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「かー君、走れるよね?」
「ああ、走れるぜ」
初めて聞く声だった。それは詩辺の後ろでお茶をくんでいた男子高生だった。
かー君と呼ばれたその人。
こちらは詩辺と打って変わって制服をきっちりこなしていた。きっちりというのは言葉通り着崩れ一切なく、一言で優等生のようだった。スタイルがいいということかもしれないが。
「紹介します。琴星薫君です。かー君です」
琴星と呼ばれた男子高生は一礼する。
「琴星です。詩辺とはえーと…知り合いです」
「……」
こちらは詩辺とは対称的に内気っぽさが見えた。
「かー君は実践担当みたいなもんでして。なんでもできちゃう子なんです」
「いやなんでもはできねえよ」
すかさずそういう琴星の腹にパンチが入ったのはその直後だった。
パンチ。拳。
すごい速さだった。
鉄拳だった。
(か、かー君。お客さんの前ではそういうこと言わないってこの前約束したでしょ?)
(言ってねーよ。初めて聞いたわ。んなもん)
(なっ。言ったもん。なんでそんな嘘つくの!?)
(言ってねーわ)
(言ったもん!)
…………。
「あのー…丸聞こえなんですが」
「ハッ」「ハッ」
同時に俺の方を向く二人。
ハッ、じゃねえよ。
…なんだろうなあ。
大丈夫だろうか。
夫婦漫才か何かを見ている気分だった。
「できます。はい、できます。僕ならできます」
琴星は改めて俺に言った。
「駅伝。一番短い距離であれば、多分走り切れると思います。ペースとか気をつけることとか教えて貰えば、走れます」
「……」
「なんだったら今から走ってきてもいいですよ? 先生が後ろから自転車で追ってくれれば」
「……」
「……先生?」
「帰る」
「へ?」
何を言っているんだ、彼らは。
こんな奴らに任せていられるか。
よくこんな遊びに付き合えられたもんだ。
遊びに付き合ってられるか。
こっちは真面目に悩んでいるんだ。
俺は椅子から立ち上がる。
陸上部にはちゃんと事情を説明しよう。ちゃんと説明して、引退させてあげよう。今年は諦めるしかない。
教室から出ようと扉に手をかける。
「待ってください!先生!」
俺の手を誰かの手が掴んだ。
春風先生だった。
「待ってください! 今まで頑張ってきた三年生はどうなるんですか! 先生に期待し続けた彼らはどうなるんですか! ずっといろんな努力をしてきた彼らはどうなるんですか! 先生だって本当はそんなことしたくはないでしょう!?」
春風先生は。
春風先生は泣いていた。
涙声で先生は続ける。
「先生だって本当はこんなことをしたくないでしょう!? 彼らを大会に出させてあげないで引退させるなんてしたくはないでしょう!? それは先生が一番分かっているんじゃないんですか!?」
そうだ。
そうだ。こんなことはしたくない。
こんな終わり方で誰も喜ぶはずはない。
「助けてくれるって言っているんです! 走ってくれるって言っているんです! 走れるとも言ってくれてる! 私も保証します、彼ならできます。走れます! ダメ元でもいいじゃないですか! 少なくとも陸上部には、最後くらい三年生には走らせてあげたいじゃないですか! 違います!?」
そうだ。
何を考えていたんだ。
俺は何を考えていたんだ。
陸上部のために走ってくれる人がいる。
この陸上部を助けてくれる人がいる。
ダメ元だっていいじゃないか。
失敗したっていいじゃないか。
完走できなくたっていい。
彼らの今までの努力を無駄にはさせたくない。
頑張ってきた証を残したい。
ああ。
なんて愚かなことを考えていたんだろう。
「先生、僕が走ります。体力には自信があります」
ただと琴星は続けた。
「走り方を教えてください。先生がここ一週間で教えられる、付け焼き刃でいいです。僕が、僕達が力になります」
俺は。
彼の目をみた。
彼の目は、まるで昔の誰かを思い出させるようだった。長距離を走ろうとした友達を思い出した。
「ああ」
俺はいう。
彼らに言う。
「陸上部を、助けてくれ」




