『地下 / 来訪』
「――あの小娘は何処にいる!」
夕暮れを目前とした時刻、乾澪は包丁を肉に叩きつけていた。
決してそれが堅いというわけではない。単に苛ついているだけである。部下たちは何も言わなかった。じゃなく、言えなかった。近くの般若の形相を見たくはないのである。
されど彼らは確かに彼女を料理人として敬愛しており、たとえどのような状況であろうとも変わらないその早さはなにか、本物のようでもあって。材料たちは見る間に細かくなってゆく。
それを、ぶつぶつと呪詛を行うようにするのだから、なお恐ろしいのではあるが。
手を休めることなく作業を続ける彼女とその部下たち。
猫梨が姿を見せないために、作業は呪詛というBGMを得ながらも、黙々と進んでゆく。
始めてからどれ位経ったろうか。彼女らの背に、のんびりとした声がかかった。
「なーに余計な力入れてるんだかねー」
調理場にいる、澪を含む一部隊全員がばっと振り返った。
驚きであるが、誰も気づかなかったのである。
「お前、いつからっ……むぅ」
澪は不満気、という例えが可愛らしすぎるかのように思えてしまうような表情でそいつを見た。しかも、いつの間にか間を詰め、唇に指をあてられているのだ。驚きに中和でもされたのか、唇だけで笑むその顔に対してはあまり苛々はしなかった。
しかし何故か、それはどこか嘘らしく思えてしまって僅かに触れあうそれに、澪はますます眉根を寄せる。
無言の要求である。もちろん、彼はそれには応えてはくれない。
僅かな温もりは静かに、という意味でしているらしく、二人は暫く見つめあって――とはいえ澪は睨んでいたのだが――罵声をそれ以上あげないだろうことを確認してから、沙紗はようやくそれを離した。
よく見れば、指を当ててきた方ではない手には、断面が粗く黒っぽい棒が握られていて、澪はそれに遠慮なしに視線を注ぐ。興味深く見てくるのに気づいたのか、うふん、と、そいつ、沙紗が意味不明な声をあげた。
「気になる?」
彼らは、それなりに長い付き合いであった。
性格はそれなりに理解しているつもりであった。
「お前に教える気なんてものはないだろ」
「ふっふっふ。すっごい顔」
「……」
もとから一言多いのではある。
「昔の澪はもうちょい素直だったのになー。ほら、俺のこと“兄様”って呼んだり」
「…………ふむ」
間近にいる無防備な腹に、問答無用で拳を叩きつけた。
「昔だろう。言うな、忘れろ」
「く、ぁあー。けっこうくるねー」
一応じゃれあいの範疇である。だが黒歴史である。異論は認めない。自分は何をとち狂って誰のことを兄と呼んでいたのか。澪は記憶の中の彼らを懸命に抹消しながら、その実大して代わり映えのしていない現在を見つめた。
ただし、過去を見ることをやめたところで、何かが変わるわけではないのだ。
沙紗はずっと、変わらずにそこに在り続ける。
「帰ってきたな」
「うん。まーね」
妙に奔放で、周囲に迷惑をかけずにはいられない男である。
しかし、自分が決めたことに関しては、健気なまでにそれに向き合うような人間でもある。
それ故に、彼女は心の底から彼を否定することは出来ない。
「発作は」
「ん? あー、だいじょぶ」
沙紗にしては苦いような笑みで、片手にある棒をコートの奥深くに突っ込んだ。
「うーん、まあこればっかしは、ねぇ」
沙紗自身、自分がおかしいことは十分すぎる程に知っている。無条件にそうなるとされている発作が、どのような条件下で起きるのかということ。それも実は把握している。
誰も知らないし、尋ねられないからそれを言わないだけで、もし言ったとしても、完全に分かりはしないのだろう、と沙紗は考える。
だから何も言わず、何も知らないふりをする。
「あー、でも一人、」
「一人? 何のことだ」
「ん。なんでも」
知っていたか、と思い返した。
それは、彼の同胞でもある、女性のことだった。
彼女と最後に会ったのはいつだったろうか。思いを馳せ、そして、三年前だと気づいた。
彼女の形見の一部となる、記憶の欠片。
「お前、あの小娘の場所知っているだろう」
「へ?」
清潔性を確保するために、冷水でがしがしと手を洗いながら、自分の世界から離脱する。
いつの間にか間抜けな声を沙紗は出していた。聞いてなかった。
澪は怒りがぶり返してきたのか、言葉の端々に恐ろしげなオーラを放出しつつそれを言い聞かせるように、反復する。
「だから猫梨だ、びょ・う・り」
「あの子の場所? なに、反抗期?」
「……知らんのか?」
「んー?」
彼女は、いつも通り(に見える)の沙紗の表情を見て、知らないと判断する。
あの執着具合とストーカー技術からして、猫梨については知らないことは何もないと、そう思い込んだのが間違いだったのかもしれない。
「しかし、あの小娘め。職務怠慢なぞ万年早い!」
手を拭き、くたびれた枯草のコートを脱ぎ去る。
身軽な姿になった沙紗は前掛けをつけながら朗らかに笑った。
「澪はほんと、仕事熱心だなぁ」
「む。当たり前だ」
また材料を刻み始めた彼女の隣で、立て掛けてあった包丁を手に取りくるくると弄ぶ。
もう片方の手は、行き場をさ迷って最終的には澪の頭にぽんと置かれた。
「……邪魔だ」
「うん、ごめん。知ってる」
「鬱陶しい」
何事にも真っ直ぐな、その姿に顔を少しだけ弛めて、
「んー。でもね、ちょっと間違ってるから」
わしゃわしゃと髪を撫でる。
「何が」
「猫梨だよ。あの子についてだ」
「良くも悪くも、14歳だからねぇ」
沙紗も材料を取り出して、それらを切り始める。
「僕たちは常にあの子の標となるべきだと思っていて、でもあれは、僕らを必要とはしてくれない」「……」
とん、と手元で、言葉に似合わぬ軽快な音があがる。
それはさながら独り言のようでもあって。
「ね、分かるかい。澪」
「…………」
「あれは気づいてる。俺たちはまだ子どもで、」
端まで野菜を刻み終える一回だけ、包丁が空振った。
沙紗は喉の奥に言葉を押し込めたような声を出した。実際、言葉を飲み込んだのだろう。
「……うん、だから、怒らないでやってほしい」
ぐしゃぐしゃと最後に髪をかき回して、そよと風がそよいでいく。
ふわり、と、近くにあった熱源が離れていくような気がした。
「……」
澪は押し黙ったままに、傍らを見る。
隣にいたはずの彼は音もなく扉を開け、向こう側へと行こうとしていた。
もとより真面目に手伝いをする気はなかったらしい。それだけを言いに来たのか。
彼女は置き去りにされた材料たちを一瞥し、
「片手で切るな、馬鹿者め」
ぼそりと呟く。
「あー、ごめん」
ふらり、と扉のその先へと消えていく。
澪は普段しないような緩慢な仕草で、ぼんやりとある一点を見つめた。
目の先にあったそれらは妙と言える程に綺麗に切られていた。
*
「…………というわけで、今日はあの面倒な騒動を起こしたこいつに土下座してもらうことにする」
澪は仁王立ちの体勢でそう言い切った。
「普段いないから知らん奴もいるかもしれないが、こいつは第二部隊隊長を務める、」
「どーも、水上沙紗だよ(*´∀`)♪」
能天気な声に一瞬、その場が静まり返った。
聞こえるのは、最早全てのことをスルーして箸を動かす境地にいる天堂だけである。
因みにまだ誰も食べ始めてはいない。
「……天堂、貴様」
澪が青筋を立てた。危険である。
天堂は胡乱な目をそちらに向けて、
「なんだ。……ああ、あい分かった。少し待て」
箸で掴んでいた食べ物、兎の肉を口に放り込み、ゆっくりと咀嚼する。
それらを腹に収めて立ち上がって、澪の所へと移動する。
「腹が減っていた。悪い」
「……貴様。こいつがいなければ貴様を跪かせるところだ」
「だろうな」
話が理解出来るのは彼らをよく知る沙紗の弟――正確には義弟なのだが――だけである。
(いやああぁぁ、兄さあぁん!)
内心叫びまくりの冷や汗流しまくりであった。
そんな叫びをものともせず、皆の目の前で、澪と天堂は顔を見合わせ――因みに彼らは沙紗の両隣に立っていた――正座する沙紗の頭を二人でひっつかんで床に叩きつけた。
嫌な音がした。
「さて、食事だ。食え」
そのまま食事は始まるのである。やはり澪はある意味で女王様であった。
…………
……
…
「みたいなことがあってさー。これは酷いよねししょー」
師匠こと有村海は長官室で食事をつつきながら、教え子たちの話を聞いていた。
「沙紗よ、お前はそそっかしいからそうなる」
彼らの前には熱い茶がある。もちろん中身は熱い。
天堂は猫舌である。
沙紗は平気である。
これ見よがしに飲んでいるのを、天堂は渾身の力を込めて殴った。
有村は見なかったことにした。仲が良いのは事実である。
しかし、珍しいこともあるものだった。
この二人がいて、逆に彼女がいないなど。
教え子の中でも最も律儀である、あの女は。
「……して、翔よ。鈴音はどこにいる? 三人で集まることなど滅多にないだろうに」
「その話のために来た」
真剣な顔で湯呑みを持っている姿は色々笑えるなんて思いながらも、次の一言で沙紗は口に含んでいたものを思わず吹き出し、有村は箸で掴んでいた食べ物をぽろりと落とした。
見た目だけでなら天堂だけが平静で、両手で湯呑みを持ちながらぼそりと言った。
「鈴音は、いなくなった」と。
澪さんはけっこう騙されやすいです。
これを読んでくれたあなたに感謝の言葉を。




