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「痛い痛いいーたーいー」
『主、こやつを噛み殺すことを許せ』
やや離れてはいるが、それでも聞き取れる位の声量であった。その言葉を聞き、鈴音はため息をつく。何故こうも動物を含めて男という生き物は血気盛んなのかが分からない。
「いいわけないでしょ」
簡単に言うと、非常にやりづらい。
まあ、やりづらいどころか今は何も出来ないけれど、周りに観客などいなかったら無理矢理蹴りでもねじ込んでやるくらいはしてやりたい。彼女は暗い笑顔でそう呟いた。正直、見ている方が怖かった。
その言葉が聞こえないのにその雰囲気を的確に察知した一観客の天堂でさえ体を強ばらせてびくりと身を引いた。完全に鈴音の手に渡ったら大変なことになる。全身打撲の重症の状態で搬送されることを考えなければならないかもしれない。天堂は自分も奴の半殺しに参加するなど言わなければよかったなどと、少し後悔した。
鈴音の本領が投擲というのは彼女が使役士になる過程でその武器の専門をとったからであったが、彼女は強かった。いや、今も十分に強い。だから自分の力を敢えて弱め、かつ他の状況においての対応、そして当時の仲間との連携のために武器を手にとった。
即ち、天堂と沙紗である。
彼女は自身の持ち前の器用さをいかした。全ての武器を投擲した時、あるいは跳ね返った時のあらゆる軌道計算を行い、自らそれを調整した。彼女のその特技がなければ、三人はうまくやっていけなかっただろうことを彼は知っている。
しかし、と思う。あいつはどうやってあんなに早く準備できたのか。
甚だ疑問だった。先程まで話していたはずで、しかも普段あんなにとろい。それなのに、どこからその俊敏さが発生したのか。
その視線の先には、沙紗の弟、天堂の同調装置が鈴音と一緒にいた。
話す声が風にのって微かに聞こえてくる。
「ほら、やっぱり兄弟の間ってこう虫の知らせみたいなものがあるじゃないですか」
「……あいつに被害を与えてるのは君自身だけど」
「あれ、言い方間違えました?とりあえず、あのクソ兄貴の気配がしたんで二日くらい前から準備してました」
まだ成熟しきっていない体躯の少年は、にこにこと物騒なことを言いながら手に持っているものを持ち直す。そこには、大火事用に使われる特大ホースが握られていた。
どこぞの倉庫に眠っていた筈なのだが。
「やっぱり火薬には水ですよねぇ」
「……うん、分かったからそれ片付けて」
「あ、そうですね。もう終わりましたもんね」
のほほんとした雰囲気で兄を罵倒しつつ、ホースをいそいそと運び始める姿に鈴音は頭を抑えた。
何故こうも、あの兄弟は色々な意味でぶっとんでいるのかさっぱり分からない。
彼が援軍に来たのはほんの数分前のことだ。川から水をひいてきた、と軽快な足取りでやって来た彼は、問答無用で実の兄をぶっとばした。鈴音の使役動物――ライルがやってくるよりも先にである。一瞬でかたがついてしまったその状態に鈴音はその時だけ唖然としたが、それから直ぐに現実に引き戻された。
沙紗と彼女は、鎖でつながっているのである。よって彼がぶっとばされると同時に鈴音も道連れにされるわけで。彼女は自分の生存本能に従って足を踏ん張ったのだ。
死にたくない。そう思った、と思う。
靴の先が地面にめり込むが、それでも対抗する。負けるわけにはいかない。そうじゃなければ死ぬ。そんなことに気をとられていたおかげで沙紗が大変なことになっているのまでは想定していなかったのであるが。結論から言うと、彼女も、弟のことは言えなかったのかもしれない。
しかしそれ故に、自分の同僚でもある男がそれでもピンピンしているのには心底驚いた。この謎の生物は一体なんだ。水圧は凄まじいものだった。普通なら死んでいる。
そう思いかけたとき、ある答えが頭に浮かんだ。
もしかして馬鹿だからか。馬鹿は死なないというのは果たして本当なのか。
しかしそれをいえば、と呟く。
「ほんとによく生きてたわ、私」
自分の腕こそ称賛されるべきだった。むしろ、よくここまで持ちこたえてくれたとも思える。
しかし、しかしだ。そのかわりに。彼女は首を下に向けた。
奇妙な弛み。微かに唇から息が漏れる。自分の身体の異変。そんなものを感じて、片方だけ不自然にだらりとした腕を持ち上げようとする。どうなるかなんて、予想はついていたけれど。
「――――っ」
声にならない悲鳴が知らず知らずのうちにあがって、それを飲み込むように歯を食いしばる。よもや自分の声がそうなってしまうとは思わなかった。
これじゃあまるで、私が女みたいじゃないか。
そこで、あることに気づいて自嘲する。当たり前ではあっても、直視したくないこと。
食いしばった歯が軋む。ああ、そうだったと今更なことを思った。私は既に女だったのよ。
心の中に溜まり続けた澱を増やすように、その言葉もまた自分の腹の中に収める。
「……大丈夫か」
「――――――っ、う」
また少し腕を動かしてしまい、呻く。聞こえた声は気遣わしげだった。
最も嫌いで、それでいて一番愛していたともいえる、その声。
自分が乗り越えるべきなのに、それにも構わず甘やかすそれには、甘やかすということに関する以外の感情を有してないというのに、つい聞き入ってしまう。
まるで毒のようだと、そう思ったのはいつだったか。甘くて、知らぬうちに心を蝕んでゆくもの。そう考えた途端に何故か息苦しく感じて、彼女は呼吸を整えた。動かさなければ痛みは訪れないけれど、それは固定でもしていない限り無理というものだった。じくじくと繰り返す痛み。それは、時には意識を奪うものらしく、痛みの中にいるというのに彼女は微睡むように目を閉じる。足元すらも確認できない。腕をあげなければせめて普通には帰れたかもしれないけれど、今は無理だった。
自分はそれほどまでに痛みに弱い人間であったろうか。そう考えると、覚悟のないことをすべきではなかったと思えてきて、彼女はひっそりと囁いた。
「大丈夫に見えるの?」
「……まあ、その、なんだ。言葉だけ聞けば全く問題ないが」
知っていた。知ってはいたが。
「馬鹿ね」
「ああ、解ってる」
再び目を開ける。無理矢理頭を上げて見た顔は、やはりその声と同じように一番愛している、それでいて最も嫌いな顔だった。
*
天堂は、肩の力が抜けた鈴音の襟首をつかみ、俵かつぎの要領でその体を持ちあげる。弱々しい抗議の声を思いっきり無視して、すたすたと歩き始めた。その視線の先には、一人の男と一頭の獣。ライルは横目でこちらを見て、目で何かを訴えてきた。因みにその口には、沙紗の頭部が収まっている。
傍目から見ればホラー以外の何者でもない。
が、目配せの意味は言われなくとも分かるような気がして、歩く速度は変えずにそのまま前進した。
「天ちゃんへるぷみー」
くぐもった声を発する本体の脇腹に容赦なく足をめりこませ、苦悶の声を聞き流す。
満足げになったらしい狼がそれを吐き出すと、唾液にまみれたマスク付きの顔がちらりと見えて、しかしそれでも足の力を弛めないままに、天堂は黙って空を見上げていた。
雲を流してゆく風を眺めながら、そういえばと思う。
そういえば、大概の仲裁役である副長官の男、此処へ来る前に出会った時に大きな袋を運んでいたあの男は一体どこへ行く所だったのだろうか。
*
乾澪が飲んだくれの妹の使役動物を獣舎に戻し、その使役士当人を引きずって歩いている時、妙な光景を目にした。あまりにも自然な動きだったので、一瞬見過ごし、しばらく思考を停止させた後に二度見した。
彼女が思うに、彼らには接点も何もない筈であって、それなのにどうしてああも仲良く並んで歩いているのかが疑問だった。自分の情報にはそんな記録は残っていなかったはずだった。そう考えながら訝しげに彼らを物陰から観察する。が、会話もされないその様子を少し眺めてから、気のせいかと思い直した。
最高に人付き合いの良い男のことだ、きっと無視しきれなかったのだろうと推測してみる。
彼女にとっては彼のその行動は苛立ちの種でしかない。のではあるが、いかにもそれらしい理由だったので、それを見つけたことに若干満足した。
襟首を持ち直して、彼女はまた妹を引きずりながら歩き始めた。だから数秒後には、すでにその懸念は消え去ってしまっていた。
「……危ないところ、でしたね」
彼女の耳が届かない所まで来て、彼らはようやっと演技をやめた。
まあ、とはいえただ足並み揃えて歩いていただけだが。
気配にさとい彼女の目を潜り抜けられたのも、普段の接客の賜物である、と彼は勝手にそう思っていたらしい。口元を抑え、小声になるようにしながら彼ら二人のうち一人は、もう一人に話しかけていた。
しかしながら対するもう一人はというと、その顔に微笑を湛えて何も言い返さなかった。その男の会話の少なさはいつも通りであったが、ある意味それが返答だった、とも言えるのかもしれない。
それを読み取り、男はおもむろに自分の僅かに長い長髪をもてあそび始める。
そして、ある地点で何も言わずに別れた。
滅多に部屋から出ないとされているその男が居るべき所へ戻り、廊下に一人残された彼は、ようやく自分に戻る。弄っていた自分の栗色から手を話し、額を抑えて呻く。
「…………疲れた」
後でお茶を淹れることにする。
そこで首を振って、いや紅茶にしよう、と思った。砂糖何杯入れようか。
歩いていると、自然に足は外へと向かう。途中で、自分が頼んだ筈の貼り紙が放りっぱなしになっているのを見つけて、ため息を吐いた。疲労が蓄積していくのを感じる。
…………市谷さん、あなたもですか。
仕事してください。
外へ足を踏み出すと、彼はそこで多くの人間を見た。天堂だけじゃなかった。避ける人波で、ぽっかり空いた通路のようになる先に、ある男を認めた。予想できるような返事になるであろう質問を行う。
「……仕事、終わったんですか?」
「愚問だな」
まだ終わっていない、今ここに仕事がある。
そう言いながら、唸りとも呻きともつかない声をあげるそれの横っ腹にめり込ませた足を更にぐりぐりと押しつけていた。彼は真面目に答えているのだろうが、それがはたしてこっちの伝えたいことを的確に理解しているかどうかは疑問である。
が、気にしないで話を進めることにした。
「で、担いでるのはなんですか」
「見たら分かるだろう、負傷者だ」
「……別に見たら分かるってもんでもないと思うわよ」
荷物になっている彼女が顔をあげてそう言う、かと思えば力が足りなかったらしい。顔をこころもち上げるが、途中でがくりと頭を落とし、結局はその表情を見せない状態で呟いた。
「市谷さん。どうです、怪我の具合は」
少しの沈黙の後、
「…………痛い」
「………………まあ、そうでしょうね」
非常に同意した。
「あの、誰か、たすけてー」
「何も聞こえないな」
「そうね。もし聞こえたとしても空耳だわ」
「……君たち、どれだけ怒っているんです?」
地面にべったりくっついている男の咳き込みながら言う声は、誰の気にもとめられずに、再び狼の口の中に吸い込まれていった。
*
「ところで、お前はどこに行ってたんだ」
すたすたと廊下を歩きながら天堂が木佐原に問いかけると、間延びした声が帰ってきた。
「あー、何て言ったらいかな。野暮用ってやつ」
「……副長官も大変だな」
若干しみじみしたような声で同情されて、木佐原は少しだけ罪悪感を抱きながらも遠い目をした。
長官がいきなり旅に出るとか言い出して、そのために急遽ないはずの『副長官』という役割が出来てしまい、しかもそれを押しつけられたのが彼であった。というかそういう役を押しつけられて、しかも自分中心でものを考える人間しかいないから自分が陰で色々して結局自分でしたことなのにこんな思いをしなければならなくなってしまったわけで。
「どう考えても選考基準おかしいと思うよ」
その選考基準とは。そこそこ強く、事務ができて、なおかつ接客が上手な人間、であったらしい。
「私情を挟みすぎじゃないか」
顔をしかめる天堂に苦笑する。確かにそういう感がなくもなかったからだった。
「断れないからね、僕は。現に天堂からついてこいって言われて断れずについてきてる」
「……悪かったな。何分医務室とやらに世話になったことがないから場所が分からん」
運ばれている彼女をそこへと送っているのだが、その前に一つ心配なことがあった。
「それ以前に、医者が存在しないことが問題、かな」
「確かにそうだが……会話に参加してないが、大丈夫か鈴音」
天堂が話しかけると、ぼそりと見当違いな返事が返ってきた。
「……男って筋肉バカよね」
しかしそれもあながち間違ってはいなくて、そもそも鈴音が怪我をしたのはその筋肉バカな男のうちの一人のせいであって。口を開いて始めに言ったその言葉に二人揃って渋面を作ったのは、言うまでもなかった。
*
使役士は、訓練生の時に一応一通りの怪我の処置の方法を教わっている。
とは言われているが、それを覚えている者が一体どれだけいるのかと問われればおそらくあまりはいないだろう。時折例外もあるのではあるが。
彼はまさしくその例外であった。
「……何故お前がここにいる」
「それに関しては僕も同意します。何故いるんです?」
二重の問いに、そこに既にいた男は口端を歪めて笑ったような表情を作った。
「科学者というものにはえてしてある種の勘が必要になるものでして。よい実験材料の元へ向かってしまうのですよ」
いつの間にか椅子に座らされた鈴音は顔をひきつらせて、その単語を反復する。
「……実験材料、ねぇ」
ふざけたくらいに歪んだ顔が、頷き返した。
「どうです、市谷さん。誰もが持っているように、あなたも何かに貢献したいという欲求はあるでしょう?」
彼女はふうと息を吐いた。確かに間違ってはいないので、答えるのが嫌だった。
同時に、どう頑張っても相容れることはないだろう、という確信めいた気持ちもわき起こるのを感じていた。
「使役士の本質とは何か?
それは、普通の暮らしをする彼らを守るため。
では、使役士自身は誰に守らなければならないのか?
同じ人間だというのに、その明確な差はどこでついてしまったのか」
「随分饒舌なのね。でもせっかくだから聞いてあげる」
「お褒めにあずかり恐悦至極です」
そして、男はこうも言った。
「あなたがどう思っているかも聞きたい、のですが今はあまり時間がないようです」
しかし私ならばすぐにこう結論を出すでしょう。
――即ち、使役士とは人間の限界に挑む者である、と。
鈴音は顔をしかめた。どうしてこの男がこうも嫌われるのか、分かるような気がした。
「で、そのための実験台になれと」
「端的に言えば、その通りです」
どうです、悪い話ではないでしょう。
そう言われてみると、確かに悪くはないので頷いてみると、天堂からの視線が鋭いものとなってきているのに、後で気づいた。
「……やめろ、鈴音」
普通ならそう、やめるべきなのだろう。しかしそれでも、
「今となってはあなたが決めることではないのよ」
天堂は一瞬、その顔に似合わない驚きの表情を浮かべた。
それを数瞬眺めてから、鈴音は口を開く。
「確かにあなたが優しいのはずっと変わってない。でも、それでも、私は甘えてちゃいけない。まして今の状況ならばなおさらのこと」
それが、私が私の意思に基づいて決めたことなの。
そう言っても、それでも彼は、首を横に振った。
「いや。こればかりは認めない」
そう、と口の中で言葉を転がす。
男とはこうも自分勝手で、それなのにそんな彼に惹かれる自分はひどく甘ったるいように思えて。
鈴音は顔をしかめながら、天堂に目をつぶるように要求した。
突然のことなのに、片眉だけ器用に持ち上げながらもそれに従う彼に、嘲笑よりも先にせつなさが込み上げてきて、慌ててそれを表情の下にとどめて、椅子から静かに立ち上がる。
「……ほんと、馬鹿ね」
直後、彼女の膝蹴りが見事にきまっていた。
よもやそんなことをされるとも思わず咄嗟に受け身をとろうとするその前に、自由がきく首筋に手刀が叩き込まれる。また腕に鋭い痛みが走るが、すぐにもとのじくじくした痛みに戻る。
「……なかなかえぐいことしますね」
「あなたにもしてあげましょうか?」
「まあ、僕はこの男よりはあなたに甘くないとは思いますが。……それに、一人くらい証人がいてもいいでしょう?」
友人(ではないかと鈴音は思っている)がすぐそばで転がっているにも関わらず、真面目な顔で返す木佐原に、思わず吹き出した。
「冗談よ。それくらいは私にも分かってる」
そしてようやっと、彼女はその男を真っ正面から見つめた。
もう一度腰かけるが、今のそれは自分が自分の意思に基づいて決めたこと。
動かせない片腕をもう片方で示す。
「私の腕。話は聞いているんでしょう? 襲来までに治しなさい」
何となくだが、たとえ彼がそれに関してを隠されていたとしても、知っているような気がした。
そしてそれは正しかったようで、歪んだ口の中で、赤い舌がちろりとその端を垣間見せる。
少なくとも鈴音からは、そんな風に見えた。
「よろこんで。今すぐにでも?」
「まあ、早い方がいいかしらね……」
少し考えて、そうねと頷く。
今ここで寝かせた奴がいつ起きるとも限らないのだ。
途中で目が覚めても、始めていればおそらく問題はないのだ。
そうして行動を開始した二人のすぐ側で、会話だけを耳に入れながら、木佐原はただ天井の染みを眺めていた。
……これってもう、天堂と鈴音の恋愛話でいいんじゃないの?
と一瞬血迷ったこのごろ。




