第六話:街道にて1
太陽の位置からしてお昼過ぎ。
街道には優しい日差しが降り注ぎ、ハームという名前の常緑樹が道の両脇に影を作っていた。森を拓いてならしただけの街道には、大小の石がたくさん転がっている。私はその中から小さなものを選んでつま先で蹴飛ばしながら進んでいた。中天を過ぎてもなお暖かい日差しが、音声魔法使いとして生きていくにあたって乗り越えなければならない最初にして最大の難関に挑む私を応援してくれているようだった。
私はそんな柔らかな黄色を見上げて目を細めてから、改めて未来へと目を向け、大きく息を吸い込んだ。
「ど~、れ~、み~、ふぁ~、そ~、ら~、し~、ど~♪」
『……』
「ど~、し~、ら~、そ~、ふぁ~、み~、れ~、ど~~♪」
『……ひでぇな』
街道をのんびりと歩きつつ「音程」なるものの習得に勤しんでいる私の心に、吹き荒れる木枯らしのような感想を漏らすやつがいる。
「……ど~、はドレミのド~♪」
『……悪ふざけか?』
「れ~、はドレミのレ~♪」
『そうか、嫌がらせなんだな』
いくらなんでも言いすぎじゃない!?
私は立ち止まり、セーターを引っ張って、胸元で棘のある感想を漏らすカエルの聖霊――アスマエルを睨みつけた。
『俺は愛と美の女神に仕える聖霊だからな。てめーの呪いとしか思えない歌声を聴いていると、気が変になりそうだ』
「仕方ないじゃない。音楽なんて習ったこともないし、お母さんの子守歌ぐらいしか聴いたことないんだから!」
だいたい『音楽の第一歩は正しい音程を掴むことだ』とか言って、この「ドレミの歌」を教えてくれたのはアスマエルなのだ。人が一生懸命練習しているというのに、励ますどころか毒づくなんて酷い。
『ふん。てめーが音痴なのは天然だろう。教育のせいにするな。……しかし、子守歌か』
アスマエルは少し思案した後、胸元を覗き込む私を見上げて口を開いた。呪いのタトゥーであることは分かっているけれど、それが動いて話をしたり、つぶらな瞳がこっちを見上げている光景はやっぱり可愛らしい。
そんな私のほっこりした気持ちに気づいたのか、アスマエルはぷいっと顔を逸らしてしまった。カエルさんは照れ屋だと確信した。
『……幼い頃に聴いた音楽というものは、成長したあとも記憶に残っているもんだ。まずはそいつをきちんと思い出して、音階というものを理解するのに役立てよう』
いくら陽光が暖かいとはいえ、あまり長いこと胸元を覗き込んでいると冷気が入り込んでお腹が痛くなりそうだった。私はセーターを元の状態に戻して歩き始めた。姿は見えなくても、アスマエルの声はちゃんと聞こえる。
「う~ん。でも、ほんとにうろ覚えなんだけど?」
『かまわねーから、歌ってみな。どれがどの音かを理解するのには打ってつけだろう』
お母さんの子守歌。
私が小さいときはもちろん、まだゲルダと一緒のベッドを使っていた頃にもたくさん歌ってもらった。懐かしくて暖かい思い出だ。最近は思い出すこともなかったけれど、家を出て旅をしているとすぐお母さんのことを思い出してしまう。……まだ二日目なんだけどね。
考えてみれば、ルフラを出るどころか家出もしたことがない私が、見知らぬ土地を目指して旅をしているなんてちょっと信じがたい。しかもその目的が音声魔法を極めて世界を救うだなんて。
そうそう、家出と言えばゲルダが七歳のとき――
『いいから。早く、子守歌』
「…………」
私の回想に割り込んできたのは、朝方見かけた霜柱のように凍てついたアスマエルの声だった。私があまりにも音痴だから怒っているのかしら。やっぱり歌がへたくそだと音声魔法もうまく使えないとかあるのかな。
『てめーの歌が聞くに堪えないものだったぐらいで、ミュゼイア様の使徒たるアスマエル様が腹を立てるもんかよ。第一、歌の上手下手は魔法の効果に関係ない』
「そうなんだ。ということは、別に歌わなくても昨日の怪光線みたいに思い切り叫んだりすればいいんじゃないの?」
昨夜、自身の口から飛び出した七色の光を思い返し、首を捻った。
『怪光線だったという自覚はあるのかよ。……まあいい。昨日も言ったように、音声魔法の究極形は音波に魔力を乗せて行使することだ』
「その“音波に乗せる”ってやつがよくわからないんだよねー。見えないし、聞こえもしないんでしょ? それってそんなにすごいことなの? 第一そんなんじゃ、私が音声魔法を使っても誰にも気付いてもらえないじゃない?」
私が立て続けに疑問を口にすると、胸元のアスマエルの呆れたようなため息が心の中に拡がった。魔法に関する基礎知識なんてほとんどないし、ましてや音声魔法なんて昨日初めて聞いたのだから、疑問が湧いてくるのは仕方ないことだと思った。この気持ちはアスマエルに直接伝わっているだろうし、私はこの後また嫌味を言われるのだろうと思ってげんなりしたけれど、すぐにアスマエルが得意気に鼻を鳴らす音が聞こえた。
『ふふん。てめーは本当に分かってねーな。想像してみろ……音もなく、視ることも能わず、人や動物の可聴領域を越えて迫る魔力の奔流を』
「……」
アスマエルの声が低く、おどろおどろしいものに変わっていった。
『とつぜん現れた業火に身を焼かれ、臓腑を破壊する衝撃波に悶え苦しむ。音声魔法の効果の対象となったものは、自分の身に何が起きたのか気付くことすらできないまま死んでいくのだ……』
「私、音声魔法使いを辞めるわ」
『言うと思ったぜ』
私は立ち止まり、再びセーターを引っ張って胸元を覗き込んだ。黄金のカエルは、仰向けに寝そべってこちらを見上げていた。今気付いたけど、黄金色なのは脇腹までで、お腹は白いんだね。……ケチったのかな。
『ケチったとはなんだ。不敬な奴め』アスマエルは少しだけ目を細めて言った。口元は緩んだままだ。
「そんな恐ろしい力の使い方をさせるなら、私は音声魔法使いになんてならないよ」
私が再び告げると、アスマエルは寝そべったままぷいっと横を向いて『わかってらぁ』と言った。彼が隠そうとしない気持ちは、直接伝わってくる。逆もまた然りだ。愛と美の女神の使徒は、横を向いたまま口を閉ざした。
「音声魔法使いの目的は、世界を救うこと……だよね」
『そうだ』
「じゃあ……歌います」
『……』
アスマエルが先を促すように沈黙したのを合図に、お母さんの子守歌「ラムアの歌」の歌詞を思い返した。ラムアというのは、フワフワモコモコの白い毛をたくさん生やした草食動物で、雄の立派な巻角は工芸品の材料として、毛は糸の材料に、お肉は美味しいしお乳から作られるチーズは通好み――とまさに声以外すべてを利用できる家畜の代表みたいな動物だ。
私は幼い日の思い出を懐かしみながら、ラムアの歌を唇に乗せた。
ラムアがいっぴき
ラムアがにひき
ラムアがさんびき
ラムアが――
『待ちやがれ』
なによぉ? これからなのに。
『どこがこれからだ! それはお前――――むっ!?』
「なにっ!?」
アスマエルが何やら声を荒らげた時、右側に生い茂るハームの枝葉がガサガサと音を立てた。
『……獣か?』
「わかんないよ」
私はリュックの帯をぎゅっと握って息を殺した。
魔道具と魔法管の整備が行き届いている首都ルフラは、針葉樹と常緑樹が混生する森に囲まれている。
街道自体の幅も十五メートルと広くとられていて、両脇にはルフラの聖霊魔法使いが作った護符が等間隔で配置されていて、野生の動物たちや魔物の通り道にならないように工夫がなされているのだとか。
それでも、エサが少なくなる冬場は獣や魔物の気が立っていて、力の強いやつは街道を通過する隊商を襲うこともあると聞いたことがある。
「また聞こえた!! どどど、どうしょう、カエルさん……」
さっきよりもずっと近くで枝葉を揺らす音が聞こえた。音がする方をじっと見つめていると、奥の方で木立が動いたのを確認した私はじりじりと後退しながらアスマエルに助けを求めた。
ハームの木はどれも私の身長の三倍はある。その枝葉に触れるほどの体高をもっていて、護符を退ける獣なんて……
『落ち着け。仮に猛獣だったとして、てめーの怪光線があれば一撃だ』
「そ、そんなの急に出せって言われて出せないよ!」
私だって、何かの役に立てばと魔力を感じ取ろうとはしているけれど、あの時のように集中できるわけがない。第一、あんなものが動物に当たったら、どうなってしまうのだろう。私は恐ろしげなスパークを放つ光線が大きなブブに衝突する場面を想像して身震いした。
『やれやれ。ここは俺様が――』
「え!? なに!?」
アスマエルが嘆息した瞬間、私はお腹の辺りに不思議な浮遊感を感じた。
『ちょいと身体を借りるぞ。ホルスの加護があれば、並の人間よりは使えるだろう』
言うやいなや、私の身体が勝手に動き出した。どんどん近づいてくる気配に向かって斜めに立ち、左足は勝手に引かれて両拳が顎の下へ移動した。
「いったいどうなってるの!?」
『ちょいと格闘技を仕込んでやろうと思ってな。悪魔の尖兵と戦うのに、ある程度動けなきゃあ、音声魔法でどうこうする前に死んじまうぜ?』
「格闘技って――!!」
口だけは自由になる私の視線は、激しく揺れている木立に釘付けだった。
『来るぜ』
「来るって何が――わああ!?」
アスマエルが私の心の中で不敵に笑った瞬間、緑を割って何かが飛び出した!!