きっと、夏のせいだ。
みーん。みーん。
いつもよりも太陽が近いように感じる夏の昼過ぎ、鬱陶しさだけを感じさせる蝉の大合唱が響くのを聞き流しながら、俺は教室に一人残り学園祭の準備の片付けをしていた。
何も最初から一人ではなかったのだが、友人達は習い事や勉強、彼女とデートなどという理由を免罪符に掲げ帰ってしまったので、一人になってしまったのだ。
(早く片付け終わらせて帰ろ…)
四十人以上が収まると気持ちのいい落ち着きを生み出してくれる教室は、たった一人で居残る俺に早く帰れと無言の圧力をかけている。わかっている。俺だって早く帰りたい。しかし友人達が無造作に放り出した段ボールは、少なくとも片付けに十分以上かかる量であった。
(真面目にやるっきゃない、か)
俺は散らばった段ボールを集め、ゴミ箱に入れる作業に集中することにした。
しかし本気を出して片付けると意外にもあっさりと作業は終盤を迎え、あとはドア周りの段ボールを片付けるだけになった。俺はドアの周りにある段ボールを慣れた手つきで集めゴミ箱に投げ入れた。クーラーを消し、鍵を締めれば、片付けは終了である。
俺はクーラーを消そうと壁に備え付けてあるリモコンの[停止]ボタンに手をかけた。
瞬間。
がらがらっ!
という小気味いい音とともに一人の女子生徒が教室に勢いよく入ってきた。
不意をつかれた俺は、その女子を見つめることしかできなかった。
長い髪をなびかせ一重ながらもくりりとした目をこちらに向け「ん?」という表情を浮かべる彼女は、同じクラスの相田晴香であった。
「どしたの?」
彼女と目を合わせたまま停止していた俺は、体を少し壁側に動かしながら
「そっちこそ、どした?」
と聞き返した。すると、彼女は
「外が暑かったから、教室ならクーラー効いてるかなーって、思って」
と言い彼女は手でうちわを作り扇ぐポーズをしながら教室の真ん中ほどまで歩く。なるほど彼女の首筋には汗が流れ、跡を作っていた。
「外あっついもんな、うちわ使うか?」
俺はカバンにしまっていたうちわ——駅前で配っていた名もない英会話教室のものだ——を取り出し、彼女に手渡す。彼女はそれで扇ぎながら、誰とも知らない机に座った。
「タニケンはここで何してたん?」
"タニケン"とは俺のあだ名である。本名が谷健太だから、タニケン。単純である。
「あー、学園祭の準備してた」
「一人で?」
「いや、坂口とか吉原もいたけど、先に帰っちゃってさ」
彼女は納得の表情を見せた。それもそのはず。夏休みに一人でわざわざ教室に来て学園祭の準備をするバカ
がいるわけがない。まあ現段階では一人いる計算になるのだが。
「そっかー…」
そして何を話すでもなく、会話が途切れ、お互い黙りこくってしまった。教室には、蝉の大合唱が鳴り響いていた。
(…そういや俺、相田としっかり話したことなかったな)
仲が悪かったわけではない。二年前も同じクラスだったこともあり世間話程度なら夏休み前にもしていたし、近くの席になったこともある。だが、特別仲が良いかと聞かれれば、そうでもない。どこにでもいるただの "クラスメイト" だ。
二週間ぶりに会ったからなのだろうか、夏という季節が生み出した雰囲気の所為なのか。俺はなぜか不思議な気分に襲われている。もっと相田晴香について知りたい、もしくはもっと話していたい。変な気分だ。
彼女の艶のあるやわらかそうな長い髪が風に吹かれて大きく揺れる。彼女はその髪を無造作に耳にかけた。俺はその姿を無意識に、見つめていた。
「相田はなんで学校に?」
俺は他愛もないことを聞いた。
「私は部活の後輩の手伝い。大会が近いから、練習見てあげようと思って…」
グラウンドの方に目をやると坊主頭の野球部の連中が声を張り上げてランニングをしていた。受験生である俺にとっては勉強の夏だが、世間一般ではそうではないらしい。
「じゃあ今は休憩中?」
彼女は何もない空間を見つめながら、
「いや…休憩っていうか…その…抜け出したっていうか…」
と語尾を濁した。
「え、抜け出したん?わざわざ自分から見に行ってるのに?」
「ち…違うもん!…最初は真面目に見ようと思っててんけど、ちょっと暑過ぎて…へへ」
彼女は照れくさそうにはにかんだ。
「わざわざ夏休みにまで部活見に来るなんて熱心やねんな。……受験もそろそろなのに」
「もう受験勉強始めてるんか、賢いなぁ」
「まーね。——志望校決まってるし」
俺は彼女と正対するように机にひょいと座る。
「けどタニケンやったら余裕じゃん …私なんか、数学の課題で手一杯なのに」
彼女は笑った。俺もつられて笑った。
「私、一学期期末の数学22点だったんだー…。——笑えるでしょ?
「それって普通に欠点やん!」
はははっ、とお互いで笑い合う。
こんなに笑うのは、いつ振りだろうか。最近は笑う回数がめっきり減った。受験の年を迎え、強く受験を意識するが故にそうなったのか、親や塾の先生の期待からくる重圧によるものなのか、それはわからない。ただ、今はそういうものから解放されてもいい。と思う。少なくとも、彼女の前ではそれが許されているように感じた。
彼女と話すと、楽しい。
彼女といると、楽しい。
俺はこの時間が、彼女と一緒にいる空間が、好きになった。
「あーあ、ほんまに誰か、私に数学教えてくれへんかなぁ…」
彼女はそう言い、下を向いた。
「…んじゃあ、俺が教えてやろうか?」
無意識だった。
無意識が故に、後悔した。
突然の誘いに驚いたのか、彼女はきょとんとした表情でこちらを見つめる。
背中に冷たいものが走る。
手首より先が湿気てくる。
首より上がこの上なく熱くなる。
俺は焦っていた。
彼女の瞳がじっと俺を捉える。
心臓の鼓動のリズムが早くなる。
そのまま、何分も、何時間も経った気がした。
沈黙を破ったのは
がらがらっ!
というドアが開く小気味いい音だった。
「あー、晴香またこんなところにいる!もー、すぐ抜け出すんだからー!」
走ってきたせいで乱れてしまったであろう髪を直しながら少し低い声でそう言ったのは相田晴香と同じ部活だった隣のクラスの小川、という名の女子だった。
「あっ… ごめん……。ちょっと暑すぎて…」
彼女は申し訳なさそうに声の主にちょこんと軽く頭を下げる。
「まったく…そろそろミーティングやから、さっさと行くよ、ほら、早く」
小川はとても急いでいるようで、そう言い残すとすぐに教室から出て早足で遠くの方に消えていってしまった。
「ごめんっ、タニケン …もう行かないと!」
彼女はひょいと机から降りると俺にうちわを渡し、ドアの方へと駈けていった。
「お、おう。気をつけてな」
俺は小川を追うように早足で消えていていく彼女を眺めることしかできなかった。
誘いに対して返事はなかった。しかし、返事などどうでもいいような気がした。
蝉は、鳴り止んでいた。
クーラーの[停止]ボタンを押した。ウィーン、という機械音が響く。そして鍵を締め教室を出た。窓の外を眺めながら職員室に鍵を返しに行こうと歩みを進めていたその時、誰かが廊下の端からこちらへ向かって走ってくるのが見えた。それは、相田晴香だった。
額に汗を滲ませ、近くまで来ると少し息を整えながら、話しだした。
「さっき言ってた数学の件なんだけど…今週の日曜日の十二時くらいから、駅前のミスドで教えてくれない…かな」
顔を赤らめながら、彼女は言う。
あいにく俺は日曜日に予定を入れていなかった。
「じゃあ…日曜日、十二時に駅前集合で…いい?」
「うんっ!よろしくね!」
とびっきりの笑顔を見せ、彼女はまた、廊下の端に向かって走り出した。
俺はその姿が見えなくなるまで彼女を見つめていた。
また、心臓の鼓動のリズムが早くなる。
きっと、夏のせいだ。