花の下にて
〈一〉
うちの玄関前には、三段の階段がある。
俺が家へ帰ると、その階段におばあちゃんが一人腰掛けていた。
四軒向こうに住む、坂口さんとこのおばあちゃんだった。
顔は一応知っている。親しくはない。昔から、通りすがりに挨拶する程度だった。
おばあちゃんはベージュのコートに紺色のマフラーを巻き、真っ白の短い髪はくしゃくしゃだった。
「どうしたんですか?」
自転車を降りて声をかけた。階段を塞がれて、これじゃ家に入れない。
「お父ちゃんをね、待っていてね」
階段に座るおばあちゃんは俺を見て、もにょもにょ言う。
目の焦点が微妙に合っていないようだった。口にも入れ歯が入ってないっぽい。
「はあ」
俺はおばあちゃんの正面でしゃがみ、返事になっていない返事をする。
この前うちの母親が、坂口さん家のおばあちゃんは介護施設に入ったと話していた。
認知症だと言っていた。それがここにいるということは、久しぶりに一時帰宅して迷子になったのだろうか。
昔はもっとカクシャクとしたイメージの人だった。
何度も自治会長をつとめていた。
ゴミ捨て場のルールを守らないと、直接家へ文句を言いに来たと聞いている。
俺も「男の子のクセに挨拶の声が小さいよ」と、言われたことがあった。
そういう人が、使い終わったティッシュみたいになっている。変われば変わるもんだと思った。
「ここ、坂口さんの家じゃないですよ」
「ん?」
「おばあちゃん、ここ、自分の家じゃないよ」
俺が話しかけると、おばあちゃんは歯の無い口を動かしていたが
「なぁに? 私、おばあちゃんなんかじゃないよぉ」
『冗談キツいぜ』みたいな笑顔で、しわしわの手を叩いている。
話題を変えよう。
「えー……お名前は?」
「何だったっけねぇ」
真顔で答えてくれた。
自分の名前すら忘れているのか。これは割と行くところまで行ってるな。
「お父さん待ってるなら、家に帰らないといけないんじゃないですか?」
「ん?」
耳も遠くなっている様子のおばあちゃんに、少し声を大きくして
「お父さん待ってるんでしょ?」
俺が言うと
「うん、そうだ。ゆっこね、お父ちゃん待ってないと。帰ってくるから」
今度はいきなり自分の名前を思い出したようで、おばあちゃんは俺に説明してくれた。
「じゃあ、帰りましょうか」
これでやっと立ち上がってくれると思いきや
「ん。ここで待ってる」
固い決意の表情で、おばあちゃんは階段に座り続ける。振り出しに戻った。
どうするか……と思ったところへ
「お義母さん、こんな所にいたの?!」
悲鳴に等しい声がした。エプロン姿のおばさんが、サンダル引っ掛けて走ってくる。
坂口さんとこの、おばさんだった。
「ああ良かった、近所にいて……! ありがとうねハルトくん、ちょっと目を離した隙に出て行っちゃって」
「いえ、別に……」
立ち上がり、俺は軽く会釈した。
お礼を言われても、言うほど何もしていないので変な感じがした。
「お父さんを待ってるらしいです」
まだ階段に座り込んでいるおばあちゃんを見下ろして事情を話すと、おばさんは諦め気味に笑った。
「頭が子供時代に戻っちゃってるのよ。自分の息子を、父親と間違えてるの。顔が似てるのかしらね? おばあちゃんが子供の頃に、戦争で亡くなってるそうなんだけど……」
苦笑いで教えてくれる。
おばあちゃんは病気で記憶が穴だらけになっており、特に新しい記憶から消えていっているそうだ。そのため頭の中だけ若返っている状態で、家族構成も昔のデータを利用していて
「私なんて嫁でしょ? 覚えてもいなくて、学校の先生だと思ってるの」
ということだった。
坂口さんのおばあちゃんの頭の中では、
・息子→父親
・娘→叔母
・嫁→学校の先生
という風に、実在の人物と配役が入れ替わってしまっているそうだ。
「大変ですね……」
「いいのよ、めんどくさいから忘れてくれた方が、こっちも楽」
おばさんはケラケラ笑っていた。そしておばあちゃんの前に膝をつくと、顔を覗き込んだ。
「ゆっちゃん、お父さんもうすぐ帰ってくるよ。おうちで待ってましょうね」
「おうちでね?」
「そう、おうちで待とうね。お外寒いでしょ」
「うん」
おばさんに言われておばあちゃんは頷くと、もたもた立ち上がる。
おばさんだけでは大変そうなので、俺も手を貸した。
「ありがとうありがとう」
小さく手を振って、おばあちゃんは家へ帰って行った。
〈二〉
――――うわ、またいる。
夕方帰ってくると、またしても玄関の階段に坂口さんのおばあちゃんが座っていた。
ベージュのコートに紺色のマフラー姿。外出時はこれが基本装備と思われる。
「こんにちは」
この前と同じく俺が話しかけると、おばあちゃんはこちらを見たわけだが
「ハイどうも、どうも。ありがとうございました。大変結構でした」
手を擦り合わせ、白髪の頭を下げ始める。
何が? そして何故俺を拝む?
「おばあちゃん、どうしたの? またお父さん待ってるの?」
うちの玄関階段が、そんなに座りやすい構造をしているとは思えないが。
自転車を置き、腰を屈めて尋ねた俺に
「お父ちゃん?」
と、おばあちゃんは反応して顔を上げた。
「ああ、お父ちゃんね。お父ちゃんはいるよ。もうお花見の季節でしょ。お酒飲んで、歌ってるのよ」
今回も微妙に焦点の合っていない目で微笑み、具体的に教えてくれる。
まだ花見には早くないか?
それはともかく、『お父ちゃん』ということは、今日は息子が家にいるんだろう。
坂口さーん、ばあちゃん脱走してるぞー。
「帰らなくていいんですか? 送って行きましょうか?」
どいてくれないと家に入れないし、迷子になって帰れなくなっているのかと、そう言った。
そうしたらおばあちゃんは口を噤んで身体を縮ませ、考え込んでしまう。
「叱られるんじゃないかねぇ……叱られるんじゃないかねぇ」
不安そうな表情で言いながら、ションボリと項垂れた。
叱られる?
「お父さん、怒ってるんですか?」
つい尋ねた。
何かを失敗して怒られて、混乱して家を出てきてしまったのかなと思った。
認知症の人のそういう話は、ニュースで聞いたことがある。
「どうしようねぇ。どうしたらいいだろうねぇ」
おばあちゃんは何度も首を左右に傾けて、悩んでいる。
どうしたらいいのかは俺が聞きたい。
「お父さん、何で怒ってるの?」
解決の糸口にならないかと、質問してみたが
「何でだったろうねぇ?」
おばあちゃんから出てきたのは答えじゃなかった。
そこもわからないのか。どうしろと。
「うーん……それじゃ、謝ってみたら?」
発案してみる。
「ん?」
「お父さんに、ごめんなさいって、謝ってみたら、いいんじゃないですか?」
苦手だが、普段出さないレベルの大きな声で、一節ずつ区切って言った。
相手がどこまで理解していたのかはわからない。
でも俺の話を聞いたおばあちゃんは眉間の皺を深くし、目を強く瞑って頷いた。
「そうだねぇ。ごめんなさいって、ちゃんと言わなきゃいけないよねぇ……ゆっこは悪い子だもの」
鼻をしゅんとすすり、泣きそうな顔で呟いていた。
でも次の瞬間には、右手で膝を軽く叩いているだけで、もう何が悲しかったのかも忘れている顔だった。
そこへうちの母親が出てきたんで状況を説明し、坂口さんの家までおばあちゃんを運んだ。
ちょうど家の前で、娘さんがおばあちゃんを大慌てで探しに行こうとしていたところに出くわした。
坂口さんのおばあちゃんは、家の人が知人と電話をしていた僅かな隙に、新しく設置した鍵まで開けて出て行ってしまったそうだ。
「こういう部分だけ大人だから、困っちゃうんですよ」
娘さんは笑ってみせたけど、かなりくたびれているようだった。
尚、坂口さんの家にいたのはおばあちゃんの娘さんだけで、息子さん夫婦は出かけていて留守だった。
家にお父さんがいると言っていたはず。
ばあちゃん……何を見たよ?
〈三〉
私は町を見下ろす丘の上の公園で、毎朝掃除をしている。
誰かに頼まれたからじゃない。
一昨年亡くなった主人が、定年後の日課にしていたことを引き継いでいるだけ。
本格的に春が到来し、公園のソメイヨシノは盛りを過ぎて桜吹雪となっていた。
眼下の海は明るく光っている。
普段通りの静かな朝だと思っていたのだけれど、今日は少し珍しいことが起きた。
この公園へ、近所の男の子がやってきたのだ。
ハルト君といって、彼が小さい頃から知っている。
『男の子』なんて言ったら失礼かもしれない。たしかもう高校生。もしかして大学生だったかしら?
「坂口さんのおばあちゃん、亡くなってもう一週間になるのねぇ」
箒とゴミ袋を手に、腰を伸ばして私が言うと
「はい、先週です」
ハルトくんは鞄を襷掛けにし、薄いグレーのコートのポケットに手を突っ込んで答えた。
背も伸びて身体は大きくなっても、優しそうな目元と、ややポ~としたところは変わらない。
それにしても坂口さんのおばあちゃんと、この子が親しかったとは知らなかった。
坂口さんのおばあちゃん。
お名前はたしか、『ゆう子』さんだった。
施設に入ったとは聞いていた。病気になられて、ご家族共々さぞかしご苦労されたことだろう。
でももう少し長生きされると思っていたから、驚いた。
衰弱したり寝たきりになることもなく、言葉も自我も完全に消え去る前に他界された。
天寿を全うされたのだと思う。
私はお付き合いはほぼ無かった。ただ、ずいぶん難しいお姑さんだったと聞いている。
ご主人も早くに亡くなり、お子さん方が独立された後は、ずっと一人暮らしをしていたはず。
気丈でしっかりした人だったから、逆に病気に気が付くのが遅れてしまったと、息子さんがお通夜の席で話していた。
若い頃から母親を助けて働き、長女として弟妹の世話をし、家の一切を仕切っていた女性。
気が強くて頭の回転も速く、言う事に筋が通っているため、言われる側は反論できない。
自分にも他人にも、甘えを許さない人だった。
そういう方と、この子がどうして? と、不思議な感じがした。
すると
「あのおばあちゃんが亡くなる、ちょっと前……俺、夢を見て」
遠くに見える海の紺青を眺め、ハルト君が言った。
「知らない女の子と、どっかの家の縁側に座ってるんですよ。女の子は小学生くらいかな……? それで、ドロップ飴っていうんですか? アレを一緒に食べてる夢で」
自分でもおかしいと思っているのだろう。
横顔が、はにかんだみたいに笑っていた。
「その時、俺ものすっごく畑耕したい気分なんですよ。マジ牛育ててぇー! みたいな」
「あらぁ……そうなの」
せっかく力を込めたハルト君の語りだったのに、こちらは笑い損ねて曖昧な返事をしてしまう。
夢の中でものすごく牛を育てたい気分だったハルト君は、隣に座っている女の子に話しかけたという。
――――ゆっこ。お父ちゃんと一緒に、どこか遠いお国へ行って隠れていようか?
そこで畑を耕して、牛を育てて暮らすのだ。
自宅らしき場所で、『お父ちゃん』は狭い庭を眺め、薄っすらと淡い未来を思い描いていた。
未来というより、空想という方が近かった。
そういう『お父ちゃん』の、ほろりと浮かんだ、とるに足らない言葉へ
――――行かないよ。
横の小さな女の子は、つんと答えた。
――――お父ちゃんは意気地なしだなぁ。兵隊さんなのに。
唇を尖らせ、足をぷらつかせて生意気を言う。
――――あっははは、ゆっこは意気地なしのお父ちゃんは嫌か?
娘にお説教された『お父ちゃん』が声を上げて笑うと
「俺の方を見て、その女の子がドロップを頬張った顔で頷いて……」
“何故笑われるのか、実に腑に落ちない”といった表情をしていたとのこと。
あどけない顔を覗き、夢の中の『お父ちゃん』はまた笑っていたそうだ。
――――そうだな。意気地なしは恥ずかしいな。
大きな手で、ちんちくりんのオカッパ髪を撫でて
――――ゆっこは良い子だ。
『お父ちゃん』役のハルト君は、そう言ったのだという。
「それで……どうしてここへ来たの?」
その後、私からの問いかけに
「うーん、何だろ? 俺もわかんないっす」
今風の服装が似合う彼は、照れた顔で再び笑い返した。
「でもたしか、ここに忠魂碑があったなーと、思い出して」
彼は私たちのすぐ近くに建つ、大きな灰色の石碑を見上げた。
「坂口さん家のお墓は、もう何年か前に、別の場所に移しちゃったそうなので。代わりっていうか」
ハルト君は眩しそうに目を瞬いていた。春の風が、海の匂いを一瞬運んでくる。
「これ、戦争で亡くなった人の名前が書いてあるんですよね?」
「そうね。この地域から出征して、亡くなられた方々ね」
私も引っ越してきたクチで詳しくは知らないけれど、近隣で聞いた話しを伝えた。
石碑には、かつての戦争で落命した方たちの名前が刻まれている。
するとハルト君が、鞄からドロップ飴の缶を取り出した。
灰色の石碑へ歩み寄り、土台部分へアルミの缶ごと、ドロップ飴を置く。
「『ゆっこ』は、お父さんと仲直りできたかな?」
素直な言葉を聞き、吃驚した。
「きっともう大丈夫よ……きっとね」
思わず微笑んで、私は答える。
白い日差しを浴びて佇む石碑の傍らには、桜の木。
空を埋めるように爛漫と舞い散る花の色は、往時の桜色より白へと近付き、少し褪せた。
桜の木もまた、老いたのだろう。