『追憶 / 何処かとも知れない場所で』
じくじくとした全身の痛みに目を覚ますと、仰向けて横になっていたらしい。
鈴音は、ぼんやりとした意識のまま、気づけば天井らしきものを見上げている自分がいることにようやく気づいて、ぱちぱちと瞬きをする。
いや、らしきもの、などではなく、きっとそうなのだろうと思い直した。
自分の体は火照っていて動くのも億劫だったが、先ずは周りを見ないことには何も始まらない。そう確信して僅かに身じろぎをすれば、その微かな音が聞こえたのか、彼女のもとへ向かう気配を部屋の中に見つけた。
何とか意識をはっきりさせて、その人を、目を細めて見つめる。
黒髪に、黒目。
どこにでもいるような、ありふれた顔立ちが、鈴音の顔を覗き込んできた。
「やっほ、鈴」
「…………」
喉がカラカラに渇いていて、上手く声が出せない。
恐らくは、この体の痛みのせいだと、それだけは彼女にも分かった。
なにせ、この痛み、というよりも熱さは、今はそれほどでもないが、彼女の体中の血を沸騰させたような辛さだったのだ。
そして、ああ、と思い出す。
木佐原をも昏倒させた後、あの医者は自分に注射で何かを打った。その時もたらされた痛みは余りにも鋭かったから、それ故に、自分は意識を失っていたのだと――
あれから後。
自分の途切れた記憶を埋め合わせる術を、鈴音は持たない。気づけば此の知らない場所で、つい先程まで相対していた医者とは別の男が目の前にいた。どういう経緯なのか、それすらも読み取れなくて、彼女はただ困惑した。
よく知る男だ。
さっきまで、自分と相対していた。その筈だった。
それなのに、目の前のこいつとはよく見知った仲である筈なのに。あの医者と彼のどこに接点が存在したものか、それさえ分からない。
彼に尋ねたいことは沢山あった。
だから口を開こうとして、けれど苦しげに眉をひそめてそれを止めた彼女の様子に、彼女以外に唯一いた、その男は声をあげて――ただし、それは似合わず小さなものだったが――笑った。鈴音自身には、彼が笑ったその理由は判然としなかったのだが、ただ、その声は心なしか嬉しい時に聞くそれのように思えた。
何となく面白くなくて、ただその姿を力なく睨みつける。
気だるい体で、自分の半身をゆっくりと起こせば、同期の男が同時に近づいて、自分のいるベッドの横に腰かけてきたのを視界に入れた。
ようやく辺りに目をやり、意味もなく息を吸った。深い呼吸に、燻るような体の痛みが溶けていく。少し埃っぽい気がする空気が、肺を満たしていくような、そんな心地になる。
殺風景な部屋だ。
まず見て思ったのが、それだった。
窓もなければ装飾もなく。おそらくいる建物自体は同じなのだろうが如何せん、把握しきれている者がいるのかと思う程に隠し部屋やら何やらが多いので、何処ら辺に位置しているのかは定かではない。
だから、出る方法など知るよしもなかった。ただ此処に一つベッドがあって、自分たちはそれに座り、或いは横になっている今だけは理解していた。
……どちらが最初に動いただろう。
不意にぎし、とベッドが揺れる。
けれど、それからしばらくの間はそれ以外に音はなかった。
お互いに何も言わないまま、少しずつだが時間が過ぎていくのを感じていた。
ただ、鈴音にとっては。
沈黙というものは、今受けている痛みさえなければさして辛いものではないものだった。普段は煩い程喋る隣の男にとってどうなのかは分からないけれど。
だから、何も話さなくとも別段気にはしなかった。
「さて、と。何処から話したもんかね」
けれど、彼は違ったらしい。笑みを含んだような声ではなく、どこか逡巡しているようにも思えた。
常からすればおよそ似合わない、そんな声がそれまでの沈黙を突然破った。鈴音の耳に入ってきたのは、そんな声だった。
顔を横向ければ、沈黙の時は一切合わさらなかった視線が交差する。それは見慣れていた筈の相手の目の黒さで、自分もそうであるくせして何故かどきりとさせられた。
天堂と居る時に、不意打ちのようにやって来るような、そんな種類のものではない。
これから何かが自分を変えてしまうような、まだ自分の知らない何かを目の前で暴かれるような、前兆のようなもの。
それは恐れにも似ていて、けれど、と考えた。
そんな感情を沸き起こさせる男ではなかったと思った。
ただ、一方で、それも彼の一面なのだろうというのは、不自然な程自然に心にすとんと落ちてきて、鈴音はそれに見て見ぬふりを決め込んだ。
「 」
声も出せぬまま、それでも、そうせずにはいられなくて、名前を呼ぶ。
その声なき声に、何を思ったか。いや、そもそも聞こえていたのか。唇の動きを読み取っただけなのかもしれないが、彼はちゃんと理解したように、常にはない穏やかさでそれに答えていた。
「大丈夫だよ。ただ、知らなければならない出来事を伝えるだけだから」
付き合いが長いとはいえ、それは赤の他人に比べれば、という言葉がつく程度でしかない。たかが数年で、相手の全てを知った気になっていたかもしれない。
それだけで推し量れるものではないことは十分に承知している。
けれど、その垣間に見せた、鈴音がこれまで見てきた彼と同じ在り方の彼も、また事実であるのだろう。
もしそうでないのなら、私は。
「……そうだな、まず前置きからだ」
その声を聞きながら、鈴音は、その一瞬で、今でも鮮明に残る過去の記憶を思い起こした。
* * *
うだるような夏の、ある日。使役士を育成するという学校はその日、夏休み前の試験最終日だった。
鈴音は頬杖ついて、ぼんやりと試験最後の教科が終わった直後の歓声に包まれる教室を眺めていた。
この試験が終わればしばらく授業はない。それは即ち、夏休みの訪れを意味している。
「よぉし、では終わるかぁ」
監督であった老教師が試験用紙の枚数をゆっくりと数え終わり、そう間延びした声で言った時には、既に教室を抜け出る準備をする者までいた程だ。
「気をつけ、礼!」
『ありがとうございました!』
いつになく気合いの入った号令に、一目散に教室を飛び出していく生徒たち。
その中に少々遅れる形で、鈴音も鞄を持ってそこを出ていく。
夏休みといえば、帰省の時期だ。都市部から離れた僻地であるこの場所において、そんな場所を通る交通手段は無きに等しい。
「中央都市行きに乗る奴はもういないかー」
「極海方面の人は並んでー!!」
教師たちがそう叫びながら、忙しそうに走り回るのを尻目に、鈴音は食事をするために一人、中庭に向かう。数多い生徒たちの中でも珍しいことに、彼女は帰省しないうちの一人であった。
帰る所がないというからではない。帰りの電車賃単に、自分の両親も自分も、互いに何かしらの負い目を持っていたからだ。それに何より、彼女自身が帰りたいと思わなかった。
いつもは空いている食堂も、今回は生徒たちが帰郷の道のりで食事をとることを考慮してか、弁当が用意されている。
本当に準備のよいことだ、とご飯を一口、口に含む。いつもならば少ない休み時間に少しでも空きを作りたいので食事はかきこむようにしているが今日からしばらくはその必要もない。
「それでも、人が全くいないのはいただけないわね……」
いつもとは正反対に静まり返った場所で吐息を溢す。引率される生徒はもう出発したのか、いつの間にか教師の声は随分と小さなものになっていた。
遠く離れた正門辺りではもしかすると、未だ騒いでいるのかもしれないけれど。
……まあ、関係のないことだわ。
気にしても仕方ない、と笑う。
友人さえもいない彼女は、ある意味クラスでは目立っていて、それを気にしたことはなかった。それでもやはり自分は人の子なのだ。不意討ちのようにこうして思い出してしまうときがある。
繰り返す思いは、けれど、その時崩れ去ったのだ。
――生徒呼び出しをします。5年A組市谷鈴音、職員室へ来てください――
「あら」
箸を動かす手を止めて、鈴音は空を振り仰いだ。
この世界で風は吹かない。吹いたとして、それは人為的に作られたものか、あるいは竜が発生させるものであるからだ。
では何故、あの雲は流れていくのだろう。
その理由がどこかにあるとして、それを求める人はいるのだろうか。
「……いけないわ」
……あの時、我に返って行かなくちゃ、と呟いたのは、確かに自分だった。
ぼんやりと感じた疑問は、自分が教師に呼ばれたことによって掻き消された筈だし、ずっと忘れていたのに、何年も経った今になって、こんなにもはっきりと思い出してしまう。
覚えている。
このすぐ後に、今目の前にいて、何年も前から全然容貌は変わっていないこの男と出会った。天堂とこいつと同じ班に入れられて、今の今まで仲間としてやってきた。
けれど、あの時。
こうして使役士になる過程で出会ったそのことは、果たして偶然だったのだろうかと。
今でも思ってしまうのだ。
* * *
それは、前置きというにはあまりに不思議な始まり方で。
「昔話をしよう」
本来僕たちが知るべきではない。
けれど、強いて言うなれば、それはある資格を得た僕たちだけが知ることが出来る話を。
鈴はその資格を手に入れたから。
それが幸か不幸か、と言われたら、不幸なのかもしれないけど。
首を傾げながらも、聞いて思ったのだ。
本能的に全てを察するような、そんな心持ちの中で。
ああ。
全てが此処に繋がっているのだ。
その全てがどれくらいかなんて分からない。けれどただ、そう思った。
どこから取り出したのか、水が湛えられたカップを手渡され、それを煽る。その動作の間にも、言葉は流れていく。
「誰もがかつては知っていた話で、けれど、それを知らないことはとても幸せで、悲しいことだよ……」
その内容を聞いた後、自分の頬を涙が伝うことなどその時は知るよしもなく。
鈴音はその声に耳を傾けた。
これを読んでくださったあなたに感謝の言葉を。
遅筆で本当に申し訳ありません。




