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まとめて少し文字数を増やしました。
といっても600字程。雰囲気が多少変わっている感じはします。
鈴音は沙紗の身動きをとれないようにしている。
女が男を押さえつけているのだから、それなりの力を要する仕事だ。
それは、はっきり言ってしまえばそこらへんにいる一般女性には出来ない芸当である。
使役士故、そして同期故に出来る行動である。
それでも彼は正気を取り戻さなかった。
沙紗は、戦闘狂だ。
しかしどういう条件下でそれが起きるのかは皆目分からず、その一種の発作のような状態は突然の様におきて、静まる。彼自身を取り戻すために必要であるのは、彼自身から言わせて確証があるもので、痛み。しかしそれだけでは、深層に潜りこんだそれを引きずり出すことは不可能なのである。
誰も彼を上手くは扱えなかった。鈴音とて同様である。
同じ人間どうし、相手を意のままにしよう、扱おうと試みるほうが無理というものだ。
せめて、暴走した彼を止めたい。暴れてもいい。傷がついてもいい。
周りに被害は与えない。それだけならばやる。やってみせる。
その準備に少々の手間をかける。鈴音は鳴らない笛に空気を送る。
……
――聴こえぬ音が聞こえた。
ただ一人、己だけの使役士が呼んでいた。
――早く、ここまで辿り着けと、言っていた。
『…………』
彼女の使役動物は――ライルは、その音を確かに聞き取った。
疾風のように地を蹴り、駆ける。ある特定の動物にしか分からない、特別な音域を感知する。
人間には聞こえるはずもない高音域にて、それは響いた。
『狼なんだがな』
どうでもいいことを呟いてみる。
犬笛は、未だ鳴り続けていた。
*
しかし、人間である彼女もまた、その音を夢うつつに聞いていた。
体は長い間動けていない。
「んぅ…………」
硬直でもしたような体。拘束具をつけられたわけでもないのに、体は言うことをきいてくれない。まるで何かの型にはまってしまったかのように、見事に動かない。頭がぼんやりして、この身についている筋肉全てが自分の支配下にないことにだるさを覚える。
霞みがかった思考が、動こうともがく。
きっと、罠にかかったのだ。そう思った。
しかし、いつ、どこで?
何が原因で?
自分がそうされる理由とは?
不意にコツ、と音がした。
来訪者によって、意識が覚醒する。
コツ、コツ。
特徴的な音。踵をわざわざ地面に打ち付ける歩き方。
顔を見ずとも、この足音をわたしは知っている。彼は――
「さすがに口はもう動かせるのではないだろうかと思うんですが、どうです?」
「…………余計な、お世話、です、よ」
彼女が無理矢理口をこじ開けて返答すると、申し訳なさそうな空気が漂った。
「やっぱり、強すぎましたかねぇ」
やっぱりなんていうなら初めから聞くな。
「基本君は普通ではないから、常人に効く以上の量を投入したんですよ。
成程、そういうことに関しては、意外と普通なものなんですね」
本当に余計なお世話である。
ただ、未だ顔の筋肉が思うように動かないので、言おうにも言えないのが現状ではあるが。
なにせ、先程の言葉だって、強ばっていてきちんとした発音はできていないのだ。
彼女は思う。一番危険でなさそうな奴こそ敵であると。
だが、彼はなおも喋り続けた。
「若干催眠剤も入ってますが、殆どの成分は筋肉を硬直化させるためのものです。
因みに調合は彼にしてもらいました」
その彼、とは。
彼女がそれを把握する前に、一人がするりと陰から出てきた。
その気配の消しかたは一流。
しかし、その変人ぶりもまた一流。
知っている。
言われなくとも、分かっている。
こいつが関わっていることは、薬を盛られ、それが効き始めたその瞬間から理解していたのだ。彼女自身が恐れてやまない、しかし、同時に殺してやりたいと切に願った、あの男がこの件に一枚かんでいる事など、言われなくとも知っていた。
囚われた彼女は――猫梨は、声を絞り出す。
強張った筋肉が千切れようとも、構わない。
ぶちぶちと、予想通り何かが断裂した音を、咆哮がかき消す。
「き………さ、まぁあっ!」
少女にこれほどの声が出せるのか。
彼女をその状態にした張本人である男も――木佐原も半ば驚く。だが、暗い怨嗟の叫びを向けられている当の本人は、それにすら動じずにっこりと微笑んでいるのだった。
彼を、正確には彼が見せる余裕たっぷりの微笑は猫梨の記憶を半ば強制的に思い出させる。
それは“過去”として存在するものである。
わたしの絶望の淵は、正にそこにあり、始まったのだ。
そして、それは同時に憎しみを生み出した。
今でもはっきりと覚えている。
冷たい水の中で、無力化されたわたしは確かにそこにいて、既に絶望を知っていた。
あれより先にある絶望など、わたしは知らない。見ようとも思わない。
過去のわたしは、こう言った。
わたしの、自由を返せと。その時確かに、そう言った筈だった。
けれど、それが聞き入れられるはずはなかったことも分かっていた筈だった。
わたしの言うことは彼にとっては意味を成さないのだ。彼の見るわたしは対象であり、人ではなかったのだ。常ににこやかに笑いながらわたしを観察しているその目が、漸く逃れたと思ったその双眸が、そこで黙ってわたし自身を再び観察しているなど、考えたくもない。
「ま、まぁ落ち着きましょう。猫梨」
筋繊維がぶつりと切れた不快音を体内に感じつつ、制止の手を振りほどこうとして少女は暴れる。筋肉が切れてしまった以上は、少しの間だけ話せないかもしれない。そんなことを思いながら、怒りと憎しみとで完全に覚醒した脳内で冷静に思考を始めようとしていた。
だから猫梨は先ず、自分の状態を整理しようと思いたってみた。
自分の把握が間違っていないなら、事態は2日程前から遡れば問題はないはず。そうであると信じて、乱雑に片付けられた部屋のような己の記憶を掘り返す。幸い、最近の出来事であるので見つけることはさして難しくはない。
色々なことがあった、と思う。
クルルの背中に潜り込んで竜の殲滅の様子を見に行った。不覚にも泣きそうになって、竜に、使役士たちの永遠の課題に、疑問を持った。てんどーさんに手厳しいことを言われた。それに帰ったら帰ったで、木佐原さんに怒られた。なんとなく暑くて、絶対行っちゃだめな所に遊びに行ったらよりによってカイ爺帰ってくるし、襲来のこと知らされるし。それに、この耳で聞く限りだと、面倒事が起きてるみたいだし。もしかして沙紗帰ってきてるかもだし。……多分どころか絶対帰ってきてる。
そもそも、何でここ最近のわたしってこんなに怒られてるんだろう。猫梨は疑問を浮かべた。が、それを深く考えるより前に、即ち疑問を呈するのと同時に、ある推測が頭をもたげる。
――もしかすると、ここ最近の自分の動向が原因だったのだろうか。
よくよく考えてみなくともそうである。が、猫梨の好奇心は年齢に応じたものであり、決して逆らえるものではない。それでも一応、奴がいなくなったら木佐原さんに聞いてみようと思い、彼女は目の前の邪魔者をありったけの殺意を込めて睨めつけた。
すりぬける殺気を肌に感じながら、木佐原は罪悪感を感じていた。
もしかしたらあの時、引き返せたのかもしれないと思った。
あの時。天堂と話した、少し前の時間。彼が担いでいた荷物の中身は猫梨であった。
自分の行動にはそれなりの責任を感じているし、小さな少女にこんな処遇を、
こんな厳しい状況を押しつけという形で与えることもおかしいと思っている。
が、それこそがこれから起きるであろう運命上の旋律。
“木佐原圭”というこの世界に存在する生き物ができる精一杯のことなのである。
出たばかりの小さな芽を摘んではいけないのだ。
彼はそう思っている。
故に、木佐原は舞川千草――天堂の隊にいる見習いの少年――さえも戦闘に加える気はない。
例え有村がそう言ったとしても、だ。
もしものことがない限り、自分たちは彼らなしで戦わなければならない。
自分としては、この戦いは二人を守り、現実を見せるための機会だとも思っている。
――第十部隊の者たちには第九部隊から連絡して、奴には隠せるだけ隠しておけ。
その言葉を忘れたわけではない。
そもそも、彼ら第九部隊の隊員は、好んで第十部隊の隊長である彼には近づこうとしないのだ。
当然である。彼は誰もを上回る狂科学者。それこそが猫梨が恐れるもの。
有村は、彼を猫梨に近づけようとはしない。
ただ、それが枷になるならば。
――こうする意味もあるのかもしれない。
そう思いながら、彼は今の状況を見守っている。
*
「お久しぶりですね」
男は言った。
その声を聞いて、彼の猫――所有される少女は小動物のように牙をむく。
「……こ……っ…………!」
――人間は知性がある生き物だけれど、それでも神ではないのだから。
自我に抗えない本能というものがあるのではないのでしょうか。
そう言ったのは誰であっただろうか。猫梨の今の状態が正にそれだ。
理屈では説明しきれないような憎悪に身を焦がす、どうしようもない感情に心が支配される。
普段が温厚であるのにある特定の条件を満たした時、彼女は殺しというきわめて非道な行動をしたい衝動にかられる。いつか、誰かがそう話してくれた記憶がある。名前を覚えていないわけではないけれど、思い出したくないから彼女は思い出さない。
確かに、この男を見るということこそが猫梨の“非道な行動”の引き金になることだった。それをわかっているからこの男も自らは姿を現さない。そこには必ず代償がつくからだ。猫梨という人間が人間でなくなってしまうからだ。彼は自分を危険にさらしてまで望みはしない。
猫梨はただただ、嫌だった。その声、顔、同じ空気を吸っていることでさえも。
心の底から沸き上がる憎しみ、そして恐怖。だから彼女は牙をむく。
が、それでもなお、復讐を望む言葉にならない怨嗟の声すら彼にとっては甘美なものでしかない。
「くふ」
妙な、ともいえる笑い声を口から洩らして彼は笑んだ。
それは自分の所有物、彼の小さな成果だった。
もし仮に自分を拒否したとしても、自分のものであるという事実には何ら影響を及ぼさない。
初め、自分の横に居る男が自ら“研究の聖地”へと足を踏み入れてきたのには驚いたが、
彼の目的は、自分を鎖としてこの子供を押さえつけておくことだったのだ。
彼女を見るための犠牲を必要とせずにその姿を拝める日が来るとは!
守るために自分を遠ざけていた輩が今になって鎖になれと言うことのなんと滑稽なことか!
「ふ……ははは」
額に手を当てて、嗤う。期せずして少女が舞い戻ってきたこの嬉しさが、他から見れば醜く歪んでいることは自覚しているが、彼にはそうすることが自分の快感に直結するのだと知っている。
そして、それは死の宣告でもあった。
「おかえり。ずっと待っていたよ、僕のかわいい猫梨」
ぞわ、と少女特有のつるりとした肌が粟立った。怖気立って、狂ったように叫びだしたくなった。
彼女の中の声は囁く。自分に従いなさい。そうすればきっと楽になれる。
冷静な自分は耳元で言う。
確かに、それがこの状態から精神を逃がしてやれる唯一の方法である。
しかし、猫梨は自分の声が聞こえても、もしも聞こえなくてもそうはしなかっただろう。
猫梨の精神世界には、様々なものが眠っている。
それらは本質的には同じなのかもしれないが、記憶であり、想い出であり、苦しみであり、光であった。だから、その中のほんの僅かな温かい想い出を捨て去ることを彼女自身が許さない。自分の苦痛よりも何よりも、守らなくてはいけないものがこの中には在るのだから。
狂気は人を蝕む。しかしそれを上回る何かがあるのならば、克服できるのだろう。
猫梨は目を閉じた。
幸せなことを思い浮かべるのだ。
自分を繋ぐ鎖の冷たさも、床に膝まずいた状態で固く感じるこの触感も、不気味な笑い声も、全て感じなくなるようにしよう。聞こえすぎるこの耳も、扱い次第では自分の思うように出来る筈だ。
――そうそう、集中してね。それを持続させて、自分の全てを支配するのよ。
その時、優しい声が、否、過去が聞こえた。
猫梨はこの言葉を、この声を、次に何を言うかでさえも知っていた。
きっと、記憶を見ているのだ。あの時のわたしも目を閉じていた。
瞼の裏の暗い中で、声が反響したように鳴る。
『ねぇ、目を開けては駄目なの?』
……これは、わたしだ。記憶の彼方にいるわたしが言っている。
独り言ではない。わたしの向かいにいる彼女が、くすくすと声が転がして笑っている。
『あなたには、それが鍵になっているのよ。
それとももっと成長すれば、別の可能性を見いだせるかもね』
数秒の空白をあけて、わたしはまた聞いた。
『ね、ここはどこ?本当にわたしのセイシンはここを望んでいるの?』
その時、猫梨の瞼の裏に起こった出来事は誰にも説明できないだろう。
幼い声がそれを誘発したのか、彼女の目には広々とした大地が突如として広がった。
見たことはある。だがそれは見慣れたグラール草原ではない、別のどこか。
乾いた土塊、干からびた草の葉、そして何故かそこに咲く鮮やかな色彩の花が一輪。
血のように赤いそれは、死人を誘うという。
『一体何が見えて?』
『んー、分からないの。見たことない所』
『あらあら』
やっと、準備が整い始めたのね。
では後はあちらの準備、そしてあなたの心の成長。
それが完全に共鳴するのを待つだけ。
だから、ね。
猫梨、わたしの同胞でありながら、わたしの未来を決める仔。
早く、わたしの自由を。
猫梨は目を開けた。
ぼんやりと、自分のいる場所が見える。
煮えたぎっていたはずの腸は静まり返っている。彼女はこの感じを知っていた。
形態を持つものは常に下にしかない、広々とした大空。
吹き荒ぶ風に目を細めながら見た大地。
まるで鳥瞰しているようだった。
それから、目覚めたばかりのような僅かな倦怠感を確認した。
何の異常もない。目を閉じる以前から既に、体は消耗していたのだ。
どうでもいいことである。
だから最優先事項に意識を向けた。
ぶり返してきた憎しみを力ずくで押さえつけ、唇を噛み締めて考える。
血の味が口の中で滲み、少しばかりの痛みを伴って本能の中にいる猫梨を落ち着かせる。
少女は、ただ思考した。
しなければならないのだ、と思った。
わたしは、本能のままに生きるものでも、予め設定された義務や限界に翻弄されているものでもないのだから。だから、考えなければならないのだ。今の記憶について。
――そうだ、今のは何だったのだろう。
改めて猫梨は戸惑った。
あれは優しい声、懐かしい、過去へ流れ去ったはずの記憶。
けれども、それは封じられたはずの記憶でもある。
猫梨はあの場面を、先程蘇ったあの記憶を、思い出すことを禁じていた。
見てはいけなかった。自分自身の全てがあの中にあるから。
意識をしてしまえば、きっと自分はいなくなってしまうかもしれない。
それなのに、そうであるのに――何故、わたしはこれを思った?
何故、わたしの記憶は、わたしの意志に反した?
わたしはわたしだ。それ以上でもそれ以下でもない、一つきりの生き物だ。
脳の奥に、疼痛を感じる。
何かが、自分の肌の下で蠢いている。
それが何であるのか、本当の意味で知っているのは猫梨の記憶の彼方にいる彼女だけであった。
これを読んでくれたあなたに感謝の言葉を。




