噛み合えない人々
自分を中心軸にすると、客観的判断が難しくなるもの ―― 「考え方の違い」。何を話していても、平行線または脱線を起こす関係性には、いったいどのような差異があるのか。
ずっと話の噛み合わない者同士の会話を眺めていると気付くこと。それは「読書分野の違い」である。自らのイデオロギーを形成する際に読まれた分野が持つ「互換性」が、彼らを噛み合わせたり、食い違わせたり。
永遠に話が噛み合わない者たちは、他とは互換性を持たない、先鋭化した思想に触れて育った可能性が高い。「社会性」とは本来、互換性を持たない他者とも「共通点」を見出すことを磨く作業とも言える(一神教的思考と多神教的包括性の違い)。
最近、どうにも「範囲の狭い人間」が増え続けている気がする。相手にいっさい合わせる気のない個人主義。これが社会というものを崩壊に向かわせている。アメリカ・ファーストにせよ、都民ファーストにせよ、何かに順位を付けると、分断は加速し、互換性を失う。
剛と柔。社会は、急激に剛へと傾いている。そんな時代だからこそ、柔の姿勢が重要である。しかし、人々が硬くなる原因もまた、剛の社会によるストレスであるため、ウロボロス的悪循環を起こしている。
普段、触れることのない分野の思想に触れる。それが学びというものであるが、時代は文学的な学びを軽視する。―― 文学部の廃止案なども含め、すでに臨界点に達している。次にまた文学が大衆性を獲得するのは「次の大戦の後」となるのかもしれない。
今の社会が持つ集団的ヒステリーのガス抜きの手段。戦争以外には何があるのだろうか?




