『夙夜/陽光』
あっれ、おかしい。
シリアスが逃げていくようだ。
大分前から、狼の顎でがっちりとホールドされている自分の頭がよだれまみれになっていることにひどく気持ち悪いと思っていた。いつの間にか閉じていた目を開けると、視界に僅かな曇りがかかっていて少しだけ瞬きをしてみた。眠っていたことにようやく気づく。
こういう時はぼやっと空中を眺めていたいものだが、あいにくとそこは暗かった。
意外とどんな場所でもその気になれば、人間というものは寝られるものらしい。それは普通なのかそうでないのかは分からないが、その中で確実に普通であるような疑問がわいてきた。
「そろそろ放したりとかしてくれないかなー」
『断る』
呟くと、短く返答があった。
耳の中にまで入り込んでくるのに遠くから、それでいて近くから聞こえるような、おぼろげな声。何故皆こういう喋り方なのか。いやそもそも口の中で喋っても聴こえるのかよ、なんていう言葉は口に出さないがそう思う。
目を細めてみるが、当然のように底は真っ暗で、湿気が多くてむわっとした気流が揺らめいていた。
ただ此処でこんなことをされ続けるのも不毛である。とりあえず状況を打開するために、水上沙紗は自分を食みかけているそれの鼻面を見当をつけて引っつかんでみた。
『……食いちぎるぞ』
直後に物騒な言葉が聞こえて、手を引っ込めそうになるが男の意地とやらが邪魔して放せなかった。そんなことされてたまるか。
手の中に握りこんだ、弾力のあるそれをさっさと上方へ引っ張ると、思いの外簡単に外れて、
「うあ」
自分の方が変な声を出しながら体を転がされていて、思わず顔を歪める。
痛くはなかったが、そんな声を発してしまった己はやはり思い通りにはならないもので。
こんなことを言った所で、今更なのかもしれないが、正直なことをいえば自分の体はどうでもよかった。ただ、こんな無様な姿を錆色の彼女だけには見られないこと。そんなことがなくて良かったと、ただそれだけが頭に浮かんで消えてゆく。
ああでも彼女はきっと、体に欠損のある状態であることを一番に悲しむかもしれない。
自分の考えをそう撤回して、無事に解放されたことに、ひとまず感謝しようと思った。
たとえ自分がどんなにひどい状態でも。
彼は自分の顔にぺたぺた触ってみる。と、粘着質の何かが引っついた。
「あー。やべ、べたべたする」
涎にまみれた自分の頭をひとふりする。飛沫がぱらぱらと散っていく。顔面がすぅすぅする不快さを残しているが、それでもましといえる位にはなって、ようやっと周りを見渡そうという段階に入った。
しかし目に入ったのは、……というより視界に入れざるをえない至近距離にそれはいて、否応なしにその体躯を見なければならなかった。その生き物は、歯をむき出して唸る、友人の使役動物――即ち大型種に属する黒狼。
それは、喉の奥でごろごろいわせながら言ってくる。
唸りながら話すという芸当などよく出来るものだと変な所で感心した。
『汚いな、貴様』
「…………いやいや」
飛び出たのは、ちょっとだけ拍子抜けさせられるような言葉で。
なんで今のこれが蔑む要素になるんですか。
「え、これあんたのでしょっ?!」
つっこむ。
つっこみながらいや、そんなことする必要なかったかな、と思う自分がいて、しかし的確な言葉に他に返す言葉がなくて、とりあえずマスクを外す動作に入っていたりする。
「……まー、でも」
確かに、そーなんですよねぇ。
代えのマスク必要だよなー、これは洗濯しても使いたくないなー、と考えながら、改めて辺りを見渡してみて、ようやく此処がどこかを理解した。
「おぉ、獣舎か」
どうやら鈴音の部隊の獣舎であるらしかった。
素早く状況を見て、一応自分の使役動物がいないことを確認する。
いたら多分、こうなった経緯を始めから最後まで聞き出されて、しまいには言葉攻めで精神的に抹殺される自信がある。先に行かせておいて正解であったようだ。
『いかにも。しかし、それがどうした』
「うん? あー、懐かしいなー、と感慨深くなってみたり?」
『くだらんな』
即答された。顔がひきつるような気がしないでもない。
「……ねぇライル。君さ、天ちゃんに口調似せてるわけ?」
言うまでもなく、天ちゃんとは天堂のことである。
その口調やら雰囲気やら、実はこいつ着ぐるみ被ってんじゃないかというくらいに似ている。
『いや、違うが』
「じゃあなんでそんなに似てんのさー……あ、」
ふらふらと干し草の山に近づいて突っ伏する、がそこではたと気づいて顔をあげる。
「あーあー成程ですねー」
にやにやと笑いだけが口の端からこぼれ落ちていって、そのせいで汚いとか言ってたくせにこの顔を余程見たくないらしい狼の前足の肉球とキスするはめになった。
ただし、それでも懲りないのがこの男である。顔面からそのふにふにした感触を感じながら、沙紗はまだにやにやしていた。
「天ちゃんと鈴やん、仲良しだもんねー。そりゃライル、妬くよなー」
『……何盛大に勘違いしてやがる』
「今の間で分かっちゃうよ?」
ため息を聞き流す。
「でも、そんな隠さなくてもさー。僕みたいにオープンな変態になればいいんだよ、お前も天ちゃんも」
『……そういう性格だからあの猫娘と離されるんだろう』
「んお?」
ようやく肉球をどける。
ずっと彼女のことを考えてたくせして、一瞬誰のことか分からなかった。
「んー?」
『その間延びした受け答えやめろ。お前がますます馬鹿に見えてくる』
「しっつれいだなーこれはデフォルトだよ初期設定さー」
答えながら、猫梨に関しては実はそうじゃないかもしれない、なんて付け加えて、そういえば彼女の話をしていたのだったと思い出した。
「あー、そうだな。猫梨か」
『……他に何があるんだ』
「いや、ないけど?」
『即答するな変態』
「えへへー褒めてくれるんだー」
『何故そうなるっ』
もそもそと体勢を変えながら、少し乾いてきた自分の顔にもう一度触れてみた。何か変なものに指先が当たって、つまんでみたところ藁が手元にあって、後ろにその一本を投げ捨てる。
「まあそれはおいといて。別にそういう理由じゃないんだよなー」
あれ、でもそういうことなのかなー?
疑問符を浮かべながらぶつぶつ呟く様子に、ライルは唸るのを止めた。
いや、実はもう随分前から止めていたのだが、この時に狼の思考は完全に別の方へと傾いた。沙紗が、その性格以外の理由であの少女と離されるのならば、それは一体何なのか。
『……どういう意味だ』
彼は自分の失言に特段慌てなければ、しまった、という顔もしなかった。
「あ、やべ口滑った。んーとそうだなー、じゃあ今のはなしってことで」
ただ、本人はへらへらと笑っているつもりなのかもしれないのだろうが、そこには明らかに苦笑が潜んでいた。
しかしどんな顔をしてても、どんな気持ちでいようと奴の存在がいらついてしまうのは最早決定事項である。ライルはどっかりとその巨躯を手近にあった藁山の上に横たえた。
『しかしだ、沙紗よ』
「およ?」
『……何語だ』
貴様は、娘を探さなくてもいいのか?
その問いかけに眉をひそめる。
「……なに、それはどういう」
気づいていないようだった。
ライルは彼に言い聞かせるように説明する。
『あの場にいるべきでありながら、いない者がいただろう。気づかんのか』
言われて、頭の中で、短く映像が再生された。澪に麗、天堂や木佐原、鈴音――。
そこには、真っ先に思い浮かぶはずの少女の姿は、なかった。
まさか、と閃いたように目を見開く。
「まさかつんでれさんにっごふっ!?」
腹には狼の前肢がめり込んでいた。クリティカルヒットである。
『思考回路を正常にしろ馬鹿者』
「いつだってそーだってばーいたいー」
『……いや、お前は真性の馬鹿だったな。致し方ないか、よく聞け馬鹿者』
「んー?」
『行け。耳を澄ませろ』
誰を、なんて、彼の思考内には一人しかいなくて、それにこの狼が言うからには何かしらあるには違いなくて。沙紗は目を細めて、顔をひきしめた。
「……まさか猫梨に、なにかが、あった?」
ライルは姿勢を変えずに外に通じる天井を見上げた。
風が吹き荒ぶ様子を想像して、何かがわき上がってくるのを感じる。
『安心しろ。獣の勘は当たる』
「いや、駄目でしょ」
『あいつが柔な奴に見えるか?』
「……いや、そうじゃなくて」
にやりと笑った口からは牙が覗いていて、正直とても怖い。
『ならば、お前の心配してるようなことは起きないだろうよ』
探せ。見つけろ。
「そんなに急かしちゃってさー」
それでも、その言葉に立ち上がる。
「うん、大丈夫だよ」
初めから信用してるから。そう言って伸びをする。
「ね、でもその前に顔洗ってもいいよね?」
『…………好きにしろ』
*
『沙紗が戻ってきたようだな』
『……む、エナか』
白色の虎がそこにいた。
普通種の彼女は、ライルよりも二回り程小さいが、やはりその存在は圧倒的で、ライルの隣の藁山に行儀よく座る。
『…………』
彼らは獣舎をほぼ二体で過ごしているが、両方ともそこまで喋らない。
ここに錆色の少女でもいればそんなこともないのかもしれないのだが、ちょくちょくこの場に来ている彼女が今日に限ってはいない。
いや、ここには存在しない、そう言った方が正しいのだろうか。
黒狼は鼻をひくりと動かし、同時に何かを追い探すように、視線をさ迷わせる。
蘇るのはあの場所。そして、
『あの娘の匂いが、あの男からした』
風でほとんどは飛ばされてしまったが、一瞬通りすぎたものは確かに彼女だったように思えた。
それにおいて、己の勘が何かを告げるのだ。
エナが口を挟むことはなく、だからライルはそのまま構わずに、
『栗色の髪の男よ――』
話しかけるような口調ではなく、おぼろげな声は呟きとしてまろび落ちていった。
*
沙紗は通路のど真ん中を、目を瞑りながら歩いていた。はっきり言って不審者以外の何者でもないのだが、だらりとくたびれた枯草色のコートには確かに使役士を象徴する青と白の徽章が煌めいている。通路には、先程の騒動の名残でそこかしこに人がいるのだが、というか彼は現在注目の的となっているのだが。
「誰だ、あれ……」
「知ってる奴いるか?」
「さあ」
外にいた時はマスクにゴーグルという格好なので気づく人がいなかった。
だから沙紗も視線を受け流しながらすたすたと歩く、その先に、
「げふ」
「……相変わらずの反応の遅さだな」
「天ちゃんいたーい」
「言葉をのばすな気持ち悪い」
「ひどいなほんとにもー」
「黙れ」
「ぎゃふ」
天堂は自分で殴っておきながら顔をひきつらせた。目を閉じて歩くなどもっての外である。
「あれ、鈴やんは?」
「…………言うな。今はいない」
まさか自分が不覚をとって意識を沈められたなんて言った暁には恐らくずっとネタにされる。
彼が目覚めた時には、近くに木佐原の顔があって、
「残念。もう終わったよ」
なんて言われ、しかも木佐原自身も出された紅茶に何か盛られているのに気づかず、一瞬の間意識混濁が起こっていたようだった。
「僕にも一応ある程度の毒耐性はあるつもりなんだけど」
「知るか」
結局二人が何処へ行ったのか分からないという。
とりあえず天堂は彼を殴り、それからすぐに二手に分かれ、今はちょうど鈴音捜索をしている最中だったのだった。
「ま、いーけど。俺、人探ししてんだ」
「……で、目を瞑ってたわけか」
「そゆことー」
なにがそういうことなのかは分からないが、何とも気の抜けた会話だと思いながら、はたと気づいた。
こいつも人探しをしているらしい。
「お前が興味を持っている奴なんていたのか」
猫梨は興味というよりは執着じみたものであって、種類が違うようだったのでそうだとも知らずに候補から勝手に外す。もちろんそれでは全く思いつかなくて、首を捻った。
沙紗は能天気な笑みを浮かべながら言う。
「まー、天ちゃんはそれでいーよ。俺も似たとこあるしね」
「誰が似てるだ誰が」
「は? それはさー、」
自分を指差して、その指を向けてきた。
「……おい、俺は指差されるのが嫌いだ」
「うん知ってるよーじゃねー」
「おい、待てっ」
逃げ足だけはやけに早いのも、話を途中でぶったぎるのを気にしないのも奴の特徴である。
天堂は苛立ちをもっとぶつけてやれば良かったと思いながらも、何故か自分と沙紗が似ているということに妙に感心して、それは頭の片隅に残る彼女の言葉を思い出させた。
呟いてみる。
「……今となっては俺が決めることではない、か」
今は昔とは違うということなのかもしれない。
時は常に移ろい、その中で変わらぬものなどはなく。
「……いや、分からんな」
とりあえず今は彼女を探さなければならない。
消えた沙紗が進むのと反対方向に歩を進める。
集まっていた視線は次第に散らばり、そこに溶け込むように天堂はその体をすべりこませた。
これを読んでくださったあなた様に、感謝の言葉を。




