお方。女子のあそびにうつつをぬかされてなんとなされます。武芸の鍛錬が第一にございまする」

「姫はきびしいのぉ」

「いいえ、御屋形(おやかた)(さま)今川(いまがわ)義元(よしもと))は、竹千代どののことを、『竹千代は、いまは亡き祖父の松平(まつだいら)(きよ)(やす)どのに生きうつしじゃ。清康どのは勇猛(ゆうもう)果敢(かかん)な名将で、存命中は三河一(みかわいっ)(こく)をおさめておった。竹千代の父、(ひろ)(ただ)どのとは雲泥(うんでい)の違いで、われら今川の庇護(ひご)など無用であった。祖父ゆずりの武将の血をうけついだ竹千代は、必ずや三河を強国として再興(さいこう)するであろう。わしは竹千代と手をたずさえて天下をおさむる日を心待ちにしておる』と、いつも(おお)せになられております。わらわもそう信じております」

瀬名(せな)姫(のちの築山御前)?」

「はい」

「姫はまことに、三河の宿なしとさげすまれておるこの人質の、このわしが、三河の国主になると思うておるのか」

御意(ぎょい)

「なにゆえじゃ、なにゆえ、それほどまでにこのわしが信じられよう」

「わらわは竹千代どのをお(した)いしております。ただそれだけにございまする。今は不遇(ふぐう)の身なれど、かならずや竹千代どのはご立派に大成なされます」

「姫、わしもそなたが好きじゃ。そなたがむすび合わせたその貝のように、終生仲むつまじく暮らしたいものじゃ。きっとそなたの望みがかなうようつとめよう」

「ありがたきしあわせにございまする」


 天正七年(一五七五)八月二十九日、築山(つきやま)御前(ごぜん)を乗せた輿(こし)が、浜松の南西、富塚(とみづか)に着いたのは、三河(みかわ)岡崎(おかざき)(じょう)出立(しゅったつ)してから三日目のことであった。朝の晴天が嘘のように、午後から小雨が降り続いていた。異様に湿度が高く、むせかえるような暑さであった。

 築山御前は輿にゆられながら、幼き日の家康との語らいに思いをはせていた。

「お方さま」

 家康の家臣である野中三五郎(のなかさんごろう)重政(しげまさ)の声は、地を()うように低く生気(せいき)がなかった。

「重政、いかがした?」

輿の扉が静かに開き、御前が顔をのぞかせた。

「ハッ、申し上げまする。お方さまをのせた御輿(おんこし)は、浜松城には参りませぬ」

「なにゆえか」

「大殿の命にございまする」

「浜松へ渡るようにと申したは偽り(いつわり)か!」

「御意!」

「重政、家康どのは、この正室の築山を討ち取れと申したか」

「……」

 (かた)(ひざ)をつき、地面をにらみつけたまま顔を上げられずにいる重政のにぎり拳は激しく震えていた。

      *

 徳川家康の正室築山(つきやま)御前(ごぜん)は、今川義元の(いもうと)婿(むこ)関口(せきぐち)刑部(ぎょうぶの)少輔(しょうゆ)(よし)(ひろ)の娘として、天文十一年(一五四二)駿府(すんぷ)に生まれた。駿河(するが)遠江(とおとうみ)三河(みかわ)太守(たいしゅ)今川義元の姪にあたる名家の息女(そくじょ)である。幼少の頃からその美しさは家中(かちゅう)憧憬(しょうけい)を一身にあつめていた。義元もこの美貌(びぼう)の姪をこよなく愛していた。

 家康の父、松平(まつだいら)(ひろ)(ただ)は三河の領主であったが、弱小ゆえ今川の庇護(ひご)を受けねばならぬ状況におかれていた。広忠はその忠義の証として、嫡男(ちゃくなん)竹千代を人質として今川へ差し出したのである。

 弘冶三年(一五五七)、今川義元の媒酌(ばいしゃく)で、瀬名姫(のちの築山御前)は、人質として今川家にあった松平元(もと)(のぶ)(竹千代‐元信‐元康(もとやす)‐家康)と祝言(しゅうげん)をかわした。のちに元信は義元の命により元康と名をあらためた。義元が尾張の国主織田信(のぶ)(ひで)と信長の『信』の字を嫌ったことによる。

 永禄二年(一五五九)、瀬名姫十七歳の時、元康とのあいだに嫡男の竹千代(のちの松平信(のぶ)(やす))を、翌年には(かめ)(ひめ)を出産した。しかし二人が仲むつまじく暮らせたのはこの時までで、亀姫出産の(えい)(ろく)三年に一変する。

 その年の五月十九日、上洛(じょうらく)途上(とじょう)にあった今川義元が、(おけ)狭間(はざま)で織田信長の奇襲により討ち死にするという信じられない事態が勃発(ぼっぱつ)した。

 今川の先鋒隊として出陣していた松平元康(家康)は、今川義元の訃報(ふほう)を知るや、瀬名姫とわ子らを駿府に残したまま、松平の居城(きょじょう)であった岡崎城に帰還したのである。激怒した義元の嫡男今川氏(うじ)(ざね)は、瀬名姫の父、関口刑部の首をはねた。

 松平勢は駿府に残された瀬名姫母子を奪還(だっかん)すべく、今川の居城西郡(にしのごおり)(じょう)鵜殿(うどの)長照(ながてる)を攻め、長照の二子(にし)を捕らえた。松平元康(家康)は、二子と瀬名姫母子との交換を氏真にせまった。鵜殿長照は今川義元の妹を母にもつ血縁。氏真はやむなく人質交換を許諾(きょだく)した。

 永禄五年(一五六二)、瀬名姫母子は無事岡崎城に入り、元康と再会した。歓喜した瀬名姫は、岡崎城に(みやび)築山(つきやま)築造(ちくぞう)し、草花を()でた。その優雅な姿から家臣たちは瀬名姫を築山(つきやま)御前(ごぜん)と呼ぶようになった。しかし瀬名姫の喜びもつかの間、元康は今川との同盟を破棄し、織田信長と同盟を結んだのである。さらに信長との同盟の(いしずえ)として信長の娘徳(とく)(ひめ)嫡男信(のぶ)(やす)との婚姻を成立させた。そして義元から授かった元康という名を家康とあらためたのである。

 築山御前は次々と耳に届いてくる夫の(まつりごと)一部(いちぶ)始終(しじゅう)が信じられなかった。御前にとって織田信長は伯父を討ち取った仇敵(かたき)なのだ。夫は妻の実家を見捨ててその敵と同盟を結んだという。そればかりでなく、仇敵の娘と自分の腹を痛めた息子信康を結婚させるというのだ。やむをえずとはいえ、わが父(関口刑部)を死に至らしめたのも夫が戦線を離脱して岡崎に帰ったことが原因ではないのか。しかも夫は若い信康に岡崎城を明け渡し、自身は単身で浜松城へ赴任してしまった。

御前の苦悩ははかり知れなかった。岡崎に来て以来、ほとんど別居状態が続いていた。今川と縁続きにあたる築山御前を織田家の目をはばかり遠ざけようとした家康の思惑(おもわく)も理解できないことはなかったが、心中穏(おだ)やかでない御前には、男の(まつりごと)などに気づく余裕はなかった。風の便りでは浜松では多くの側女(そばめ)に手をつけているという。

築山御前は浜松にいる夫家康のもとにたびたび文をおくった、

『あなたのいないひとり寝のさびしさに、涙が床にあふれて(から)(ふね)が浮かぶほどです。いったいあなたはなにをしているの? わたしは鬼にでもなってあなたに思い知らせてやるわ』

 これだけ激しい恋情(れんじょう)を訴えても氷結した夫の心は()けない。もはや唯一のいきがいは元服して立派に成長した岡崎城主松平信康、わが子しかいない。信康は諸国の誰もが絶賛(ぜっさん)する武将となっていた。あの仇の信長も手放しで褒めちぎるほどであった。やがて御前の夫への恋情と嫉妬(しっと)の炎は信康に飛び火する。

 築山御前にとって目ざわりは信長の娘徳姫である。あろうことか御前は織田と敵対する武田領甲州出身の側室を信康にすすめたのである。策は的中し、信康は側室の(とりこ)となる。姑のいじめに耐えかねた徳姫は、普段から武田家ゆかりの医師を(はべ)らせている御前の行状(ぎょうじょう)書状(しょじょう)にしたため、信長へ報告した。

「築山御前、武田家内通のおそれあり」

 激怒(げきど)した信長は、信康と築山御前母子の処分を家康に厳しく迫った。まもなく信康は岡崎城を出て、二股(ふたまた)(じょう)(ゆう)(へい)される身となった。父の厳罰(げんばつ)に驚いた徳姫は泣いて()びるが信長はとりあわなかった。

『大成する前に芽は()むが上策(じょうさく)』 

 信長にとって理由などどうでもよかった。わが嫡男信忠の力量に勝る信康は目障(めざわ)りだったのだ。徳姫を嫁がせたのも信康の動静をうかがう為であった。御前の夫へよせる恋情が取り返しのつかない事態をつくりだしてしまったのである。

 そして数日前、浜松からの使者が岡崎の御前のもとを訪れた。

「こたびの一件につき、浜松へお渡りになるよう殿の厳命(げんめい)にございまする」

 家康は家臣の野中重政に築山暗殺を命じていた。

       *

「重政、そなたもわらわが武田と内通しておるなどと?」

滅相(めっそう)もございませぬ」

「ならばなにゆえじゃ。なにゆえわらわの命を奪わねばならぬ」

 こたびの家康の招請(しょうせい)が自身にとって死出(しで)の旅となることを御前は察していた。

「若君の御為(おんため)に……」

「わらわが命を捨てれば信康どのの助命は聞き入れられようか」

「御意」

 依然、重政は頭をあげずに地面をにらみつけたままである。その肩に本降りとなった雨がふりそそぐ。

「今川の……この今川の血が、わらわに流れておらねば、かようなことにはならずにすんだものを。わらわがそなたたち三河武士からそしりをうけるはいっこうかまわぬが、信康どのまでが、なにゆえそなたたちから(うと)んぜられねばならぬのじゃ」

 信長は徳姫からの書状にある真偽をたしかめるため、岡崎から松平の重臣酒井(さかい)忠次(ただつぐ)と家臣の(おく)平信(だいらのぶ)(まさ)の二人を清州(きよす)に呼び寄せた。信長の歓待に気を許した二人は、あろうことか、信康が側室にご執心(しゅうしん)であること、徳姫とのいさかいから織田家の侍女を手討ちにしたことなど、気性の荒い信康の傍若無人(ぼうじゃくぶじん)ぶりをすっかり露見(ろけん)させてしまったのである。信長が家康に、信康の処断を厳しく申し渡してきたのはこの(のち)のことである。

「若君は当家にとって御宝(おんたから)にございまする。けっしてお方さまが申されるようなことはございませぬ」

「だまらっしゃい!」

 御前は(げき)した。

「ハハッ」

 重政はぬかるんだ地面に深々とひれ伏した。

「かような仕儀(しぎ)をまねいた(せき)をとり、信康どの側近のそちたちが腹切って詫びるが常道(じょうどう)ではあらぬか!」

「ハハッ」

「とはいえ、終生この愚かな母が、息子を死地(しち)へ追いやったというそしりは、まぬがれようもない」

 御前の瞳に涙があふれていた。

(わらわがいったいなにをしたというのか……)

 岡崎に来てから家康は変わった。特に織田と同盟を組んでからは全く別人と思えるくらいで、もはや政敵となった実家の古女房などいらぬといわんばかりの豹変(ひょうへん)ぶりだった。

(駿府での愛しき日々は家康にとって保身のための偽りの暮しであったのだろうか。家康は自分に刃を向けているのだ。今、ここで死すことはかまわない。ただ、もう一度会いたい。あって真実を知りたい。ひと時であったにせよ、自分が本当に愛されていたのかどうか確かめたい。たとえその場で手討ちになろうとも……)

 御前は瞑目(めいもく)し言葉を失っていた。重政は目頭が燃えるように焼けていくのを感じていた。お家の大事を救うつとめと知りつつも、主君の奥方を殺害するなどというのは尋常ではなかった。

「お方さま、御輿(こし)を乗りかえられますようお願い申し上げまする!」

 重政はずぶ濡れの顔をあげてそう叫んだ。

「御輿をかえてなんとする。わらわを討つならばここでよい。わらわは見苦しく命乞(いのちご)いなどはせぬ。武人の妻らしく(いさぎよ)い死にざまを見せようぞ」

「いえ、そうではございませぬ。命をお捨てにならず生きのびてくださりませ」

「そちはわらわに生きのびよと申すか。生きて恥をさらせと申すか。そちはわらわを女子(おなご)と思うて(あなど)っておるのか!」

 野中重政は家康から築山御前暗殺を命じられてより三日三晩、寝ずに苦悶(くもん)した。

(恩顧ある殿の正室をなにゆえ殺さねばならぬのか。たしかに若君を窮地(きゅうち)に追いやったのはまぎれもなく御前の仕儀(しぎ)によるものである。家中に御前に対する怨嗟(えんさ)が渦巻いていることも事実である。だがしかし、この手で命を奪うなどというのは……)

 重政は苦肉の策を考案していた。御前を落ち延びさせるために侍女をひとり殺害するよう手筈(てはず)を整えていたのである。

「重政、かような愚策(ぐさく)(ろう)するに(およ)ばん。わらわはこの地で果てよう」

 御前は雨に煙る山々をながめながらつぶやくようにいった。

「わらわがしあわせじゃったは、若かりし頃、駿府(すんぷ)にて元信(家康)どのと暮らしたほんのわずかな日々じゃった。岡崎に参ってからは心休まる時がなかった。重政、わらわはそちたちが申すほど、生きしておけぬほど、わるい女子(おなご)か? わらわはただ殿を慕っていただけなのじゃ。妻が夫を慕い、恋焦(こいこ)がれてなにが悪い。申せ重政、なにゆえ家康どのはわらわを(うと)んぜられるのか。なにゆえ、命を捨てねばならぬのじゃ」

「……」

 重政は黙し、ひたすら平伏するのみであった。

「義元公さえ存命であったなら、かような不幸こうむるにおよばぬものを。あの(おけ)狭間(はざま)での今川軍の敗戦が、わらわを地獄へ突き落したのじゃ。憎きは織田上総(かずさの)(すけ)信長。死してもこの恨みはらさでおくべきか、重政!」

「ハハーッ!」

「よいか、わらわの首、かならずや信長のもとへ持参し、信康どのの汚名をはらしてたもれ。()しきはこの母のみ。この愚かな母が為した所業(しょぎょう)

「ハッ!」

「わらわの命などもうどうなってもかまいはせぬ。なれど信康どのだけは死なせとうない。もし信康どのを死地へ追いやるようなことでもあれば、わらわは首一つになっても、信長のもとへおもむき、見事刺し違えてみせようぞ!」

 おもてをあげた重政は嘆願(たんがん)した。

「お方さま、なにとぞ、なにとぞ、御輿をうつってくださりませ」

「もうよい重政、そちの忠義、忘れはせぬ」

「ハハッ」

女子(おなご)とはつらいものよ。黙って耐えねば生きることもままならぬ。されどわらわは正直に、気の向くままに生きた。死をたまわるは戦国の世の習い。重政、家康どのにつたえてくだされ。武田家内通などまったくもってありはせぬ。わらわの存ぜぬ話。よいか、しかと、しかとつたえてたもれ、わが身、潔白なりと!」

 重政は御前の言葉にこの世の無常を感じずにはいられなかった。

「最後の頼みじゃ、この文を浜松の家康どのに届けてくれぬか」

 重政は御前から書状をうけとるとふところ深くに納めた。

 御前はそれをたしかめるや否や、膝元(ひざもと)に隠し持っていた懐剣(かいけん)で喉もとを深く突き刺したのである。

「ザザーッ」

 ほとばしる御前の鮮血が御輿を真っ赤に染めていた。不意を突かれた重政は絶句(ぜっく)した。血しぶきをあげる御前の上半身が前のめりに御輿から飛び出し、重政の前にうなだれた。

「なんということを……」

 重政はとっさに首に刺さった懐剣を引き抜き、御前をかかえ起こした。

「重政、後生じゃ、とどめを……」

 とぎれとぎれの御前の言葉が無残に響いた。

「ウォー」

 重政は獣のような雄たけびをあげた。そしてその懐剣で御前の心の臓を刺し貫いた。

「お方さま、おゆるしくだされませ……」

 重政は御前を抱きしめたまま大声を上げながら男泣きに泣いた。

「おいたわしや……」

 無情の雨は激しく降りしきっていた。


 築山御前絶命、享年三十八歳。


 野中重政が浜松城に帰ったのは夕暮れを過ぎていた。

「重政、御苦労」

 家康はなにごともなかったかのようにいつもの冷めた口調でいった。

「して築山はいかがした?」

「築山御前は北富塚(きたとみづか)にてご自害あそばされました」

 御前絶命の瞬間がよみがえり、重政の目頭は再び熱くなった。

「そうか、殺したのか」

「ハッ?」

 重政は家康の一言が信じられなかった。殺害を命じておきながら「殺したのか」とはいかなる意味か。重政は命令を受けてより今日まで一睡もせずに苦悶(くもん)してきた日々が馬鹿らしく思えてきた。わが妻が死んだと聞いても同様ひとつ見せない酷薄(こくはく)主君(しゅくん)一日(いちにち)千秋(せんしゅう)の思いでこの浜松へむかっていたあの御前の胸中(きょうちゅう)を察すれば、重政の胸は張り裂けんばかりの痛みに襲われるのだった。

「築山はなにか申しておったか」

「武田家内通などわらわの存ぜぬ話、わが身、潔白なり、と(おお)せになられました」

「なにをたわけたことを。自分で()いた(たね)自業自得(じごうじとく)じゃ」

 重政は家康への怒りがこみ上げてくるのをおさえきれなくなっていた。

「お方さまより書状をさずかって参りました」

 重政は雨に濡れ(すみ)がにじんだ書状を家康の前に差し出した。家康は書状に目をとおすと、(かた)(ほお)に笑みを浮かべながらいった。

「女子とは女々しいものよ。今わの際にまだかような戯言(たわごと)を書いてよこすとは。殺すは忍びないと思うていたが、後々(のちのち)まで(わざわ)いを残すよりはましやもしれぬ。駿府(すんぷ)時代(じだい)からの長いつきあいじゃったが、重荷をひとつおろしたような気分じゃ」

 そういうと家康は、書状を重政の前に放り投げた。


『わらわ不幸にしてこの(おお)せかうむるといへど、いかでか(くん)(うら)む心のつゆあるべき』

(かような運命といえど、あなたさまを(うら)む心など(つゆ)ほどもござりませぬ)


「失礼つかまつります」

 重政はいたたまれず席を立った。

「骨をおらしたの。ゆるりとやすめ」

「ハハッ」

 重政は部屋を()してわたり廊下に出ると、歩きながら自分の行動を激しく後悔した。

(あの時、なにがなんでも御前を御輿から引きずり出し、助けるべきだったのだ。殿から「殺したのか?」といわれたことを悔いているのではない。酷薄(こくはく)主君(しゅくん)のために御前の命を捨てさせたことを悔いているのだ。なにゆえこのようなつとめをせねばならぬのだ。命令を厳守(げんしゅ)した俺の誇りはいったいどこにあるというのか……)

 野中三五郎重政は、この日を最後に出奔し、二度と家康の前に姿を現さなかった。武士を辞め、故郷へ引きこもったといわれている。

 築山御前自害の知らせを聞いても、信長は信康への糾弾(きゅうだん)の手をゆるめなかった。信長は信康の首を待っていた。再三再四、浜松の家康に使いを出しては、信康の処断(しょだん)を迫った。

 そしてついに、家康は嫡男松平信康に切腹を言い渡したのである。最初に介錯役(かいしゃくやく)を仰せつかったのは渋河(しぶかわ)四郎(しろう)()衛門(えもん)だったが、ことの恐ろしさに動転し行方知れずになってしまった。渋河四郎衛門の書置きには、『三代相恩の(あるじ)の首を討つなど滅相もない』とあった。

 家康はその大役を服部半蔵(はっとりはんぞう)正成(まさなり)厳命(げんめい)した。


 天正七年九月十九日 遠州(えんしゅう)二股(ふたまた)(じょう)


 白装束(しろしょうぞく)に身をつつんだ(まつ)平信(だいらのぶ)(やす)の前には、父家康の使者として二人の家臣が沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちで()していた。

 ひとりは服部半蔵正成、もうひとりは天方(あまかた)山城(やましろの)守通(かみみち)(つな)。ともに信康の介錯、検視という大役を背負っていた。

「半蔵、母上は富塚にて自害したときいたが、まことか?」

 信康が沈黙を破った。

「御意にございまする。野中重政の(しら)せによりますと、見事な最期であったとうけたまわっております」

 半蔵は平伏したまま静かにこたえた。

「あの母上がの……」

「おいたわしゅうございまする」

 二人の重臣はそういうと深々と平伏した。

「徳はいかがしておる」

「徳姫さまは大殿の命により織田家に帰参(きさん)された(よし)にございまする」

「さようか。わしもとうとうひとりになってしもうた。父上には絶縁され、母上には先立たれ、妻とは離縁(りえん)()き目。(のろ)わしい運命(さだめ)のもとに生まれてきたものじゃ。されど生まれいでたを悔いてはおらぬ。父上を恨む気もさらさらない。わが生涯、わずか二十年。微力なれど父上の助力(じょりょく)となれただけでもしあわせじゃった」

「若君……」

 たまらず半蔵が肩を震わせ嗚咽(おえつ)した。

「母上同様、武田家内通などというのは真っ赤ないつわり。かような戯言(たわごと)に踊らされ、汚名をうけたは余の不徳のいたすところ。わが汚名が父上に及ばぬよう、信康は、わが身潔白なり、と申して、見事、腹かっさばいたと伝えてくれ。お父上とは会うことも許されなんだ。この日を迎えるまでに一目だけでも会いたかった……」

「ハハッ」

 両名はふたたびかしこまって平伏した。

「道綱、この母上から譲りうけたあわせ貝を二人の娘に届けてはくれぬか?」

 信康と徳姫の間には、幼い二人の娘があった。

「かしこまりましてございまする」

「くれぐれも娘たちのことをよしなに頼む」

 信康は懐紙(かいし)につつんだ貝殻を自分の前に静かに置いた。

 天方道綱は信康の前に進み出ると、両手で捧げもって(ふところ)におさめた。

「半蔵」

「ハッ」

「介錯たのむ」

 信康は(たもと)をひらき、刀を左腹部へ垂直に突き刺した。

「うむーッ」

 信康は苦悶の表情を見せながらも、すかさず刀を右手前へ渾身の力をこめて引き、腹部を切り裂いた。

「介錯……」

 無言の半蔵は長刀を信康の頭上に振りかぶっていたが、両手両膝がガクガクとふるえ、刀を振り下ろせないでいる。

「若君できませぬ。おゆるしくだされ!」

 半蔵は長刀を放り投げると両膝をつき、天を仰いで泣き出した。

「たのむ……」

 ひかえていた天方道綱が素早く刀をひろいあげると絶叫した。

「御免!!!」

 血しぶきが飛び散り、一瞬のうちにあたり一面は血の海となった。信康の首は薄皮一枚を残し、胴体につり下がっていた。

「若君、若君、若君!」

 服部半蔵は狂ったように信康の首にしがみついて慟哭(どうこく)した。

 天方道綱は(たもと)からころび落ちた(うつせ)(がい)を見つめながら、悄然(しょうぜん)と立ち尽くしていた。


                                       〈この章 了〉




 第二章 間隙(かんげき)の夢 

     ~明智光秀の胸奥(きょうおう)


 天正十年(一五八二)五月十六日

 武田家を滅亡(めつぼう)へと追いやった徳川家康は、織田信長より駿河(するが)一国を加増(かぞう)された。そのお礼もかねて、家康は安土(あづち)(じょう)(ちく)(じょう)祝いに大名旗本(はたもと)二十八名、小姓(こしょう)十二名をつれて上方見物に訪れていた。非武装(ひぶそう)手ぶらの物見(ものみ)遊山(ゆさん)であった。

 武装せず旅に出ることについては、諸将(しょしょう)のあいだでずいぶんと意見が対立。ほとんどの家臣たちは軍備を(ととの)えるようにと諫言(かんげん)した。

しかし家康は、「右府(うぶ)さま(信長)は計算高いお方。われわれを一網打尽(いちもうだじん)にしてなんの得になるか、そのくらいのことはおわかりじゃ。それにわれらがものものしいいでたちで京に乗りこめば、せっかく平和が訪れかけたと安堵(あんど)しておる都の民にふたたびいらぬ不安をあたえることになろう」と(さと)した。

「しかし、殿。信康さまのこともござりましょう。つい先頃のことではありませぬか。古来より、備えあれば(うれ)いなし、と申しましょうほどに」

 (ほん)多平八郎(だへいはちろう)(ただ)(かつ)はそれでも引き下がらず家康につめ寄った。家康の嫡男(ちゃくなん)(のぶ)(やす)は、信長から武田勝頼(たけだかつより)と共謀したとの嫌疑(けんぎ)をかけられ切腹に処せられた。正室の築山(つきやま)御前(ごぜん)も同じく自刃(じじん)。徳川家にとっては忘れられぬ悲劇であった。

「だまらっしゃい! そのようなこと、そちにいわれるまでもない。おなじ過ちをくり返さぬようにと、わしが忍従(にんじゅう)しておるのがわからぬか。このたわけめ!」

 結局、家康のこの一喝(いっかつ)平服(へいふく)軽装(けいそう)の旅となったのである。

「殿、それにしてもこの城の贅沢(ぜいたく)なこと。天守閣が七重の楼閣ですぞ。まったくもって驚きでございますなぁ」

 鳥居元(とりいもと)(ただ)が、城下を見下ろしながら目を丸くしていった。

「派手好みの右府さまらしいわい」

 本多平八郎忠勝がふてくされたようにこたえた。

「平八郎どの、言葉をつつしみなされい」

 年長者である(ほん)多正信(だまさのぶ)がそういっていさめた。徳川家康は客殿の上座に大きな腹をつきだし、どっかと腰をおろしていた。

 大襖がひらかれた。服部半蔵(はっとりはんぞう)正成(まさなり)が廊下で平伏している。

「いかがした、半蔵」

 家康がきいた。

「ハッ、申し上げまする。(これ)(とう)日向(ひゅうが)(のかみ)さま(明智光(あけちみつ)(ひで))、お目通りを願い出ております。

「なに、光秀どのが。すぐにお通しせよ」

「ハッ」

 半蔵がさがると明智光秀が入れ替わりに入ってきた。烏帽子(えぼし)(かん)した正装(せいそう)の光秀は鷹揚(おうよう)に平伏した。

三河(みかわ)(のかみ)(家康)どのにはご機嫌うるわしゅう存じ上げたてまつります。

日向(ひゅうが)(のかみ)(光秀)どの、かたぐるしい挨拶は抜きにして、さあさあ、お顔をおあげくだされ」

 家康は満面に笑みを浮かべた。顔をあげた光秀の表情はさえなかった。

「わざわざ日向守どのが見えられるとは、いかがなされた?」

「すでに上様よりお聞きおよびのことと存じ上げまするが、それがし、ただいまより急遽(きゅうきょ)、中国への援軍のため、備中(びっちゅう)へ参ることにあいなりもうした。それゆえ三河守どのの饗応役(きょうおうやく)を近臣の長谷川(はせがわ)秀一(しゅういち)菅谷九郎(すがやくろう)()衛門(えもん)の二人に交代させていただきたくお願いにまかりこしました」

 光秀は静かに言上(ごんじょう)した。

「これはまたご丁寧なごあいさつ恐れいりまする。右府さま(信長)からもくれぐれもよろしくとのこと。心おきなくご出陣なされませ」

「ありがたきお言葉を頂戴(ちょうだい)いたし、恐悦(きょうえつ)至極(しごく)(ぞん)じ上げたてまつります」

 光秀はふたたび平伏した。

「備中といえば羽柴どの(秀吉)が戦地でござりましょうや」

「さよう。ただいま高松城を攻略中にございまする。その援軍とのこと」

「日向守どのがご出陣となれば、毛利軍の敗退はわかりきったこと。この家康もご武運を心よりお祈り申し上げる」

 明智光秀の徳川家康饗応役(きょうおうやく)罷免(ひめん)は突然のことであった。家康の滞在は一週間。光秀は安土を案内したのち、京・堺と家康一行に随行する予定にしてあったのだが、家康が近江(おうみ)に到着する前日の五月十四日になって、突然信長は光秀に備中出陣を下知(げち)した。饗応に不備があったのか、それとも戦略的(せんりゃくてき)配慮(はいりょ)からか、何も語らぬ信長の真意は(はか)りかねた。

 しかも本日、信長から言いわたされた内容は光秀を絶望の(ふち)においやるものであった。

「現在の所領(しょりょう)近江(おうみ)丹後(たんご))は没収(ぼっしゅう)毛利領(もうりりょう)出雲(いずも)石見(いわみ)を切り取り次第あたえる」

 ようするに毛利領を平定しなければ城持ち大名から格下げにするという厳しいものであった。たとえ攻略に成功したとしても山陰(さんいん)僻地(へきち)の行政がうまくいく保証はどこにもない。

 ここ数年来の光秀に対する信長の命令は過酷(かこく)(ちょう)(えつ)したものであった。丹波攻略と並行して石山(いしやま)本願寺(ほんがんじ)攻めに参戦。ともに片づけたと思うやいなや、つづいて安土城築城の普請(ふしん)総奉行(そうぶぎょう)に任じられ、築城(ちくじょう)したら休むまもなく徳川家康一行の饗応役。それがすまぬうちに今度は備中へ行けという。

日向(ひゅうが)(のかみ)どの?」

 家康が呆然としている光秀に声をかけた。

「ハッ」

「いかがされた。この三日間、それがしの接待で気づかれなされたか」

滅相(めっそう)もございませぬ。いささか不調にて……」

「それは大事になされよ。日向守どのは右府(うぶ)さま(信長)の(ふところ)(がたな)。織田家に名将多しといえど、そなたほど()()けた武将はおりますまい。くれぐれもご自愛めされよ」

「かたじけのうござる。三河守どのもご道中お気をつけなされるよう」

「うむ、それがしへのおもてなしの数々、感謝つかまつる」

 家康は光秀に対して深く丁重に頭をさげた。

(できたお方であることよ)

 かねてより光秀は家康のこのおだやかな人柄に好意をよせていた。激情にかられ(こと)あるごとに絶叫(ぜっきょう)する信長に接するたびに、光秀は腰が低く人をつつみこむ優しさにあふれた家康を思い浮かべた。また家康も儀礼(ぎれい)(たっと)ぶ光秀に敬意をはらうことを惜しまなかった。

「ところで日向守どの、右府さま(信長)は当月晦日(みそか)(天正十年五月三十一日)、(みかど)への参内(さんだい)で京へ(おもむ)かれ、四条(しじょう)西洞院(にしのとういん)(本能寺)に滞在なされるとうけたまわったが、まことでしょうや」

「ハッ?」

 信長の予定は光秀には知らされていなかった。

「なんでも森蘭丸どの以下、馬廻(うままわ)小姓(こしょう)数名(すうめい)でご警護(けいご)にあたられるらしい。家臣をご信頼なされる右府さまの度量の大きさには頭がさがる思いでござる」

 家康があらためていうまでもなく、重臣(じゅうしん)たちは諸国に遠征しており、京には明智勢をのぞいて将兵はない。柴田(しばた)勝家(かついえ)越中(えっちゅう)(富山)の上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)と、滝川(たきがわ)一益(かずます)上州(じょうしゅう)(群馬)の北条(ほうじょう)(うじ)(まさ)と、丹羽(にわ)長秀(ながひで)は四国の長宗(ちょうそ)我部(かべ)に備えて摂津(せっつ)(兵庫)で渡海(とかい)の準備中、羽柴(はしば)(ひで)(よし)備中(びっちゅう)(広島)で毛利(もうり)と交戦中である。一万を超す将兵を今すぐ用意できるのは光秀以外にはなかった。

(あーっ!)

 光秀の心に、今までなら到底およびもつかぬような思いが閃光のようにひらめいた。

「日向守どのも存ぜぬ右府さまお忍びのことでござれば、大殿(おおとの)(家康のこと)、お口が過ぎましょうぞ」

 沈着(ちんちゃく)冷静(れいせい)で知られる徳川重臣石川(いしかわ)数正(かずまさ)は、そういうと家康に流れるような視線をおくった。光秀に似て智将(ちしょう)(ほま)れ高い数正の諫言(かんげん)には家康も黙って耳を傾けることが多かった。

「いかにもいかにも。それがしとしたことが、ご容赦(ようしゃ)めされい」

 家康の陳謝をかき消すように外が騒がしくなったので、本多平八郎忠勝が一喝(いっかつ)した。

「なにごとぞ!」

 光秀の後ろの大襖(おおふすま)がいっぱいにひらいた。一瞬、部屋が静まり返った。そこには織田信長が森蘭丸をしたがえて立っていた。

「平八郎、わしじゃ、信長じゃ!」

「ハハッー!」

 平八郎はキツネにつままれたような顔をしてひれ伏した。

「光秀、なにをしておるのじゃ?」

 信長が静かに言った。

「これは上様……」

 光秀はふりかえると信長の前に平伏した。信長はそれを無視して家康が空けた上座に進み出、立ったまま光秀をにらみつけていた。痩身(そうしん)の信長の瞳が(けもの)のように鋭く光った。信長は(まばた)き一つしない。信長の視線に射抜かれた光秀が弱々しく言った。

「饗応役交代の()三河(みかわ)(のかみ)(徳川)さまへ、言上……」

「誰がさようなことをせよと申した。余はそちに備中の羽柴が援軍に向かえと申したはずじゃ」

「ハッ、その儀はたしかに。されど、三河守さまに非礼があってはと……」

「たわけ! こざかしげにいらぬ世話を焼かずによいわ。うぬは余の命がきけぬと申すか。余が浜松(家康)どのにことわりを入れたは、礼を失すると申すのか!」

 信長の怒号(どごう)が光秀の言葉を奪った。

「けっしてさようなことは……」

「うぬのその過分な思いあがりが、余の決断を逡巡(しゅんじゅん)させるのじゃ。蘭丸!」

「ハッ」

 ()(どう)の蘭丸はまるで人形のようにかしこまり、片膝つきの姿勢をたもちながら(りん)としてこたえた。

「扇!」

 蘭丸は(ふところ)にしのばせていた鉄扇(てっせん)を信長に手渡した。

「うぬの頭は腐ったか、これでもくらえ!」

 信長は上段にかまえた鉄扇を光秀のいくぶん禿げあがった頭めがけて振りおろした。

「ビシッ!」

 危険を感じた光秀が心もち後方へさがったため、まともに一撃をくらわずに済んだものの、烏帽子(えぼし)は飛び落ち、(ひたい)には傷が残った。したたり落ちる血が光秀の鼻筋に流れ落ちていた。

「ハゲ! さがれ! うぬにはもう用はない」

 唇をかみしめたまま光秀はひたすらひれ伏すばかりであった。

「じゃまじゃ、そこをさがらぬか!」

信長は容赦なく光秀を足蹴(あしげ)にした。

 光秀は客殿を()した。敬慕(けいぼ)する家康の前での恥辱(ちじょく)。織田軍団きっての智将とうたわれた明智十兵衛光秀も見る影がなかった。

当月晦日(みそか)四条(しじょう)西洞院(にしのとういん)(本能寺)に右府さまご滞在。森蘭丸どの以下、数十名でのご警護……)

 うつむき加減で廊下を渡る光秀の脳裏に、家康のこの一言が繰り返しこだましていた。


 明智十兵衛光秀は、(きょう)(ろく)元年(1528)、美濃(みの)守護士(しゅごし)土岐家(ときけ)明智光(あけちみつ)(つな)の子として、美濃の石津(いしづ)(ぐん)多羅(たら)に生まれた。早くして父光綱と死別した光秀は、叔父光安(みつやす)に育てられ、美濃明智城にて齋藤(さいとう)道三(どうさん)に仕えた。幼少の頃から学問を好み、兵法軍学書(へいほうぐんがくしょ)読破(どくは)するほどの秀才であった。茶の湯にも優れ、歌人でもあった。眉目秀麗(びもくしゅうれい)芳醇(ほうじゅん)な知性を感じさせるその表情からは、豪傑(ごうけつ)武勇(ぶゆう)といった戦国武将独特のイメージは微塵(みじん)もなかった。信長家臣の中でももっとも教養豊かな人物であった。羽柴秀吉は光秀のことを『動く兵法軍学書』などと大真面目(おおまじめ)で称していた。

 弘冶(こうじ)二年(1556)、光秀二十九歳のとき、長良川で齋藤道三、(よし)(たつ)親子が戦った。叔父光安は、敗れた道三に味方したため、明智城は陥落(かんらく)し、光安は討ち死にした。この時、光安はその子弥()(へい)()(ひで)(みつ)()(まの)助光(すけ)光春(みつはる))と、おなじく甥の次郎光(じろうみつ)(ただ)を光秀に預け、城から脱出させた。光秀はこの二人と妻子をつれ、越前(えちぜん)長崎の(しょう)念寺(ねんじ)へ落ちのびた。以後、約十年間、光秀は諸国を転々と流浪(るろう)した。

 (えい)(ろく)九年(1566)越前の朝倉義景に仕えていたとき、将軍足利(あしかが)(よし)(あき)が朝倉家に身を寄せていた。将軍家再興(さいこう)をもくろむ義昭の思惑(おもわく)とは裏腹(うらはら)に、朝倉義景にはまったく上洛(じょうらく)の意志はなかった。それを見てとった光秀は、永禄三年(1560)に(おけ)狭間(はざま)にて今川(いまがわ)義元(よしもと)撃破(げきは)し、すさまじい勢いで領土拡大をつづけていた織田信長と足利義昭との間を周旋(しゅうせん)し、義昭の上洛を果たした。以後、義昭、信長の両方につかえ、京都の行政にも(たずさ)わった。

 元亀(がんき)二年(1571)、信長につかえて六年目、光秀は近江滋賀を与えられ坂本城主となり、十五万石の大名となった。異例のスピード出世であった。

 天正元年(1573)、織田信長により室町幕府滅亡。光秀は以後、信長の武将として各地を転戦した。天正三年(1575)に日向(ひゅうが)(のかみ)となり丹波の計略に着手。そして天正六年(1578)に細川(ほそかわ)(ふじ)(たか)の協力を得、内藤(ないとう)忠行(ただゆき)の亀山城、さらに()(がみ)城の波多野(はたの)(ひで)(はる)(くだ)した。天正七年(1579)に丹波征服。翌、天正八年(1580)には、丹波一国を加増され、亀山城主となった。

 光秀の叡智(えいち)は冴えわたり、信長の天下平定プロジェクトには必要不可欠な存在となっていた。が、しかし、最近になり二人の関係は急激に悪化。ことあるごとに衝突を重ねる始末であった。革命児信長のコンセプトは、既成(きせい)権威(けんい)伝統(でんとう)象徴(しょうちょう)といったものを壊滅(かいめつ)することであった。その一連の既成こそが乱世を生み出した諸悪(しょあく)根源(こんげん)であると思っていた。

 一方、光秀はその博学ゆえに、伝統や権威というものは、未来に継承(けいしょう)すべき貴重な財産であると信じて疑わなかった。そんな光秀には、次第にエスカレートする信長の侵略(しんりゃく)行為(こうい)が到底理解できなかった。神社(じんじゃ)仏閣(ぶっかく)を焼き払い、僧侶(そうりょ)や女こどもまでも情け容赦(ようしゃ)なく殺戮(さつりく)する信長の残虐(ざんぎゃく)行為(こうい)に、光秀は主従(しゅじゅう)の関係を忘れて信長をいさめた。だが、その諫言(かんげん)は信長の逆鱗(げきりん)に触れ、光秀は取り返しのつかない立場に追いやられようとしていた。

 人間の欲求は「生と死」、生きてさえいればよいという次元のものから、「自己実現」などという高度な欲求に昇華(しょうか)する。天下平定という信長のビジョンはまさしく自己実現へのハイレベルな欲求であった。そして信長はその高度な欲求を欲するものは自分以外に認めなかった。家臣たちは、生命の確保であるとか、物質的享受であるとか、その程度の欲求を有しておれば良いと考えていた。それが光秀は古来の常識という定規で、信長と同じ次元に自分を置き、信長の行為をいさめようとする。信長には許しがたい光秀の越権(えっけん)行為(こうい)であった。光秀の知識(ちしき)教養(きょうよう)は時によって、まわりくどい表現を生み出すことがある。それが革命に必要な大英断(だいえいだん)逡巡(しゅんじゅん)をおよぼす。それは信長のもっとも嫌いなことであり、悲劇は光秀がそのことに気づいていないことであった。

 天正十年(1582)五月二十三日。安土を進発した光秀は、いったん坂本城に帰還(きかん)。備中出陣への準備は着々と進んでいた。誰も備中への出陣を疑う者はなかった。しかしながら光秀の苦悩は、すでに深淵(しんえん)へたどりついていた。信長が自分を備中へ出陣させるというのは、明智家断絶(だんぜつ)序章(じょしょう)に過ぎない。安土を立つ前、すでに光秀には備中出陣の意志はなかった。とてつもなく重厚(じゅうこう)閉塞感(へいそくかん)が光秀に信じがたい解決(かいけつ)(さく)(そう)()させていた。

 光秀は信長への反逆(はんぎゃく)こそが自分たちに残された唯一(ゆいいつ)の道であると決断したのである。いかに光秀が努めようと信長の眼に光秀の()は映らない。今さら秀吉のように媚びへつらうような芸当(げいとう)はできない。また仮に光秀一人が切腹したくらいで明智家を存続させてくれるような主君ではない。だからといって手をこまねいて自家(じけ)の滅びゆくのを黙って見過ごすわけにはいかぬ。

「ときは、いま、雨が(した)しる五月(さつき)かな」

 家康からもれ聞いた『当月晦日(みそか)四条(しじょう)西洞院(にしのとういん)に右府さまご滞在。森蘭丸どの以下数十名でのご警護(けいご)』というこの極秘(ごくひ)情報(じょうほう)が、信長を誅殺(ちゅうさつ)するという信じがたい打開策を決断する引き金となったのである。まさに時は今しかない。織田本隊にまともに(いど)んでも勝ち目はない。ところが百戦(ひゃくせん)錬磨(れんま)の信長が思わぬ油断から無防備(むぼうび)の京に入るという。光秀は千載(せんざい)一遇(いちぐう)好機(こうき)に恵まれたのである。だがこの打開(だかい)(さく)決断(けつだん)すると同時にあらたな苦悩(くのう)が光秀を苦しめることとなった。見識(けんしき)教養(きょうよう)(ひい)でた光秀にとって、『主殺(しゅごろ)し』とはあきらかに『謀反(むほん)』を意味する。それはすなわち『逆賊(ぎゃくぞく)』という汚名(おめい)()ねばならぬことになる。このことは光秀にとって簡単(かんたん)には容認(ようにん)できぬことであった。

 武田(たけだ)(はる)(のぶ)(しん)(げん))は父信(のぶ)(とら)駿(すん)()(つい)(ほう)した。齋藤道三はその生涯(しょうがい)で主殺しをかさね、美濃一(みのいっ)(こく)手中(しゅちゅう)におさめた。齋藤義(よし)(たつ)は父道三と家督(かとく)をめぐって争い、その父を殺した。骨肉(こつにく)相食(あいは)むは戦国の世では日常(にちじょう)茶飯事(さはんじ)のことであったが、光秀にはそれを肯定(こうてい)して実行に(うつ)すだけの強固(きょうこ)度量(どりょう)に欠けた。もともと光秀にその度量があったなら、このたびのような信長との確執(かくしつ)が起きる前に、事態(じたい)は変わっていたであろう。いずれにせよ、今、栄華(えいが)(きわ)めた武田家も齋藤家もこの世にない。

 逆賊(ぎゃくぞく)宿(しゅく)(めい)であろうか……。

 不吉(ふきつ)予感(よかん)が光秀の決断を(にぶ)らせていた。光秀は坂本城に帰還(きかん)してから一週間あまり答えのでない問答(もんどう)をくり返していた。

齋藤(さいとう)(とし)(みつ)どの、お越しにございまする」

 廊下(ろうか)小姓(こしょう)の声がした。

「とおせ」

「はっ」

 光秀は自分の決断を重臣(じゅうしん)一同(いちどう)下知(げち)する前に、腹心(ふくしん)明智(あけち)()馬助(まのすけ)(ひで)(みつ)(さい)(とう)内蔵(くらのすけ)(とし)利三(みつ)には打ち明けておこうと思った。甥にあたる秀満は激しやすい明智軍きっての武闘派(ぶとうは)として知られていた。逆に利三は思慮(しりょ)(ぶか)策謀家(さくぼうか)といえた。光秀の(まど)いを()くには一気呵(いっきか)(せい)(こと)を運ぼうとする秀満よりも沈着(ちんちゃく)冷静(れいせい)な利三のほうが適任(てきにん)であると思えた。

小姓がさがると、齋藤利三が神妙(しんみょう)な顔つきで入ってきた。利三は光秀の前に()し、深々と平伏(へいふく)した。

内蔵(くらの)(すけ)(うたげ)はいかがじゃ?」

 (こうべ)をさげたままの利三にむかって光秀がいった。

「たのしい宴とあいなってございまする」

 利三は片ほおをゆがめて笑みを浮かべた。

「うそを申せ。そちの顔にそう書いておるわ」

「これは面目(めんぼく)次第(しだい)もござりませぬ。殿のご推測(すいそく)(どお)り、酒宴(しゅえん)はいささか沈んでおりまする」

「家臣たちは何と申しておる。かまわぬ申せ」

「われらこれより宿(やど)なしと」

「さようか……」

 光秀は()いたことを()いた。自身が予想しうる最悪(さいあく)事態(じたい)を家臣たちも考えずにはおくまい。利三の当然の答えに光秀は(きゅう)した。

「秀満どのにおかれましては、『所領(しょりょう)を召し上げたうえに、わが明智の精鋭(せいえい)羽柴(はしば)(秀吉)の援軍(えんぐん)に行かせるなどという(おろ)かな(めい)をくだされた上様(信長)は、ご乱心(らんしん)あきらかなり』と声高(こわだか)に叫ばれております」

「なに左馬助がさようなことを……」 

 光秀の脳裏(のうり)席巻(せっけん)する怨嗟(えんさ)は家臣たちにも連鎖(れんさ)していた。それは至極(しごく)当然(とうぜん)のことでもあった。

「内蔵助、わしの忍従(にんじゅう)もこれまでじゃ」

 光秀の問いに利三はこたえなかった。

「信長を、討つ!」

 光秀は初めて心のうちを明かした。

「わしには愛する妻子を死に至らしめてまでも信長との盟約(めいやく)を守り通した徳川どののような堪忍(かんにん)度量(どりょう)もない」

 信長は徳川との盟約を確かめるために家康の嫡男(ちゃくなん)信康と正室築山(つきやま)御前(ごぜん)の命を奪った。それは徳川にとってみれば織田家への生贄(いけにえ)に他ならなかった。家康は血涙(けつるい)を流す思いでその仕打ちに耐えた。

「さりとて(かい)川和(せんお)(しょう)のように(さと)りを開くにはあまりに未熟(みじゅく)すぎる」

 先の甲州(こうしゅう)()めの(おり)、信長は武田家ゆかりの()林寺(りんじ)を焼き払った。恵林寺は武田信玄の菩提寺(ぼだいじ)であり、(みかど)信任(しんにん)も厚い名僧快川和尚がいた。火を放つよう命じた信長を光秀は必死で(いさ)めた。しかしこの時も光秀の諫言(かんげん)は聞き入れられず、僧、稚児(ちご)、使用人など百数十名が焼き殺された。すでに信長は比叡山(ひえいざん)で四千人、伊勢(いせ)長島(ながしま)一向(いっこう)一揆(いっき)では門徒(もんと)二万人、そして「高野(こうや)(ひじり)」とよばれる諸国を巡礼(じゅんれい)している僧千三百人を殺戮(さつりく)していた。老若男女おかまいなしの無差別殺人だった。

 燃え(さか)る炎の中で快川和尚は()したまま合掌(がっしょう)していた。そして炎がその身をつつみこんだ瞬間、快川和尚はカッと目を開き、織田勢をにらみつけながら声高らかに言い放った。

心頭(しんとう)滅却(めっきゃく)すれば、火、おのずから涼し」

 すべてを超越(ちょうえつ)した諦観(ていかん)極致(きょくち)であった。羽柴(はしば)(ひで)(よし)は燃え落ち、(くず)れ落ちる和尚の姿をヘラヘラ笑いながら見つめていた。光秀は自分の力の無さを痛感(つうかん)した。

(自分の出世の下敷(したじ)きにするために、どれだけ人の命を奪えばいいというのか。『天魔(てんま)所為(しょい)』と呼ばれる信長の手先となっている自分はいったい何者なのか?)

「わしはいずれの御仁(ごじん)でもない。わしは自分の心に正直にありたい。わが正義(せいぎ)(つらぬ)きたい。いかようにみても、信長は悪鬼(あっき)羅刹(らせつ)じゃ。数々の所業(しょぎょう)、断じて許しがたい。じゃがの、利三、主君(しゅくん)(やいば)をむけるは忠孝(ちゅうこう)()(そむ)くことになりはしまいか」

「無用なお気遣(きづか)いかと」

 光秀は意外(いがい)であった。(ひで)(みつ)ならいざしらず、利三はかならずや光秀の決断を思いとどまるよう()くに違いないと思っていたからである。

「なに、無用じゃと?」

御意(ぎょい)にございまする。殿(との)、殿はなにゆえ亀山(かめやま)(じょう)築城(ちくじょう)(おり)、その城を「周山(しゅうざん)」と(ごう)されましたや!」

 利三は語気(ごき)をあらげた。それは主君(しゅくん)(まど)いを()(はな)(きび)しい口調(くちょう)であった。

「自らを大陸(中国)(しゅう)王朝(おうちょう)()(おう)になぞらえたのではありませぬか。悪逆(あくぎゃく)非道(ひどう)(いん)(ちゅう)(おう)(ちゅう)(さつ)する、そのご決断でござりましょうや」

「まこと、そちの申す通りじゃ」

「天下に号するを謀反(むほん)とは申しませぬ。悪鬼(あっき)にはもはや殿の礼節(れいせつ)忠義(ちゅうぎ)は無用にございまする。殿が天下さまになられることは明智家のみならず、諸国(しょこく)万民(ばんみん)のためにございまする。殿に(つか)えてから今日(こんにち)までこの利三、このときをどれほど願っておりましたことか。のちのち必ずや殿のご決断(けつだん)万民(ばんみん)が認めることとあいなりましょう」

 すでに利三は信長への忠義を捨て去っていた。利三はあからさまに信長を罵倒(ばとう)し、光秀の決断を英断(えいだん)であると言いきったのである。

「うむ」

 光秀は利三の射抜(いぬ)くようなまなざしを受けながら黙って何度もうなずいていた。

 その日、夜半(やはん)から降り出した雨は夜通(よどお)し降り続けた。寝苦(ねぐる)しさからか眠りが浅く、光秀は亡くなった妻との思い出を夢の中に見ていた。

      *

 明智光秀の妻、煕子(ひろこ)美濃(みのの)(くに)(つま)木城(きじょう)()った()(ごう)妻木(つまき)()()()の娘で、光秀が二十六歳の時に(めと)った。かねてより許嫁(いいなずけ)として二人は結ばれることになっていたのだが、それが不思議なことに(とつ)いできた時は煕子ではなくその妹であった。なぜなら煕子は祝言(しゅうげん)の前に疱瘡(ほうそう)(わずら)い顔半分にその後遺症(こういしょう)としての(あざ)が残ってしまったのである。(みにく)いあばた(づら)になった煕子を嫁がせるのは(しの)びないと、父である妻木勘解由は、その妹を姉の煕子と(いつわ)って明智家へ嫁がせたのである。

 事情を知った光秀は書状を(したた)めると妹ともども実家へ送り返してしまった。

「それがしの許嫁(いいなずけ)は煕子どのでござる。いかなる事情があろうと妹どのを(めと)るわけにはいかぬ。終生をともにするは、許嫁としての(ちぎ)りを()わした煕子どの以外にはござらん。問答(もんどう)無用(むよう)、煕子どのをそれがしにお届けくだされ」

 光秀は煕子の美醜(びしゅう)などまったく意に介さず、こころよく娶ってしまった。妻木(つまき)()()()は自分の浅はかさを若い光秀に思い知らされ心から陳謝(ちんしゃ)した。当人の煕子は感激のあまり、三日三晩、涙がやまず、顔を伏せて光秀を見つめることができなかったという。それからしばらくは煕子にとって夢のような幸せな日々が続いた。

 しかし嫁いでから六年目、居城(きょじょう)であった明智城は焼け落ち、煕子は光秀とともに流浪(るろう)の旅に出ることになる。生活も困窮(こんきゅう)(きわ)め、朝夕(あさゆう)の食事にも事欠(ことか)始末(しまつ)。それでも煕子は光秀の士官(しかん)(かな)うようにと()()にして苦しい家計をやりくりした。

 浪人ながら光秀はその学力(がくりょく)博識(はくしき)をもって塾を開き、学問を教えたりしていた。また光秀は浪人を集めて連歌(れんが)を催したりもした。収入はほとんど無償に近いそのわずかな受講料である。

 当時、『汁講(しるこう)』といって、武技を談じあったりする武士の修養を目的とした私的なサークル活動があった。メンバーが交代で亭主役を担当し、場所と酒肴を用意する取り決めとなっていた。ある日、その順番が光秀にまわってきたのだが、客をもてなす金がない。煕子には汁講がわが家であることは伝えておいたが、おそらくどうしようもないだろうと(あきら)めていた。光秀は(こま)()てたが、どうすることもできずにその日を迎えることになってしまった。

 当日になって驚いたことに、素晴らしい御馳走(ごちそう)が並んでいるではないか。それに酒まで用意されており、光秀の面目(めんぼく)は十分すぎるほどたもたれたのである。しかし、その喜びもつかの間、奥に控えていた煕子の姿を見て光秀は愕然(がくぜん)とした。

「ひろ、それはいかがしたのじゃ……」

 なんと煕子は自慢(じまん)黒髪(くろかみ)をバッサリと切り落としていたのである。わけを聞くと、髪を売って今日のもてなしの費用(ひよう)にあてたという。当時、髪は女の命といわれた。今と違って、髪を切るということは女を捨てるに近い行為であったのだ。かりにも武家(ぶけ)内儀(ないぎ)が髪を切るとは……。それは捨て身の妻の献身(けんしん)であった。

「なんということを」

 光秀は自分のふがいなさに涙を流した。

殿御(とのご)が泣いてはみっとものうございまする。わ

たくしは貴方(あなた)さまの妻になれただけで幸せなので

ありますから、わたくしの心配など無用でござい

ます。心おきなく武芸(ぶげい)学問(がくもん)にお(はげ)みくださいまし」

「おひろ、すまぬ。きっとこのままではすまぬ」

 のちに細川(ほそかわ)(ただ)(おき)に嫁いだ光秀の娘玉子(たまこ)は、煕子

の子で、後世キリスト教に帰依(きえ)し、細川ガラシャと呼ばれた。関ヶ原の合戦では石田三成と対峙(たいじ)壮絶(そうぜつ)最期(さいご)()げる。

 以後、修練(しゅうれん)()みあげた光秀は朝倉家に仕官(しかん)し軍事面でその才能を開花させた。しかしながら光秀は安穏(あんのん)とした暮らしを好まなかった。

 永禄九年(1566)、将軍家上洛(じょうらく)に意欲を燃やしていた光秀は、まったく上洛の意志のない朝倉義景(あさくらよしかげ)見限(みかぎ)り、朝倉家に寄宿(きしゅく)していた足利(あしかが)十五代将軍(しょうぐん)(よし)(あき)(こう)を織田家へ周旋(しゅうせん)し、信長の軍事力を後ろ(だて)に義昭の上洛を果たした。そして自身もまた織田家へ転じた。

 光秀が織田家重臣(じゅうしん)の大名たちを抜き去り、大大名へとのし上がるのに時間を要さなかった。目を見張るような立身出世(りっしんしゅっせ)をともに支えてきた煕子も五年前、労該(ろうがい)でこの世を去った。気のせいかもしれないが、心の支えだった煕子を亡くしてから、光秀を取り巻く雲行きが(あや)しくなってきたような気がしないでもなかった。

      *

 翌早朝、備中(びっちゅう)出陣(しゅつじん)軍議(ぐんぎ)という名目のもと重臣たちが招集(しょうしゅう)された。出席者は以下の通り、明智(あけち)(さま)()(すけ)秀満(ひでみつ)明智(あけち)()衛門(えもん)光忠(みつただ)齋藤(さいとう)内蔵助(くらのすけ)利三(としみつ)藤田伝五(ふじたでんご)溝尾(みぞお)(しょう)兵衛(べい)奥田(おくだ)宮内(くない)

「軍議といえど、所詮(しょせん)羽柴(はしば)(秀吉)が援軍。なにゆえ、わが明智が羽柴の下風(かふう)に立たねばならぬのか?」

「上様はなにかといえば羽柴を贔屓(ひいき)なされる」

「上様出陣までのつなぎのようなお役目。結局は羽柴の手柄(てがら)になるのじゃ。これほどの貧乏(びんぼう)くじもござるまい」

 諸将(しょしょう)は不満を隠さず口にした。それでも光秀が座につくと私語もなくなり、軍議はいつもの緊張(きんちょう)した雰囲気(ふんいき)に包まれた。

 開口一番、光秀の一言は重臣たちの度肝(どぎも)()いた。

「備中には出陣せぬ」

「殿、なにゆえにございまするか!」

 齋藤利三以外の重臣たちが、その意を(うかが)(するど)い目つきに豹変(ひょうへん)した。

「上様は明智を見放(みはな)されたのじゃ。わが領地(りょうち)没収(ぼっしゅう)し、羽柴の下風(かふう)に立てと(おお)せになるは、明智に用無しの烙印(らくいん)を押したも同然。こたびの命にはこの光秀従(したが)わぬ」

 光秀は冷静に諸将(しょしょう)(さと)すような口調(くちょう)で言った。

「まさしく(おお)せのとおり。もはやこれまでじゃ!」

 明智秀満が(げき)した。

「人間とは(おろ)かなものよ。わしは信長こそが天下を平定する器量(きりょう)の持ち主であると信じて(うたが)わなんだ。天下(てんか)()()()()げるためには、もちろん血も流さねばならぬ。なれど神仏(しんぶつ)も恐れぬ信長の所業(しょぎょう)にはさしものわしの忠義(ちゅうぎ)(したが)うを逡巡(しゅんじゅん)する日々のくり返しじゃ。これ以上、罪もない人々を殺戮(さつりく)する天魔(てんま)所為(しょい)に手を貸すつもりは毛頭(もうとう)ない」

 だれにも異論はなかった。まったく光秀のいうとおりであった。しかもその刃が今、自分たちに向けられようとしているのだ。

「すでに譜代(ふだい)の大名である佐久間(さくま)(のぶ)(もり)どの、(はやし)(みち)(かつ)どのは織田家を追放された。備中より帰還(きかん)してのち、おそらくわれらも同じ()き目にあうことであろう」

 光秀の言葉に重臣たちは大きくうなずいて居ずまいを正した。

「殿、もはや時を数えるは無駄なこと。われら一同、お下知(げち)(たまわ)りとうございまする」

 すべてなにもかも知りつくしている齋藤利三が光秀の前に進み出て言った。

「殿!」

 明智光忠が、溝尾勝兵衛が、藤田伝五が、奥田宮内が口々に光秀の決意をうながした。

「殿、お下知を!!!」

 明智秀満が絶叫した。

 光秀は家臣たちそれぞれのまなざしに無言の視線でこたえると、言い放った。

「そちたちの命、わしにくれ。これよりこの光秀が天下に(ごう)する」

「ハハッ!」

 重臣たちは声をそろえて平伏した。

「よいか者ども、敵は四条(しじょう)西洞院(にしのとういん)本能寺(ほんのうじ)にあり!」

 その声は夏空のごとく()みきっていた。          

                                      〈この章 了〉




 第三章 敦盛のあと  

     織田信長正室 帰蝶 ~本能寺異聞~


「夜更けてまいりました。それでは父上、失礼つかまつります」

 三位(さんみ)中将(ちゅうじょう)(のぶ)(ただ)どのが(みょう)覚寺(かくじ)に帰ったのは、夫信長(のぶなが)(あつ)(もり)を舞ってしばらくしてからのことでございます。いつものように(らん)(まる)どの以下、()(どう)小姓(こしょう)(したが)え、寝所(しんじょ)に向かう夫の足取りはめずらしく乱れておりました。

 天正十年(1582)五月二十九日、夫の上洛(じょうらく)にともない、わたくし(信長正室(せいしつ)()(ちょう)別名濃姫(のうひめ))も京へ同道(どうどう)いたしました。(みかど)への参内(さんだい)や所用を済ませた夫は、わずかな手勢(てぜい)(ひき)いて、昨日、宿舎(しゅくしゃ)となるここ四条(しじょう)西洞院(にしのとういん)本能寺(ほんのうじ)に参りました。そして今宵(こよい)嫡男(ちゃくなん)(のぶ)(ただ)どのを()されて親子水(みず)()らずの(うたげ)とあいなったのでございます。

 第十五代将軍足利(あしかが)(よし)(あき)(こう)とともに全国平定に乗り出した夫は、譜代(ふだい)の諸大名を各地に派兵(はへい)し、京にありながら戦勝の(しら)せが届くのを心待ちにしているようです。日々、人生五十年と敦盛を(うた)う夫は、四十九歳にして天下を掌中(しょうちゅう)におさめるその仕上げに着手(ちゃくしゅ)しておりました。

 わたくしが、織田家へ(とつ)ぎましたのは、今から三十四年前の天文(てんもん)十七年(1548)のことでございます。当時、『まむし』と恐れられていたわたくしの父上齋藤(さいとう)道三(どうさん)は、織田家とは敵対(てきたい)関係にあり、夫の父上である織田(おだ)備後(びんごの)(かみ)(のぶ)(ひで)さまとの度重なる(いくさ)に明け暮れておりました。父は、尾張(おわり)から執拗(しつよう)美濃(みの)へ攻め込んでくる織田軍に手を焼いているようすでございました。

 父道三が頭を痛めておったのは、()田方(だがた)が美濃を攻める戦の名分が、たんなる領土(りょうど)拡大(かくだい)目論(もくろ)むものでなかったからでございます。御承知(ごしょうち)のとおり、父道三は油の(ぎょう)商人(しょうにん)から美濃の国主(こくしゅ)へとのし上がった戦国大名でございます。商人から武士に転身(てんしん)してまもなく、謀略(ぼうりゃく)をもって主人を亡きものにし、さらには守護代(しゅごだい)土岐頼(ときより)(あき)さままでも他国へ追放したときいております。織田軍の美濃(みの)侵攻(しんこう)大義(たいぎ)名分(めいぶん)は、失地(しっち)回復(かいふく)を目指す旧国主(きゅうこくしゅ)土岐頼芸さまへの合力(ごうりき)ということでございました。

 一進一退(いっしんいったい)を繰り返した末、父は(より)(あき)さまを一旦もとの居城(きょじょう)大桑(おおくわ)(じょう)帰還(きかん)させることで織田との講和(こうわ)を成立させました。そしてその証として、織田・齋藤両家の婚姻が整ったのでございます。夫織田(おだ)三郎(さぶろう)信長(のぶなが)十五歳、わたくし()(ちょう)十四歳の早春のことでございました。父の御苦心(ごくしん)をおもえば、わたくしが両家の(いしずえ)となるくらいの覚悟(かくご)はできておりましたが、じつはこの時、わたくしにはすでにお(した)いする殿方(とのかた)がいたのでございます。その方の名は、明智(あけち)(じゅう)兵衛光(べいみつ)(ひで)さま、いまの明智日向(ひゅうが)(のかみ)光秀どのでございます。

 わたくしの母、小見(おみ)の方は美濃の国恵那郡(えなぐん)明智の城主明智駿河(するが)(のかみ)(みつ)(つぐ)の娘で、光秀どのの父上光(みつ)(つな)さまとは姉弟となるのでございます。幼いころからともに過ごすことも多く、(あに)(いもうと)のように仲むつまじく接するうち、わたくしは、いつのまにか十兵衛さまを殿方としてお慕いするようになったのでございます。

      *

 青葉山山麓にある久遠(くおん)の滝へふたりで馬を駈け訪れたとき、わたくしは十兵衛さまに思いのさまを告げました。

「帰蝶は尾張には行きたくありませぬ」

「姫、無理を申すな。こたびの婚礼は両家にとって……」

「十兵衛さまは、帰蝶をお嫌いになられたのでございますか?」

「そうではござらぬ。いくら慕いあっていようとも、こたびの婚礼(こんれい)の意は大きい。齋藤家の行く末を考えたら、あきらめるよりほかない」

「いやでございます。大うつけと評判の信長などに(とつ)がねばならぬ帰蝶の心情(しんじょう)、十兵衛さまは少しもお考えくださらないのですね」

「わしも気持はそなたと寸分(すんぶん)(たが)わぬ。されどこの戦国の時世(じせい)、たがいの情愛(じょうあい)成就(じょうじゅ)するほど(あも)うはない。わしはそなたとめぐり会えたこと生涯(しょうがい)忘れはせぬ。織田・齋藤両家が断絶(だんぜつ)することなく互いに達者(たっしゃ)で暮らしておれば、また逢える日も(おとず)れよう」

「はかない(さだ)()でございまする。ならばこの生涯、わらわ(みずか)らの手で閉じとうございます」

「いかがするつもりじゃ?」

「父から授かったこの懐剣にて信長と刺し違える覚悟でございます。父道三は、世間の風評通り信長がまことうつけならば、わらわに信長を討ち果たせと命じられました」

「たわけたことを……」

      *

 わたくしが織田家に嫁いで八年後の弘冶(こうじ)二年(1556)父道三は、わが子義(よし)(たつ)によってその命を奪われました。わたくしの兄上義竜の出生には、かねてから()まわしい(うわさ)がございました。わたくしと(はら)(ちが)いである兄の母上深()吉野(よしの)さまは土岐(とき)(より)(あき)さまの愛妾(あいしょう)で、戦の恩賞(おんしょう)として父が(さず)かったといわれておりました。父の側室(そくしつ)としてあがったときすでに深吉野さまは身籠(みごも)っておられ、その子種(こだね)はなんと前守護(しゅご)土岐頼芸さまであったと風評(ふうひょう)が流れておりました。その噂を信じた兄上は、実父(頼芸)を追放した鬼畜(きちく)であると父道三を恨み、(やいば)を向けたのでございます。しかし、その兄もまた五年後の(えい)(ろく)四年(1561)に病に(たお)れ、この世を去りました。新しく城主(じょうしゅ)となった(たつ)(おき)は、わが夫信長により稲葉(いなば)山城(やまじょう)を攻められ、開城(かいじょう)()()長島(ながしま)に落ち延びましたが、その後、頼った朝倉(あさくら)()滅亡(めつぼう)と運命をともにし、齋藤家はここに断絶(だんぜつ)しました。その朝倉を滅ぼしたのも誰あろう夫信長でございます。

 父道三が亡くなる三年前の天文(てんもん)二十二年四月、父は美濃・尾張国境の富田(とんだ)正徳寺(しょうとくじ)で信長と会見したそうでございます。

「情けのない話じゃが、わしが死んだのちは織田信長が美濃の国主となろう」

 夫信長の雄姿(ゆうし)(たぐい)まれな英傑ぶりを発見した父は、側近(そっきん)にそうもらしたと言い伝えられております。父道三の予言通り、(たつ)(おき)を追放して美濃を征服した信長は、井ノ(いんのくち)岐阜(ぎふ)とあらため、ここを天下統一の本拠(ほんきょ)といたしました。

 夫信長が稀代(きだい)のうつけ者であるという風評は、奇才がもつもう一つの顔で、事実は父道三が看破(かんぱ)したとおりの天才武将にございました。夫の監視下(かんしか)では、実家へ手紙一通出すこともままなりません。ましてや嫁ぐ日、父が申したように、寝首(ねくび)()くなど思いもよらぬことでございます。

 わたくしが正室(せいしつ)であるというのはまったく表向きのことで、嫁いでこの(とし)までお恥ずかしい話でございますが、一度も夫と寝所(しんじょ)をともにしたことはございません。それでも父道三が健在(けんざい)な頃には、夫がわたくしの部屋を(おとず)れることがままございましたが、父が亡くなってからというもの、年賀(ねんが)に顔を合わすくらいにございます。

 夫信長は男色(だんしょく)を好んで、もしや女嫌いではないのかと邪推(じゃすい)いたしたこともございましたが、さようなことはなく、すでに側室(そくしつ)にはわ子も数多(あまた)できておりました。家中にはわたくしが()まず()であるという(うわさ)が飛び交い、わたくしにつき従ってきていた侍女(じじょ)たちは、夫の冷酷(れいこく)な仕打ちに涙にくれる毎日でございました。なにゆえ、それほどまでに夫がわたくしを(うと)んじたのかは(さだ)かではございませぬが、唯一(ゆいいつ)、わたくしとの()()めが政略(せいりゃく)によるものであったからではないのかと思われるのでございます……。

      *

「お(かた)さま…お方さま…」

 夜明け間近でしょうか、侍女(じじょ)の一人がわたくしを呼び起こしました。

何事(なにごと)か?」

 次女はわたくしの耳もとへ口をよせると、小鳥が(さえず)るような小声で申しました。

日向(ひゅうが)(のかみ)さまの使いと申すものが内密(ないみつ)にお方さまにお目通(めどお)り願いたいと」

「なんじゃと! 光秀どのの使いじゃと?」

 わたくしは急いで次女が案内する部屋に向かいました。わたくしの胸はなぜか高鳴り、えもいわれぬ(むな)(さわ)ぎがしました。

 まだ朝陽も差し込まぬ薄暗(うすぐら)い部屋に、一人の武者が平伏しておりました。

「おもてをあげられよ」

 (とう)()にうつしだされたその顔を見て、わたくしは愕然といたしました。

「もしや…そなたは…」

「お久しゅうございまする。お方さまの御慈悲(ごじひ)により今日まで生きのびてまいりました」

 眼前にいるその若者は、三年前の(てん)(しょう)七年九月十九日、遠州(えんしゅう)二股(ふたまた)(じょう)にて自決して果てたはずの徳川家康どの嫡男(ちゃくなん)(まつ)平信(だいらのぶ)(やす)どのでございました。

 家康どのの正室(せいしつ)築山(つきやま)御前(ごぜん)と嫡男信康どのは、甲州の武田家と(ひそ)かに通じて、織田徳川断絶(だんぜつ)(はか)ったとの嫌疑(けんぎ)をかけられ、夫信長の命により粛清(しゅくせい)されました。信康どのの正室は夫信長と側室生駒(いこま)どのの間に生まれた(とく)(ひめ)でございました。わたくしは、側室の子なれど幼き頃より()(した)しんだ恭順(きょうじゅん)な徳姫が、最愛の夫を失うのが不憫(ふびん)でならず、美濃より連れてまいった忍びの手のものを徳川に内密に送り込み、信康どのを救い出す手筈(てはず)(ととの)えるよう申しつけておりました。しかしまもなく、信康どのの(くび)が夫の元へ届けられたと聞いて、わたくしは、(のぶ)(やす)どのはすでにこの世にないものと思っておったのでございます。

無事(ぶじ)であられたか」

二股(ふたまた)(じょう)で自害したは、それがしと(うり)二つの影武者(かげむしゃ)にございまする。近臣(きんしん)の者にも(さと)られぬ最期(さいご)を見事演じてみせた(よし)にございまする。それからのちは、日向(ひゅうが)(のかみ)さま(明智光秀)の重臣(じゅうしん)齋藤(さいとう)(とし)(みつ)どの配下(はいか)の忍びとして地に伏せておりました」

「浜松どの(徳川家康)にはお目通り願いましたか?」

滅相(めっそう)もない。それがしが生きていることが上様(織田信長)に知れれば、父上(徳川家康)の身に災厄(さいやく)が降りそそぐは必定(ひつじょう)。父上もいまだそれがしが存命(ぞんめい)であることは存じませぬ。すでに亡きものとして(とむら)っていただいております」

「さようか。それは()なことよの」

 わたくしは過酷(かこく)運命(さだめ)を背負わせたわが夫を少しばかり嫌悪(けんお)しました。

「されど本日より、父上にお目通りが(かな)うこととあいなりましょう」

 信康どのは微笑(びしょう)をうかべてそう申しました。

「それはいかなる()か?」

 わたくしは信康どのの申すことが理解(りかい)できずにおりました。

「織田・徳川の同盟(どうめい)はまもなく(ぼっ)し、あらたに明智・徳川の連合軍が天下をおさむるということにございまする」

「なんじゃと! 聞き捨てならぬ、信康どの、そなた気でも狂われたか。天下平定間近のこの織田軍がさような……」

 思わず絶句(ぜっく)すると、わたくしの背中には氷雨(ひさめ)をあびせられたような悪寒(おかん)が走りました。

「お方さま、もはや天下は織田家のものではござりませぬ。(とき)をして天下人となられる日向守(明智光秀)さまは、お方さまとの(いにしえ)約定(やくじょう)本日履行(りこう)いたしたいと申されて、それがしをここに(しの)ばせたのでございます。ご正室を亡くされた日向守さまは、お方さまをご正室としてお迎えなされる所存にございまする。まもなく明智の精鋭(せいえい)二万の大軍がここ本能寺(ほんのうじ)を取り巻くこととあいなりましょう。お方さま以外は、ねずみ一匹屋敷から出してはならぬという厳命(げんめい)(おお)せつかっております」

「このたわけものが! わらわは()大臣(だいじん)織田信長の正室じゃ。それが何故(なにゆえ)謀反人(むほんにん)大将(たいしょう)の元へ(とつ)がねばならぬ!」

 わたくしは気丈(きじょう)にそうは申したものの、『謀反人』という言葉を口にしたときには、胸を針で()すような痛みを感じました。

「お方さま、信長はそれがしの母上(築山(つきやま)御前(ごぜん))の命を奪いました。おなじく日向守さまの母上も見殺しにされました。お方さまの父上齋藤(さいとう)道三(どうさん)(こう)をお救いもせず見殺しにしたのも信長ではございませぬか。かような悪鬼(あっき)になんの義理立てがいりましょうや!」

「ならぬ! 謀反など決して許さぬ。とどめおかねば今生(こんじょう)はまたもや地獄(じごく)逆戻(ぎゃくもど)りではないか。なにゆえじゃ、家康どのまでが明智に合力(ごうりき)するとは……」

「お方さま、もはや時はござりませぬ。あと一刻(いっこく)もすれば天下は明智と徳川の手に落ちまする。それがしとここを退去なさるが肝要(かんよう)かと」

 わたくしは信康どのの話もすまぬうちにわたり廊下(ろうか)へ飛び出していきました。

(たれ)かある! 曲者(くせもの)じゃ!」

 わたくしは大声をあげて()けだしておりました。

「お方さま、いかがなされました?」

 警護(けいご)(もり)力丸(りきまる)(もり)(らん)(まる)実弟(じってい))どのの声がいたしました。

謀反(むほん)じゃ、明智(あけち)日向(ひゅうが)(のかみ)の謀反じゃ!」

 わたくしはそれだけいうと力丸どのの(むね)にすがりつくように飛び込みました。

「お方さま、なんと(おお)せになられた!」

 (おどろ)いてわたくしを抱きすくめる力丸どのの背後(はいご)から振り下ろされた信康どのの長刀(ちょうとう)が、力丸どのの左腕を切り落としたのでございます。腕は血しぶきをあげて軒下(のきした)まで転げ落ちました。力丸どのの肩口からあふれ出す鮮血が天井まで血柱(ちはしら)となって()き上げております。

「ギャーッ!」

 わたくしのあとを追っていた侍女はあまりの恐ろしさに気絶(きぜつ)して果てました。

「おのれ、なにやつ!」

 振り向きざま、力丸どのは残された右腕で刀を抜き放ちました。しかし、(いち)刹那(せつな)、信康どのの長刀は力丸どのの首を左腕と同じく軒下まで()り飛ばしていたのでございます。

「……」

 わたくしは言葉を失い、軒下に転がり落ちた力丸どのの首と腕を見つめておりました。首からはドクドクと真っ赤な血が流れ出しております。

「お方さま、いかようにしてもそれがしとは同道(どうどう)できぬと仰せにございまするか」

 信康どのの瞳は獲物(えもの)を追う(けもの)のように殺気(さっき)に満ちあふれておりました。

「ゆるしてたもれ……」

 そういいながら目を伏し、顔をあげたときには、わたくしの眼前(がんぜん)に信康どのの姿はありませんでした。わたくしは、力丸どのの血ぬられた首をひろいあげると、一目散に夫の寝所を目指しました。

「お方さま、いずこへ!」

 他の侍女たちがわたくしのあとを追ってまいります。

「ダン! ダン! ダダン!!!」

 そのとき、場外からものすごい数の銃声が鳴り響きました。

 寝所の表には森蘭丸どのが平伏しており、中から夫信長の絶叫する声が聞こえてまいりました。

「なにごとぞ!」

 顔をあげた蘭丸どのが(りん)として答えます。

水色(みずいろ)桔梗(ききょう)旗印(はたじるし)。あれはまぎれもなく明智(あけち)日向(ひゅうが)(のかみ)軍勢(ぐんぜい)

「であるか」

 夫はぽつりといいました。

「さよう明智光秀、謀反(むほん)にございまする!」

是非(ぜひ)(およ)ばず。光秀ならぬかりあるまい。蘭丸、弓を持て!」

 まもなく白装束(しろしょうぞく)に身をつつみ、弓を(たずさ)えた夫が飛びだしてまいりました。わたくしは呆然として、森力丸どのの生首を抱きしめたまま夫が弓を射る姿を見つめておりました。

 わたくしに気づいた夫は、(ひとみ)から憤怒(ふんぬ)の炎をたぎらせ怒声(どせい)を発しました。

「この美濃のマムシめ! 今日まで生かしておいたをいいことに、光秀とつうじておったとは……よくもこのわしを、たばかりおって!」

 わたくしに向けた夫の強弓から今、弓が放たれようと……。


 織田信長正室 帰蝶(濃姫) 享年四十八歳                   


 世紀のクーデターから十一日後、明智軍は中国から全速力で引き返してきた羽柴秀吉軍と山城の山崎街道で激突。世にいう「山崎の合戦」である。光秀の思惑(おもわく)とは裏腹に組下の大名は誰ひとり、明智の援軍(えんぐん)に向かわなかった。死してもなお、信長のカリスマ性はゆるぎなく生き続けていたのである。娘、玉子ガラシャの婿、細川(ほそかわ)(ただ)(おき)(ふじ)(たか)親子も、光秀謀反の旗印(はたじるし)のもと、秀吉軍に加わったのである。戦闘は一刻(いっとき)()(約二時間半)で決着がついた。明智軍惨敗(ざんぱい)。光秀は敗走の途中、山城の北端、山科(やましな)小栗栖(おぐるす)の竹やぶで、土民の突きだした竹やりの一撃をくらい重傷を負った。もはやこれまでとあきらめた光秀は自刃(じじん)介錯(かいしゃく)溝尾(みぞお)(しょう)兵衛(べい)であった。勝兵衛は光秀の首を藪の中に埋め隠し、自分は坂本城まで引き返し、城兵(じょうへい)共々討ち死にして果てた。しかし、光秀の首は敵兵に探しあてられ秀吉のもてへ届けられた。秀吉は光秀の首を京の(あわ)田口(たぐち)(さら)した。翌日、齋藤(さいとう)内蔵(くらの)助利(すけとし)(みつ)は六条河原で処刑された。

 この後、時代は秀吉の天下となるが、秀吉が没するとすぐさま徳川家康が天下獲りに動く。関ヶ原、大阪冬・夏の陣をへて家康は豊臣家を滅亡に追い込む。家康は忍従の果てに徳川安定政権を築きあげた。そして三代将軍家光の時に、家康は奇怪な行動に出る。家光の乳母(うば)の齋藤内蔵助利三の娘おふく(のちの春日局(かすがのつぼね))を登用したのである。仮にも謀反人の娘を、である。しかも家光の母、二代将軍秀(ひで)(ただ)の妻は信長の妹お市の方の三女小督(おごう)である。小督からすれば、伯父信長を殺した(かたき)の娘なのだ。なにゆえか、もしかして「本能寺の変」の首謀者(しゅぼうしゃ)は家康だったのか……。未だ、この家康の「おふく」登用の謎は不明である。

                                        〈この章 了〉




 第四章 雁金無情 

     柴田勝家室 お市の方散華 ~織田・浅井の血脈~



 天正十一年(1583)四月二十四日 越前(えちぜん)北ノ庄城天守

「もはやこれまでか……」

 柴田修理(しゅりの)(すけ)勝家(かついえ)は敗北を確信した。

 ()動力(どうりょく)に勝る羽柴(はしば)軍(秀吉)に柴田軍は翻弄(ほんろう)され、壊滅的(かいめつてき)な打撃を受けていた。頼みの前田(まえだ)利家(としいえ)は、羽柴との友誼(ゆうぎ)から戦線を離脱(りだつ)。徳川、毛利(もうり)長宋(ちょうそ)我部(かべ)などにも援軍を要請していたが(かな)わず、柴田軍は孤立(こりつ)無援(むえん)の状況に置かれていた。

 天守から(なが)める夕暮れの城下は羽柴軍の放火により灰塵(かいじん)()そうとしていた。


 天正十年六月二日早暁。四条(しじょう)西洞院(にしのとういん)本能寺(ほんのうじ)に宿泊中の織田信長は、明智光秀の謀反により非業(ひごう)の死を遂げた。その時、柴田勝家は越中(えっちゅう)上杉(うえすぎ)景勝(かげかつ)と対峙していた。身動きのとれない状況を打開できず、勝家は打倒光秀の軍を起こすことができなかった。

 一方、羽柴秀吉は、中国(ちゅうごく)毛利(もうり)居城(きょじょう)である高松城に籠城(ろうじょう)する清水宗(しみずむね)(はる)と交戦中であった。信長の訃報(ふほう)を知るや、秀吉は毛利の使僧(しそう)安国寺(あんこくじ)恵瓊(えいけい)(かい)講和(こうわ)を急ぎ成立させた。そして清水宗治の切腹(せっぷく)を見届けるやいなや、秀吉は全速力で畿内(きない)へ引き返し、山崎(やまさき)街道(かいどう)で光秀と激突(げきとつ)した。世にいう『中国大返し』『山崎の合戦』である。結果は秀吉の大勝。光秀の天下は、たったの十一日で(つゆ)と消えた。

 明智光秀の首をあげた羽柴筑前(ちくぜん)(のかみ)秀吉は、その戦果により織田家筆頭(ひっとう)宿(しゅく)(ろう)柴田勝家を(しの)ぐ権力を手にすることとなる。のちの清州(きよす)会議(かいぎ)でも重要な懸案(けんあん)のほとんどは、秀吉の思うがままとなった。織田家の跡目(あとめ)相続(そうぞく)についても、三男信孝(のぶたか)()す勝家と、秀吉は真っ向対立し、二条城で討ち死にした嫡男(ちゃくなん)(のぶ)(ただ)の子、信長の孫にあたる三歳の(さん)法師(ぽうし)を強力に推した。議論(ぎろん)紛糾(ふんきゅう)したが、結局、丹羽(にわ)長秀(ながひで)が秀吉側についたため、三法師が跡目相続人と決定した。しかも後見人(こうけんにん)は秀吉本人。事前に丹羽長秀と話をつけていた秀吉の権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)に、勝家はまんまと(おとしい)れられたのである。

 台頭(たいとう)する新参(しんざん)の秀吉と譜代(ふだい)の重臣である勝家は、必然的(ひつぜんてき)に決戦を余儀(よぎ)なくされた。信長の次男信(のぶ)(かつ)旗印(はたじるし)にかかげる秀吉と三男信孝(のぶたか)(かつ)ぐ勝家は(しず)(たけ)でついに激突した。決戦の真実の要因は、勝家の意地であった。百姓あがりの下賤(げせん)な成りあがり大名に対する、譜代の大名勝家の面子(めんつ)であった。丹羽長秀のように面子を捨て、羽柴の下風(かふう)に立つぐらいなら、死を選ぶが部門の道であると勝家は信じて疑わなかった。

初陣(ういじん)に松一本を手植(てう)えして負けば墓地のしるしとやせむ」

 初陣から六十二歳となったこのたびの決戦まで、常に決死の覚悟(かくご)(のぞ)んできた勝家であった。

勇猛(ゆうもう)果敢(かかん)進みて退(しりぞ)かず。敵に背を見するな!」

 勝算(しょうさん)度外視(どがいし)した決戦であると思われようが、ここで立たぬ訳にはいかないのだ。勝家は清州会議以降の羽柴からの(あなど)りに、一矢(いっし)(むく)わずにはいられなかった。

 柴田軍二万に対し、羽柴軍三万。数の上でも羽柴軍が優勢(ゆうせい)であったうえに、頼みの前田利家率(ひき)いる7千の精鋭(せいえい)部隊(ぶたい)が退去を始めたのである。もはや柴田軍には退(しりぞ)く道はなく、勝家は死を覚悟した。残されたつとめは、妻子を場外へ退出させるだけであった。

「こなたは三人の姫と一緒に城を出て、生きながらえてくだされ。筑前(ちくぜん)(秀吉)とて、主君(織田信長)の妹親子を手にかけはしまい。夢にまで見たそなたと結ばれて、わしは幸せであった」

 燃え盛る城下を(うつ)ろな瞳で見つめるお(いち)(かた)の背へ、勝家は静かに言った。

「わ子らはお言葉に甘え、お助けいただきますが、わらわは勝家どのと共に城を枕にいたしたく存じます。もはや生き恥を(さら)すには(およ)びますまい。生きるも地獄。それにしても二度までもあの猿(秀吉)に城を焼かれる(さだ)()になろうとは思いもよりませなんだ」

 めずらしく色白のお市の方の(ほお)上気(じょうき)していた。

      *

 戦国時代絶世の美女といわれたお市の方は、天文十六年(1547)に、織田信長の異母妹として尾張に生まれた。幼少の頃より稀にみる美貌の人として、近隣諸国にその名は鳴り響いていた。

 十六歳のとき、兄信長の命により、小谷(おだに)城主浅井(あざい)長政(ながまさ)に嫁いだ。長政はこの美貌(びぼう)の妻を溺愛(できあい)し、ふたりの間には三人の美しい娘と男子が生まれた。

 天正元年(1573)お市二十六歳のとき、兄信長が浅井の同盟国越前朝倉を攻めた。「浅井の了解なしに朝倉を攻めない」という誓約(せいやく)を無視した信長の侵略行為であった。浅井は織田・朝倉のいずれにくみするかを苦悩(くのう)した結果、代々友好関係を築いてきた朝倉を選択する。一時、浅井が朝倉の援軍にまわったことによって、信長は窮地(きゅうち)に立たされたが、すぐさま反撃に転じ、浅井、朝倉を滅亡(めつぼう)させた。お市の夫、浅井長政は小谷城落城のおり、お市と三人の娘、さらには嫡男(ちゃくなん)万福(まんぷく)(まる)を城外へ脱出させ、自身は城内で切腹して果てた。寄せ手の大将は木下(きのした)(とう)吉郎(きちろう)秀吉(のちの羽柴秀吉)。秀吉はお市と三人の娘を無事信長のもとへ届けた。しかし万福丸は秀吉の手によって串ざしの刑に処せられた。

 以後、お市は信長の弟織田(おだ)(のぶ)(かね)のもとで娘三人と暮らしていたが、信長が本能寺で討たれたため、お市は信長三男信孝の勧めもあり、柴田勝家に再嫁(さいか)した。好色(こうしょく)な秀吉もお市獲得に触手を伸ばしたが、お市は断固(だんこ)として拒絶(きょぜつ)した。兄信長の命令であったにせよ、わが子万福丸を串刺しにした張本人の庇護(ひご)を受けるなど思いもよらなかった。

 小谷落城から十年。またしてもお市のいる城へ秀吉が攻めてきたのである。運命のいたずらは悲劇(ひげき)連鎖(れんさ)を、お市の身の上に浴びせかけていた。

      *

「それはならぬ、主君の妹であるそなたをみちづれにはできぬ。女子(おなご)をみちづれにしたとあれば、この(おに)柴田末代までの恥となろう」

「ならば勝家どのは、この身を、あの憎き猿(秀吉)にゆだねよと申されるのか?」

「うむ……」

 勝家は思わず言葉をつまらせた。たしかに、お市がいうように、秀吉は言葉たくみにお市へいいよるに違いない。下賤(げせん)の身ゆえ、秀吉は名家(めいか)名門(めいもん)には目がなかった。お市は主君の実の妹である。(のど)から手が出るほど欲しいに違いない。

「お方、美しきそなたは、なにゆえこの老爺(ろうや)(とつ)がれた。この無骨(ぶこつ)一辺倒(いっぺんとう)、なんの取り柄もないこのわしに」

「らちもない、なにをいまさら(おお)せになられる。すでにわらわは小谷で一度は死んだ身、かような生きる(しかばね)()でてくれたお前さまへの御恩は死しても忘れるものではありませぬ。恨むは、ただただ羽柴(はしば)筑前(ちくぜん)。あの猿が、兄にとってかわるなどとは思いもよらなんだ。(みにく)き猿が(じゃ)のようにこのわらわにつきまとうのじゃ。勝家どの、今生(こんじょう)に別れを告げたいわらわの心情お察しくださらぬか」

 眉をつりあげ口を一文字にしたお市の顔は、勝家が初めて見る厳しい表情であった。

(お屋形(織田信長)さまにそっくりじゃ……)

 勝家はお市のその表情に、亡き信長の面影を見た。

 お市の決意は()るぎなかった。二度まで落ちのびて生きながらえるつもりは毛頭ない。ここで勝家と死をともにするのが、秀吉に対するお市の意地でもあった。

羽柴(はしば)筑前(ちくぜん)(のかみ)どのの使者よりのご口上(こうじょう)申し上げます!」

 息を切らせた城兵の一人が、渡り廊下で声高(こわだか)言上(ごんじょう)した。

「猿めが……、申せ!」

「今夜半は、お市さま母子をふくめた婦女子を救出するため、全軍の攻撃を一旦中止する。すみやかに城外へ退却(たいきゃく)できるよう、柴田どのには手筈(てはず)万端(ばんたん)(とどこお)りなくとのこと。しかるに総攻撃は、翌明朝とする」

「猿め、小賢しげにこのわしに差配しよるわ。あいわかったと申せ!」

「ハハッ」

 城兵は脱兎のごとく駈けだしていった。

「お市さま、なんと仰せになろうと、それがしと枕をならべて自刃(じじん)することはあいなりませぬ。あの世にて亡きお屋形(やかた)さまに、どの面さげてまいりましょう。お気持ちだけはありがたく頂戴(ちょうだい)いたしましょう。となりの部屋に姫たちがお待ちでございます」

 勝家は、家臣として(つか)えていた頃の言葉使いに変わっていた。お市は勝家に背を向け、黙って部屋を出た。

 隣室(りんしつ)には、三人の娘が端座(たんざ)し、母の訪れを待っていた。小谷(おだに)城落城のおり六歳だった長女茶々(ちゃちゃ)は、お市が浅井(あざい)長政(ながまさ)に嫁いだ年齢十六歳になっていた。二女お(はつ)十二歳。三女小督(おごう)十歳。美しき父母の容貌(ようぼう)を受けつぎ、三人いずれ劣らぬ(うるわ)しき姫であった。茶々は、すでに馥郁(ふくいく)たる色香(いろか)をただよわせている。その美しさゆえに茶々は数奇(すうき)熾烈(しれつ)運命(さだめ)を背負うこととなる。

 母が()すのを見はからったように、茶々が口を開いた。

「母上、母上はもしや勝家どのと、この城にてご自害あそばされるつもりでは?」

「はい、わらわは、この城にて死する覚悟です」

 お市はいきりたつ娘を諭すように言った。

「なにゆえにございまするか。なにゆえ、かような北国の田舎大名に、右大臣織田信長の実の妹である母上が、(じゅん)じねばならぬのでございましょうや。かような城など捨てて、落ちのびるが上策(じょうさく)にございまする。もしかして女々しき勝家が、母上に心中(しんじゅう)をせまったのではござりませぬか。こたびの戦もあの筑前(ちくぜん)(秀吉)に打ち負かされ、敗戦に次ぐ敗戦。このわらわの胸は不甲斐(ふがい)なき義父のため、忸怩(じくじ)たる思いに蹂躙(じゅうりん)されておりまする。母上が勝家づれに殉ずる()などどこにありましょうや!」

 茶々は(するど)視線(しせん)をお市に浴びせかけていた。

「茶々、わらわは柴田勝家が妻じゃ。妻が夫に殉ずるを、そなたは道理(どうり)とは思いはせぬのか?」

「母上、いつわりを申されますな。かようないつわりにだまされる茶々ではございませぬ」

「なんと、もう一度申してみよ、そなたは、そなたはこの母が申すことを、まこといつわりじゃと申すか!」

 お市はたまらず(げき)した。成長した娘の言葉にひるみそうになる自分を、激しく叱咤(しった)した。

「母上がお望みとあらば、なんどでも申しましょう。まこといつわりでございます。夫婦(めおと)情愛(じょうあい)があったればこそ、妻が夫に殉ずるを道理と申しましょう。母上が生涯(しょうがい)愛した人はただ一人。わらわが父上、浅井長政にござりましょう。その最愛の夫と死をともにせずして、なにゆえ勝家などと死するお覚悟(かくご)か。茶々にはさっぱりわかりませぬ」

 茶々のいうことはもっともだった。たしかにお市は、長政と死ぬことができなかった。ひょっとして、その後悔(こうかい)(ねん)苦悩(くのう)する日々から逃れるために、死のうとしているのではないのか。そのために勝家を利用しようとしているのではないだろうか。お市は今まで考えもつかなかったわが身の卑劣(ひれつ)さを娘に思い知らされたような気がした。

「茶々、母は、なにゆえ長政どのと死をともにせなんだかわかりますか」

 お市はつとめて冷静にたずねた。

「さあ? それはどうだか……?」

「遠慮はいらぬ。はっきり申すがよい」

「ならば申します。それはただただ、今生への未練ではござりますまいか!」

 お市は胸に刃を突きつけられたような鋭い痛みを感じた。この娘は、ただ生きていたい存念(ぞんねん)から母が落ちのびたのだと思っているのだ。わが母は、なさけのない女々しい女子(おなご)だと思って生きてきたのだ。お市は(まぶた)からあふれでる涙を(ぬぐ)おうとしなかった。

「母上?」

「母上……」

 茶々の後に座っているふたりの娘は母の涙を見てシクシク泣き出した。茶々は自身も目を真っ赤にさせながらお市の顔をのぞきこんでいた。

「茶々、母はあのとき、そなたの父長政どのと死にたかった。そなたがいうように最愛の夫に殉じたかった。されど長政どのは、わらわを死なせてはくれなんだ。そなたたち幼子だけを残して死ぬのは忍びないと、わらわにそなたたちを託したのじゃ。この母の苦悩察してはくれぬか……」

 お市はそれだけいうのが精いっぱいだった。

「母上……」

 茶々は先ほどまでの気丈(きじょう)な姿が嘘のように悄然(しょうぜん)とうなだれた。

「あれから十年。そなたたちも立派になられた。もはやこの母なくとも生きていけよう。いまさら落ちのびて、再び夫をもつような(はずかし)めは受けとうない。生きる女子にはそれをことわることはできぬのじゃ。いかに愛する殿方(とのがた)といえど、生涯添いとげるは至難(しなん)じゃ。わらわはわらわの意に反して二夫(にふ)にまみえた。されどわらわはしあわせじゃった。長政どのも、勝家どのも、ともに深い愛情をそそいでくだされた。その愛情に差異(さい)はない。たしかにそなたがいうように、わらわが長政どのに寄せていた愛情と、勝家どのへのそれとは違いがあろう。されど一度は小谷で死んだ身。この生ける(しかばね)をいたわり、そなたたち三人の姫をわが娘同然に(いつく)しんでくれた勝家どのの恩義(おんぎ)を忘れられようか。茶々、このわらわを、この母を、柴田勝家の妻として死なせてはくれまいか」

 茶々は返す言葉がなく、うつむいてたまらず落涙(らくるい)した。

「母上、死なないで……」

 お初、小督の二人の姫が泣きながら言った。

「茶々、柴田の家紋は存じておるか」

「はい、丸に二つ(かり)(がね)でございまする」

「さようじゃ。丸の中に寄り添う二羽の雁。茶々、母はあの一羽の雁となりて勝家どのに殉じたい」

「ならば母上は織田家を捨てると申されるのか?」

 お市は茶々の問いにはこたえず、懐から手鏡を差し出し茶々の前に置いた。

「これは?」

「これは浅井に嫁ぐ日、兄信長から祝いでいただいたものじゃ」

 その手鏡には織田家の五葉(ごよう)木瓜(もっこう)紋が印されていた。

「この鏡は、この母の形見として、そなたが譲りうけてほしい。わらわは勝家どのと二羽の雁金となり、この北ノ庄に散る。されどそなたたちには気高(けだか)織田(おだ)浅井(あざい)の血が脈々(みゃくみゃく)と流れておるのを忘れるでない。そなたたちは、その血を末代までも受けつげるよう努力してたもれ。それが小谷で自刃した父長政どのの遺言じゃ」

 黙した茶々の瞳からふたたび涙があふれ、手にした鏡の上に(しずく)を落とした。

「母上、なにも知らず義父(ちち)柴田勝家どのを()しざまに申した失礼の(だん)、ご容赦くだされませ。われらが三人は無事この城を出て、(あたら)しき道を歩みまする。(いもうと)(ひめ)ふたりは、この茶々が守って見せまする。お心おきなく、ご生害(しょうがい)あそばされますよう。茶々はかならずや父の遺言を守り、この気高き血を(のち)の世まで受けつぎ残すよう努めまする」

「よう申された。茶々、最後にこの母にひとつ心配事があるのじゃ」

「なんでござりましょう」

「そなたの美しきその柔肌(やわはだ)、けっしてあの万福(まんぷく)(まる)を串刺しにした(けが)らわしい筑前(ちくぜん)(秀吉)だけには許してくださるな。われらがかような運命(さだめ)を背負わねばならぬこととなったのも、あの筑前が仕業(しわざ)。憎きは羽柴筑前!」

「母上、ご案じ()されるな。あのような醜き猿には指一本触れさせませぬ。もし万が一、

筑前がいかがわしき振る舞いをしようものなら、見事あの猿首(さるくび)()き切って見せまする。母上、心配ご無用にございまする」

「それを聞いて安心しました。まだまだ若いそなたたちに(のち)の世をゆだねるは心苦しいけれど、この戦国の世が泰平(たいへい)御世(みよ)にかわるまでは、これがこの世の習い。そなたたちの御世(みよ)にはきっと安寧(あんねい)の日々がおくれるよう、この母が祈っております。もう時もあまりない。外に(とも)の者が控えていましょう」

「母上!!!」

 三人の姫は母の胸に飛び込み、今生(こんじょう)の別れに涙した。

 柴田勝家は天守(てんしゅ)の大広間で、瞳を閉じ、腕を組みながら、時が流れるのをじっと待っていた。羽柴秀吉の(はか)らいで戦闘が一時中断されていたので、城内には奇妙(きみょう)静寂(せいじゃく)が訪れていた。

「お方さま、お方さま、なりませぬ。なにとぞ、なにとぞ、もどられてくださりませ。」

 (おもて)廊下(ろうか)で発した突然の声に勝家が目をあけると、そこには城外へ脱出したはずのお市の方が立っていた。

「お方、いかがした?」

「わらわには、もういずこへも帰るところはござりませぬ!」

 お市は勝家に正対し、厳しい表情でいった。

「ならぬ、あれほど申したのがわからぬか!」

 勝家も声をあらげた。

「なにゆえにございまする。なにゆえそれほどまで、わらわを(うと)んぜられるのか」

「疎んじてなどおらぬ。そなたはわれらが主君の妹御でござる。われらと枕をならべて死なせるわけにはいかぬのだ」

 勝家は苦渋(くじゅう)の表情を見せ、懇願(こんがん)した。

「勝家どのは、わらわに猿の(めかけ)になれと(おお)せになるのか?」

「……」

 勝家は口を真一文字(まいちもんじ)に結んでお市の問いに答えなかった。

「ふ、ふ、ふ、それもよいかもしれぬ。こうなれば、あの憎き猿と、刺し違えて死ぬよりほかに道はない!」

 勝家は、そういって振り返ったお市の方の手を力強く手元へ引くと、自身の(ふところ)ふかく抱き寄せた。

「お方……」

「わらわをこの城で死なせてくだされ。そなたの妻として、そなたの手でわらわの命を奪ってくだされ。後生(ごしょう)じゃ勝家どの、お願い申しあげる」

「それほどまでに……」

 勝家はお市の決意が(ひるがえ)ることはないと痛感(つうかん)した。もはやこれ以上の説得に意味はない。

「お方、このわしと死んでくれるか」

「ありがたきしあわせにございまする」

 勝家は従者(じゅうしゃ)を呼ぶと、人生最期となる酒宴(しゅえん)を用意させた。ふたり以外の者はそれぞれ部屋に帰り休むように命じた。

 酒肴(しゅこう)が並べられ用意が済むと、勝家は酒杯(しゅはい)をお市にささげた。

「もったいのうございまする」

「いいのじゃ。今宵はこの柴田権(しばたごん)(ろく)が、お屋形(やかた)さまから市姫さまの饗応役(きょうおうやく)(おお)せつかったのじゃ。遠慮(えんりょ)なくすごされよ」

 お市は酒杯になみなみとそそがれた酒を一気に飲み干すと、勝家に返杯した。勝家は一心に、お市がそそぐ酒を見つめていた。

「くくく……くっ」

 勝家は胸をつまらせ絶句した。そして肩を震わせ男泣きした。戦国の世を知りつくした老将の瞳からこぼれた大粒の涙が(さかずき)にしたたり落ち、小さな波紋(はもん)をつくった。

 勝家は死ぬことになんの惑いも恐れもなかった。ただ、この最愛のお市との別れが惜しまれてならなかった。しかしながら、お市とともに死ねるというそのことが、勝家の心を諦観(ていかん)極致(きょくち)まで引き上げて、よりいっそう(いさぎよ)い死にざまをみせるようにと決意させたのも事実であった。

 ふたりは夜深くまで飲み明かし、枕を並べて最期の夜を過ごした。

 翌朝、いっせいに羽柴軍の総攻撃が再開された。銃声が(とどろ)き、あちらこちらで将兵の絶叫(ぜっきょう)(ひびき)きわたっていた。

「申し上げます。羽柴軍使者より、お市の方さまが退却なされていない(よし)依然(いぜん)城内(じょうない)にいらっしゃるのならば、すみやかに御退却(ごたいきゃく)されますように、との言上(ごんじょう)にございまする」

筑前(ちくぜん)(秀吉)め、うろたえておるわ。お市さまは貴様(きさま)のような下賤(げせん)の者に渡すものか。猿よ、貴様がお市さまを死に至らしめたのじゃ。そのことを生涯後悔するがよい。よいか、こう筑前に申せ!」

「ハハッ!」

柴田(しばた)修理(しゅり)(のすけ)勝家室(かついえしつ)、お市の方さま。城内にて見事御生害(ごしょうがい)。よいか!」

 そう声高(こわだか)に叫ぶと、勝家はともに白装束(しろしょうぞく)を身につけたお市に向かい合った。

「お方、よろしゅうござるか」

 お市には微塵(みじん)も迷いはなかった。やっと死ねる。やっと長政のもとへ行くことができる。そのことしか、お市の頭の中にはなかったのだ。自分を信じている勝家への背信(はいしん)には、煩悶(はんもん)し眠れぬ夜を過ごしたが、こうして一緒に死出(しで)の旅につくことで許してもらうより他なかった。お市が落ちのびることを拒否(きょひ)したのは、死ぬことによって勝家への恩義(おんぎ)(むく)いることであった。もし生き永らえたら、勝家との暮らしすべてが偽りであったことになるのだ。ただ、ただ、ひたすら勝家を裏切り続けたことになるではないか。

 お市の悲劇は、政略の具としての結婚に愛の存在を見つけようとしたことではないだろうか。分ちがたい強い愛が生じれば生じるほど、不幸の階段を真っ逆さまに突き進むことになるのだ。生きる(しかばね)となり、すべての感情を捨て去ることが、戦国の世を生き抜く女の処世術(しょせいじゅつ)なのだ。だがしかし、ともに暮らし、子を()し、(いつく)しみあったふたりの間に、愛という感情が芽生(めば)えずにあるだろうか……。

 勝家はお市の懐剣(かいけん)を手にすると(さや)を抜きはなった。

「お屋形さまお許しくだされ」

 勝家はお市を強く抱きしめたまま、その胸に白刃(はくじん)(しず)めた。


 柴田勝家室、お市の方絶命。享年三十六歳。


 お市を床に寝かせると、勝家は見事切腹(せっぷく)し、自身でわが首も()き切って見せた。

柴田軍は二人が自刃(じじん)したのち、用意してあった大量の火薬によって天守閣(てんしゅかく)爆破(ばくは)。北ノ(しょう)(じょう)は炎上。全軍壊滅(かいめつ)した。焼け跡からは、お市、勝家いずれの遺骸(いがい)も発見されなかった。

 柴田勝家を破った羽柴秀吉は、つづき滝川(たきがわ)一益(かずます)(くだ)し、さらに勝家が跡目(あとめ)相続(そうぞく)()し、(しず)(がたけ)の合戦の旗手となった信長三男の神戸(かんべ)信孝(のぶたか)を、兄信(のぶ)(かつ)の命により尾張(おわりの)国内(くにうつ)()野間(のま)大御堂寺(だいごどうじ)で切腹させた。

 お市の娘、三人に姫たちはそれぞれに波乱万丈(はらんばんじょう)の人生をおくることとなった。

 長女の茶々(ちゃちゃ)は、母の願いむなしく豊臣(とよとみ)(羽柴)(ひで)(よし)側室(そくしつ)となり、(よど)殿(どの)と呼ばれ権勢(けんせい)をふるったが、関ヶ原、大阪冬・夏の陣で徳川(とくがわ)家康(いえやす)対峙(たいじ)するが敗北し、息子の豊臣秀頼(とよとみひでより)とともに非業(ひごう)の死を()げた。だがしかし、豊臣家を断絶(だんぜつ)させた茶々は、母お市の方の復讐(ふくしゅう)()げたといえるかもしれない。

 次女のお(はつ)は、京極(きょうごく)高次(たかつぐ)(とつ)ぎ、大阪冬の陣では、実姉(あね)淀殿(茶々)と徳川家康との講和(こうわ)交渉(こうしょう)使者(ししゃ)までつとめ、天寿(てんじゅ)(まっと)うした。

 三女小督(おごう)は、徳川二代将軍秀(ひで)(ただ)に嫁ぎ、三代将軍家光(いえみつ)の母となった。織田(おだ)浅井(あざい)の血を徳川まで伝え、その血は明治(めいじ)維新(いしん)以降(いこう)現代まで脈々(みゃくみゃく)と流れ続けている。


                                             〈完〉


あとがき


 私の伯父二人は戦争体験者である。父は六人兄姉の末っ子で、上に三人の兄がいた。一番上の兄は満州へ出兵し、二番目の兄は海軍に入隊し特攻志願兵だった。三番目の兄は病弱で徴兵されず、私の父は徴兵前に終戦を迎えた。子どもの頃、よくこのふたりの伯父から戦争の話を聞かされた想い出がある。長男の伯父は中国人を殺害する現場を()の当たりにしたそうで、その悲惨さは言葉にできないとよくもらしていた。伯父は伝令(でんれい)部隊(ぶたい)(実際にはどう呼ぶかわからない)に属していたそうで、直接、人を殺害した経験はなかったようである。(本人の弁)しかし,実際に妊婦を串刺しにしたり、子どもを容赦なく切り捨てたりするさまは、狂人の所業としかいえず、瞳を閉じ、手を合わせ、おびえていたのが正直なところであったようである。一部落を全滅させた時、家から出てこない人間は外から火をつけてあぶりだしたという。その村の長老が一人、家の前で座禅していたのを、中隊長が日本刀でその首を切り落とした。すでにその中隊長は自らの手で数十人の人間を殺していた。伯父はその地獄のさまが未だ忘れられないと、飲むときまって戦争の恐ろしさを私にいって聞かせた。そして、その中隊長は夜になると、中国酒(「ちゃんちゅう」と伯父は言っていた)を飲んで暴れ出し、寝ても一晩中うなされていたらしい。神経がやられて気狂いになっていたそうである、なにもかもが狂ってしまうのが戦争なのだ。二番目の伯父は特攻志願でありながら、飛行訓練が終了し、自分の出陣の前々日に終戦を迎えてしまい、結果として命を捨てずに済んだ。しかし伯父は死んでいった戦友に申し訳ないと、一年間は酒を飲み自暴自棄(じぼうじき)となった。その時は死ななかったことが恥ずかしく、表に出るのも億劫(おっくう)だったという。平和な時代にいる私たちには想像もつかないことだが、戦争とは道徳や常識といったものが一変してしまう恐ろしい環境なのである。戦場で狂人と化すことができぬ常識人などは、何の役にも立たないのである。おかげで満州から帰った伯父は万年二等兵だった。終戦後、復員して神戸駅で降りるとき、帰る身寄りのない同期で一等兵となった戦友の襟章と交換してもらい、胸を張って帰ったという。あとでことがばれて大変だったと笑い話で聞かせてくれたことがあった。余談が長くなったが、話を戦国時代に転じる。戦国時代とは、日本国内で、そんな地獄(じごく)絵図(えず)をひろげたおぞましい時代であった。隣りの国同士で殺しあい、奪いあう、まさに気狂い集団があちらこちらで組織されたのである。親が子を、兄が弟を殺害し、その首を獲ることに奔走(ほんそう)した。その地獄を終息(しゅうそく)せしめんと登場したのが信長であり、秀吉であり家康であった。しかし私はこの(さん)英傑(えいけつ)があまり好きではない。時代を変革(へんかく)するがためのやむにやまれぬ行為だという人もいるが、信長はあまりに残忍(ざんにん)でむごすぎる。秀吉はエゴイズムの権化(ごんげ)のようで、後継者問題で気が狂ってしまう。家康は狡猾(こうかつ)(みにく)い。「築山(つきやま)御前(ごぜん)暗殺(あんさつ)事件(じけん)」に代表されるように、家康には無情ともいえる冷たさが潜んでいる。妻を殺せと命を発するなどは忍従(にんじゅう)なのではなく、ただただ冷酷(れいこく)であるだけだ。私はむしろそんな狂気の時代にあって、上杉謙信や明智光秀のように平時の良識や常識を遵守(じゅんしゅ)しようとした武将たちが好きだ。その中でも「明智光秀」という武将が、私はもっとも好きである。「三日天下」、「謀反人」とあまり評判はよろしくないが、歴史はそもそも勝者の論理であり、後々ねつ造され、勝者を美化したものにほかならない。私は歴史学者でもなんでもないので、正直なところ光秀がなにゆえ信長を討ったかを論理だてて解説できるほどの知識を有していない。しかし、私は光秀が信長を討つことによって天下を自分のものにしようなどと画策(かくさく)したのではないことだけは確信している。信長の天下平定は、朝廷までもわたくしせんとしていたのは明らかである。そういう意味では平清盛(たいらのきよもり)寸分(すんぶん)たがわぬ。信長は清盛と同列。私欲の果ての天下獲りである。学生時代から私欲による天下人でない光秀を一度書いてみたかった。執筆にあたっては歴史原本として「信長(しんちょう)後記(こうき)」太田牛一著、榊山(さかきやま)(じゅん)氏口語訳を基本にした。時代考証等はまったく私の未熟な知識では表しえないので、すでに小説として(あらわ)されているものや、月刊誌「歴史と旅」などから引用したものも多数ある。それぞれの諸先生方に深く感謝(かんしゃ)の意を表したい。


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[一言] 誤天正七年(一五七五)八月二十九日 正天正七年(一五七九)八月二十九日です。
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