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耳を澄ませる、というのはある種の儀式のようなものなのかもしれない。沙紗はそう思っている。
何故かと問われれば、絶対とは言い切れないことではあるのだが、自分と彼女は常にお互いを引き寄せあうような存在で、探すのとは少し違うような気がするからだ。
それは自分の考えに関係なく出会うもの。
それは、猫梨にとっての沙紗。
あるいは、彼にとっての彼女でもあるともいえよう。
普段の沙紗と比べたら絶対に似つかわしくないと断言できるような、そんなことを考えながら、彼は人がまばらになり、ついには一人になったその場所で壁に手をついている。金属製のそれはひやりと冷たく、だからこそ竜の炎にも耐えうるものと謳われているのかもしれなかった。
当てた手に拳を作り、こつりと打つ。そして、耳を澄ませる。
反響を捉え、自分のそれの調子がよいことを確認する。
「いやぁ、今日も好調だなー」
かぁん、と小さくなっていく音がだんだん聞こえなくなるのはやはり必然のようで。
空洞であるものの独特の響きは自分の中に既に刻まれていた。
「うん」
口元を三日月に歪める。
捕捉。
*
血の香りが鼻先を掠めるように、ふわふわと漂っている。
そういう類のものに対してならば、本来はねっとりと――というべきなのだろう。
ほんの微かでありながら、でも確かに自分が噛みしめた唇の鉄の味であった。
それは、今の少女の生きる世界では唯一の鮮烈さを放っているもの。
又は、少女自身に残された信念でもあったのかもしれない。
彼女は体勢をそのままに、わずかに舌を出しながらおもむろに、ぺろりとそれを舐めとった。うつぶせになってどのくらい経ったのか。床の冷たさにさらされる片頬は感覚をなくすほどでいて、しかしそのようになるまでに時間がどれ程経過したのか分からないのだが、しかし、妙に色褪せたような触覚は彼女の心には何ももたらさず、どうでもいいように扱われていた。
不意に、ぞわりと寒気ではない何かが這い上がってきて、血の香がより一層強くなる。
夏だというのに、なんてことは一切関係なくて、心の中では泣きたいような、叫びたいような何かを感じて、もう一度滲んだ血に舌を伸ばす。
自分の体は、自分にとっては一つだけの温もりだった。
そう考えると、地下の寒さとたった一人で相対していることに気づいて、彼女は身震いをして体をより一層縮める。
彼女の体内を巡り、その動きを縛っている薬は既に耐性としてその矮躯に蓄えつつあるが、もともとの体質なのだろうか。彼女は冷気を自身の中に溶け込ませることはできなかった。
はあ、と息を吐けば、狭霧のような水蒸気が現れては消えていくのが見える。
そう考えれば、これを得ることが出来たのはよかったのだろう。
そう思って手元のもこもこした素材に意識をやってみる。
もちろん、あれからどれ位経過しているのかは分からない。
が、人がいたその時までの様子はまだはっきりと網膜に焼きついている。
はめさせられた手袋は、どこまでも狭間にいるように見えた彼――木佐原が放って寄越してくれたもの。
あの男が先に消えてから、彼はこう言ったのだ。
「君は猫ですから。夜は以外と冷えますよ」
夏真っ盛りに、しかもそれをもたらした当事者がよく言えたものであるけれど、それでも厚意というものは受け取っておくべきであることを猫梨は知っていた。
その時の自分はこわばったような指でそれを掴んで、ぎこちなくそれに指を通していて、その時の動作をただ見ていた彼の瞳に何が映っていたのかは分からない。
しかしもしも、そこに何かしらの影がよぎっていたとすれば――。
こんなことは考えるべきじゃないのに、考えずにはいられなくて。
いつの間にかそう思い始めていた自分に、猫梨はひきつったような笑みを浮かべる。
あの無理矢理な体の行使は、ぶつりと筋繊維を切るという代償を払っていたのに、薬と同様にもう既に治りかけている。驚異的な治癒力であるが、そうはいっても、僅かな笑みも今はまだぎこちない。
完全に再生するのにはまだ時が必要だった。
「……ううぅ」
疼痛がよみがえり、呻く。
また待たなくちゃいけない。
その間の自分は何もできない。
頭の中にある風景が、勝手にちらちらと明滅して苦しい。
こんなことならばいっそ、自我を忘れてしまえるくらいの痛みを与えられた方がよかった、と思った。
というか、むしろそれが普通で、猫梨がそうでないだけなのだ。
天堂も澪も、木佐原や鈴音、周りの人はみんな本当は自分と違うごく普通で、本来ならまだ癒えてはいけない傷なのだ。自分の中途半端な回復力によって癒えた傷は苦しかった。その先にあって、待ち構えているであろう何物にも進みたくなかった。
実際あの時、栗色の瞳を見ることは体勢を変えれば出来たはずなのだけれど、そうしなかったのは単に偶然ではなく猫梨がそれを恐れているからだった。
最強と言われた少女も、一人は怖い。
一人は寂しい。
だからどうか、見捨てないでほしい――
哀しいほどに淡い日常はいつだってすぐに消えていってしまうから。
わたしの傷はもう少しで癒えるから。
猫梨は諦観を滲ませるように一度目を閉じかけて、しかし不意に何かの音を捉えた気がしてそれをもう一度押し開いた。
「おー、いたいた」
そして、それは間違っていなかった。
一瞬言葉が喉に張りついて、喋ろうとした舌は焦りのせいかもつれてしまって。
「……しゃ、さ?」
まるで幼子のような、舌足らずになったその声に空気が微かに揺れて、それに応じるように、窓も何もないはずの場所に風がそよぐ。
この場所――地下牢はその名の通り上へと続いているらしい。磨かれたかのような白の世界には階段があって、その一番下では枯れ草色のくたびれたコートがひらひらとはためいている。
そしてそれを着る、黒髪の青年。
その胸には徽章が煌めき、彼はそれに合わせるように静かに笑う。
聞こえないくらいの小さな足音を近づけてきていて、いつの間にか猫梨の眼前に、彼はいた。
彼女の存在を否定するかのような牢の格子の一つをおもむろに握りしめ、言う。
「そうだよ。君のための僕だから」
かがんで、さっきまでは閉じられそうになっていた若草の瞳を見つめて。
「……なんれすか、それ」
かんだ。
彼女は顔をしかめて、その動作の中からまた痛みを見つけ出すという悪循環を一人で繰り返す。
そんな様子を見つめながら、沙紗はそのまま座り込んで胡座をかいた。
「んー、もちろん、愛の告白だよ?」
「…………」
「おーい。聞いてる?」
もちろん、場違いであった。
沙紗は、半眼でにらみ上げている目が、何かを言っている気がしたのも全く恐く思えずににこにこと笑みを浮かべたままでいた。
「変態」
「……えーひどい」
ただし、たとえ狼にそう言われるのが平気であっても、好いている彼女がそう言うのとは話が別である。直後に少しだけ、顔を引き攣らせた沙紗に向けられたのは、
「どしたんです?」
事実ですが、というような顔である。
「……分からないかな」
そう返すと、何故かこころもち怒ったような顔でそっぽを向かれて、頭を動かす方が大変なのではないかとちらりと思いもしたのだが、考え直して口角を上げる。
代わりに、問いかけることにした。
「ねえ。君はさ、」
ここから出たいと思う?
その言葉にこちらを向いていない小さな背中は一瞬だけぴくりと動いて、しかしそれきり動かなかった。
「言いたいのはそれだけですか?」
「もっと言ってほしい?」
「……意地悪」
猫梨はぼそりと言った。
「わたしには分からないのに」
しかしその言葉を、沙紗が捉えられないはずはなくて。
「だめだよ」
ずっと掴んでいた格子を、力の限り握りしめた。
「それじゃ、だめだ」
それはぐにゃりと、飴細工の如く変形していって、
「猫梨」
ぱきり、と何かが折れる音がした。
背を向けていた彼女は振り向いて、その顔を認めて泣きそうな顔をした。
「だめですか……?」
「だめだ。絶対に」
沙紗は自分が折りとってしまったそれを手で弄びながら、彼女の泣き顔に平然と動揺もせずに滅多にしない断言をした。
「耳を閉ざしちゃだめなんだ、君は」
「……たとえ、どんなことがあったとしても?」
若草と黒がぶつかって、二人とも目をそらしはしなかった。
「そう」
ちゃらり、と金製の鎖が澄んだ音をたてた。
「君は歩兵でなければならない」
彼は立ち上がっていて、そこでようやく彼女から視線を外して、胸で鳴ったそれを見た。
「横の僕なんか、まだ見なくていい。ただ今は、ここに来たことを言わなければそれで」
牢を背にしてそこを出ようと歩き出す。
上へと繋がる階段に足をかけて数秒間ためらいを見せて、
「じゃあ、おやすみ。いい夢を」
また来るよ。
影は去る。その、そろりとした靴音に身を委ねるように、猫梨は今度こそ目を閉じる。
床は相変わらず冷たいままだった。
これを読んでくれたあなたに感謝の言葉を。




