お疲れ様です。
初めて何も見えなくなったのは、十六歳のときだった。
その夜、寝ようとしていたら、部屋が急に暗くなった。
すぐには何が起きたのかわからなかった。卓上ライトが壊れたのだと思い、スイッチを手探りした。押すと音がした。もう一度押すと、また音がした。目の前は何も変わらなかった。
顔の前に手を上げ、人差し指が鼻の先に触れるところまで近づけた。
手がどこにあるかはわかる。それなのに見えなかった。
その暗闇には奥行きがなかった。額が痛くなるほど力を入れて目を開いても、本当に開いているのか確信が持てない。一瞬、窓のすぐ外に何かが近づいてきて、空全体を覆い隠したのかとさえ思った。
その後、視力はいくらか戻った。
病院へ行った。それからの数年間、薬は何度も変わり、検査結果は分厚い束になった。それでも、はっきり見えるものは少しずつ減っていった。
やがて医師から、いつか完全に視力を失うと告げられた。
いつになるかはわからない、と。
僕はその言葉が嫌いだった。寝る前にはもう一度だけ何かを見ておきたくなり、目が覚めてもすぐには目を開けられなくなった。歯を磨いているとき、鏡の中の自分が昨日よりぼやけていると、浴室の湯気のせいなのか、それともまた少し悪くなったのかと考えた。
そんな日々をどうにかするため、三次元モデリングを学び始めた。
正確には、CAD。コンピューターを使った設計だ。
賢い選択には聞こえないだろう。もうすぐ見えなくなる人間が、物を設計して食べていこうというのだから。でも僕は、寸法や座標、何度でも確かめられる曲面が好きだった。そこに置いた物は、データが変わらない限り、その縁がいつのまにか僕のほうへ近づいてくることもない。
画面読み上げや触覚を使った補助ツールの操作を覚え、目を閉じて作業し、開けて結果を確認した。そのうち、確認する作業もソフトに頼ることが増えていった。出力した試作品を触り、読み上げられる座標を聞き、自分が作った曲面を一つずつ覚えた。
練習がいつも役に立つわけではなかった。
どこかに一人で立っている夢を、相変わらず見た。周囲には音がなく、手を伸ばしても何にも触れられない。目を覚ますと、ベッドの縁を触り、それから壁を触った。手のひらが、覚えのある凹凸に触れるまで。
少なくとも、現実にはまだこういうものがあった。
数年後、郊外の工業デザイン会社に就職し、基礎的な仕事から始めた。最初に任された正式な仕事は、真空成形機用の型の設計だった。依頼主はそれを使って、農作業用の軽トラックに取りつける工具箱を作るつもりだった。
そのモデルから、最終的には何百個もの箱が作られた。
農具を積んで軽トラックを走らせる人に知り合いがいるなら、僕の作った物を見たことがあるかもしれない。
その後も、いろいろな物を作った。図面はほかの人と同じように審査され、試作品には修正が入り、間違えれば叱られた。高橋課長は、僕の目がよく見えないからといって、不合格の部品が出荷されるのを認めたりはしなかった。
そのことには、ずっと感謝している。
仕事はきちんとできたし、自分の作ったモデルのことならよくわかっていた。このまま練習を続ければ、暗闇が本当に来ても、落ち着いて受け止められる。そう思っていた。
ところが、その朝は、携帯電話さえすぐには見つけられなかった。
突然起きた炎症が、回復できない損傷を残した。ベッドのそばを長いこと手探りした。指先は何度も携帯のすぐ横を通り、そのたびに触れた拍子に、かえって遠くへ押しやってしまった。
目を閉じてモデルを作る練習はした。料理も、風呂も、家から近くのコンビニまで歩く練習もした。
こんな状態で119番に電話する練習だけは、していなかった。
救急車が来るころには、ベッドのそばにあった物を、すべて床に落としていた。
入院中、友人や家族が次々に見舞いに来た。わざと明るい話をする人もいれば、一言ごとに言葉を切り、続きを話しても大丈夫か、こちらの反応を待つ人もいた。
母は僕の手を握って泣いた。
「結婚するとき、お嫁さんの姿も見られないのね」
そのとき僕は、退院したらどうやって仕事を再開するか、懸命に考えていた。
母のことは大好きだ。
それでも母はそこに座り、僕が深く考えないようにしていたことを、一つずつ口にした。僕は逆に母を慰めながら、早く静かになってくれないかと思っていた。
退院前、もう一人、訪ねてきた人がいた。
その人は名前と所属部署を名乗り、僕の手に名刺を置いた。最初は保険の話をしに来たのだと思った。僕のモデリングの仕事について話し始めるまでは。
大手企業の研究開発部門から来た人だった。
「試用に適した方を探しているんです。あなたのような仕事の経験をお持ちの方は、なかなかいません」
「見えなくなってからも、モデルを作れる人ですか?」
「空間の構造を理解していて、しかも、見えるということを覚えている方です」
彼が持ってきた装置は、「視覚解釈モジュール」、略してIVMといった。
触った感じは、少し幅の広いヘッドバンドに似ていた。両側に小型カメラが一つずつあり、内側には柔らかなパッドがついている。指で一周なぞってから、つけると変に見えないかと聞いた。
帽子をかぶれば隠せる、と彼は言った。
「装置が周囲の情報を集め、物体を認識して、あなたが理解できる視覚情報として再構成します。信号は、こめかみの近くに埋め込む受信器を通して伝わります」
「じゃあ、また見えるようになるんですか?」
彼は少し間を置いた。
「視覚を取り戻せます」
そのときの僕には、その二つの言い方に違いはなかった。
彼はさらに、モデルや調整、装置に慣れるまでの過程を説明した。大部分は理解できたし、自分のいちばん得意なことが、この装置を使う助けになるのもわかった。
最悪の場合でも、埋め込んだ物は取り出せる。
向こうにはデータが必要で、僕には機会が必要だった。
数日後、手術を受けた。
初めて装置を起動したとき、僕はテーブルの前に座り、ルービックキューブを握っていた。スタッフからは、ゆっくり回して、これから現れるものをすぐに理解しようとしないでください、と言われた。
そして、暗闇の中に色が生まれた。
淡く、平面的で、影はなかった。
四角いブロックがいくつか重なり、遠くには円柱が立っていた。最初は、どれにも意味がなかった。誰かが基本的なモデルを、同じファイルに適当に放り込んだようだった。テーブルと壁と自分の体を見分けようとしたが、焦るほど、それらが互いにめり込んでいるように感じられた。
数秒後、画面の中の配置が変わった。
テーブルの縁が適切な位置まで下がり、壁が広がり、床に模様が現れた。
自分の手が見えた。
五本の指にはまだ角があり、関節はいくつかの小さなブロックを、少し不器用につなげたようだった。親指を手のひらに折り込むと、目の前の手も一瞬遅れて動いた。
もう一度、手を開いた。
スタッフが感想を聞いていたが、答えなかった。
指を一本ずつ数えた。
そのあと、手の甲に冷たいものが落ちた。もう片方の手で拭って、初めて自分が泣いていることに気づいた。
IVMが少しずつ僕に適応するまで、何週間かかかった。
薄暗い場所では、あまりうまく働かなかった。急に振り向くと、壁が一瞬、僕について動いた。視界から消えたはずの物が、少しだけ残ることもあった。見慣れた物の処理は、ずっと速かった。装置は以前作ったモデルを呼び出し、そのときの情報に合わせて調整していた。
僕もすぐに、装置に合わせた動き方を覚えた。
道路を渡る前に、少し待つ。知らない部屋に入ったら、まず足を止める。差し出された手が見えても、急いで握らず、相手の言葉を聞いてから動く。
会社に戻った日、僕は自分の手でドアを押し開けた。
高橋課長が迎えに来た。IVMは少し時間をかけて課長の顔のモデルを作り、ひどく困った顔を与えた。
仕事がそんなに溜まっているのかと聞いてみた。
「笑ってるんだよ」
そう言われてから、画面の中の口元が急に持ち上がった。
僕は笑いが止まらなかった。
それから三か月ほどは、おおむね順調だった。
ほとんどのエラーには原因があった。明るさが足りない、光が反射している、何かに隠れている、接続の調子が悪い。ヘッドバンドの横のボタンを押して、強制的に再構成すれば、たいていは直った。それでも駄目なら、パソコンにつないで診断を実行した。
ソフトは、普段使っているCADよりずっと簡単だった。僕は小さな虫のモデルまで作ってやった。
IVMはアリを、小さな塊として表示しがちだった。僕としては、動くものとパンくずを混同するのは、どうしても嫌だった。
新しいモデルを取り込むと、かなり改善された。
そのうち、気にしなくなったエラーもあった。
たとえば、すぐに細部まで再現できない人は、まず基本モデルで現れた。いくつかのブロックで体を作り、球を一つ頭にして、見分けやすい色をつける。
高橋課長はワインレッドだった。
総務の森川里奈さんは、ごく薄い黄色だった。
やがて、装置が彼女の顔を表示するより先に、僕には彼女だとわかるようになった。森川さんは笑う前に、短く息を吸う。すぐには口に出せないことを、思いついたみたいに。僕がその音を聞いても、画面の中の彼女は、まだ一つ前の表情をしていることがあった。
会社は工業団地の奥にあり、駅から遠かった。僕はまだ運転を再開できず、森川さんが毎日、送り迎えしてくれた。僕の住むマンションは、ちょうど彼女の通り道にあった。
初めのうちは、車に乗るたびに礼を言っていた。
すると、ある日、彼女が言った。
「もう一回お礼を言ったら、今日は有料ね」
それからは、朝ご飯に何を食べたか聞くことにした。
彼女の車の後部座席には、よく参考書が積んであった。働きながら大学を受け直す準備をしていて、獣医学を学びたいのだという。渋滞にはまると、僕に問題を出すのを手伝わせた。答えを間違えると、交差点の信号の音がうるさいせいにした。
僕は、あの渋滞した朝が好きだった。
そのころには、IVMは生活の一部になっていた。
普通にまばたきをしても、画面は消えない。目を閉じても、信号は伝わってくる。システムにはまばたきを再現する設定があったが、一度試して、それきり使わなかった。
装置を外すのは、眠る前だけだった。
日中は、何一つ見逃したくなかった。
あの日は仕事を終えると、森川さんより先に駐車場へ向かった。
彼女にはまだ何本か電話をかける用事があり、車のそばで待っていてほしいと言われた。日はまだ落ちておらず、車の屋根が光を反射していた。IVMがアスファルトの細部を描き出したところで、高橋課長が助手席側に立っているのが見えた。
少なくとも、そのときは課長だと思った。
ワインレッドのブロックがいくつかと、球形の頭。体は車の窓に少し傾き、中をのぞいているようだった。
僕は手を上げた。
「お疲れさまです。」
それは少し動いた。
僕は、球が課長の顔になるのを待った。
駐車場の端のフェンスがはっきりした。車のドアには、今まで気づかなかった小さな傷まで現れた。目の前の人だけが、最初の形のままだった。
再構成ボタンを押した。
画面が消え、またついた。
同じ車。同じ傷。地面のひび割れの位置も変わっていない。
赤いモデルは、まだそこにあった。
一歩近づいてから、それが記憶の中の課長より大きいことに気づいた。色も違う。明るすぎる。切ったばかりの赤唐辛子のようだった。
「お疲れさまです。」
もう一度、声をかけた。
「課長?」
携帯が鳴った。
僕はそれを見たまま、電話に出た。
「ごめん、もう少しかかりそう。高橋課長が、まだ整理してない報告書を持ってきたから、先に登録しなきゃ」
森川さんだった。
「課長が持っていったの?」
「うん」
「今?」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「さっき。どうかした?」
赤い球が、わずかに傾いた。
顔がないので、どちらを向いているのかわからなかった。
「課長は今——」
それが動いた。
車から倉庫まで、十数メートルほどの空き地があった。モデルがそこを滑っていくあいだ、体は上下せず、それぞれのブロックも、ほぼ同じ位置関係を保っていた。
靴底が地面を擦る音は聞こえなかった。
それは倉庫の向こうへ消え、画面には、日の当たる空き地だけが残った。
「もしもし? 聞こえてる?」
森川さんに呼ばれた。
「聞こえてる」
僕は反対の手を上げたまま、相手に少し待ってもらう姿勢でいることに気づいた。
帰宅すると、隣の小野寺さんが外廊下に立っていた。
僕が住んでいたのは、三階建てのマンションの一階、廊下の奥の部屋だった。古い建物で、自動ドアはなく、外廊下はそのまま階段と手前の駐車場につながっていた。
小野寺さんは少し前に離婚したばかりだった。子供が六人いるが、誰も会いに来なかった。玄関先で話すのが好きで、どこの家がごみを分別していないとか、誰の自転車が場所を取っているとか、何にでも意見があった。
その日は、宗教の勧誘に来る連中の文句を言っていた。
「あいつらと話すんじゃないよ。鍵はかけておきな。松本さんは、猫を連れていかれたんじゃないかって疑ってる」
「猫ですか?」
「最近、何匹もいなくなったんだとさ。毎日外で呼んでてね。うるさくて眠れやしない」
もし連れていかれても仕方のない猫がいるなら、あそこの猫だろう、と付け加えた。
僕は返事ができなかった。
駐車場の地面はあんなにはっきり見えていた。タイヤのそばの、小さな枯れ葉にまで模様があった。どうして、あれだけが駄目だったのか。
部屋に入ると、すぐにIVMをパソコンにつないだ。
診断では、ハードウェアの異常は見つからなかった。
履歴には、そのまま見られる動画はなかった。それぞれの時点で認識した物体と、ソフトが呼び出そうとしたモデルが記録されているだけだった。森川さんから電話が来る直前の記録を探し、信頼度の低い順に並べた。
結果は目立っていた。
分類:人型の物体。
解析失敗、六回。
一致する過去のモデルも、利用できる特徴の記録もなかった。異なる形状のモデルをいくつか呼び出そうとしたが、すべて断念し、最後に、僕が見たあの赤いブロックだけを残していた。
信頼度、二十二パーセント。
僕はパソコンの前に座ったまま、読み上げソフトがもう一度それを読むのを聞いた。
二十二パーセント。
僕はそれに笑いかけた。声をかけた。聞こえなかったのだと思って、一歩近づきさえした。
ソフトが診断結果として勧めてきたのは、十分な明るさのある場所で、もう一度情報を取得することだった。
あの日、それが立っていた場所には、ずっと日が当たっていた。
それから数日、下へ降りる前には、必ず事務所の窓越しに駐車場を見るようになった。
遠くに、まだ表示の完成していない人が一人、二人と現れることがあった。僕は手を止め、服や髪や顔ができあがるのを待ってから、仕事に戻った。
高橋課長を観察するようにもなった。
基本モデルは確かに似ていたが、あれほど肩幅は広くなく、頭の位置も低かった。歩くときは、片足が地面につくたびに、体も少し傾いた。
ごく普通の動作だった。
人が歩くところを、それまであんなに注意して見たことはなかった。
研究開発部門にログを送ったが、返ってきたのは、やはり情報を取り直すようにという助言だった。同じ異常は再発しておらず、数件の失敗記録から、それ以上のことを再現できる人はいなかった。
そのうち、受付で森川さんを待つようになった。
もう一度あのモデルを見たら、彼女にも見てもらえばいい。そう自分に言い聞かせた。
けれど森川さんは、まだ書類の作業が残っているのをよく忘れ、片づけをしながら僕と話した。話しているうちに思い出し、またパソコンを開かなければならなくなった。
一度、彼女に聞かれた。
「最近、何かあった?」
「別に」
「じゃあ、なんでずっと窓の外を見てるの?」
ちょうど、一人の配達員の黄色いモデルが、制服姿の男性に変わったところだった。
「表示されるのを待ってるんだ」
彼女も僕の視線を追って外を見たが、それ以上は聞かなかった。ただ、手元にあったビスケットを一袋、こちらへ押しやった。
赤いモデルは、それきり現れなかった。
少しずつ、あの日は本当に何か珍しい不具合が起きただけなのかもしれない、と考えるようになった。
家の玄関のドアがノックされるまでは。
その日の夕方、キッチンでトマトを下ごしらえしていて、両手は汁だらけだった。ノックは大きくなかった。手を洗い終えたときには、もうやんでいた。
顔を横に向け、カメラをドアスコープに近づけた。
視界に、ゆがんだ灰色の部分が現れた。IVMはわずかな光を処理しようとし、外廊下の短い一部分を映し出した。
誰もいない。
ドアは開けず、玄関の横の小窓へ行った。カーテンを開け、窓を少しだけ開けた。防犯用の格子越しに斜めに見ると、自分の部屋の前が見えた。
画面ができあがるのを待った。
廊下は空だった。
赤いブロックも、一つもなかった。
僕はほっとし、すぐに自分がおかしくなった。ある色が見えなかったというだけで、安心している。
ドアの外には、薄い冊子が置かれていた。
玄関のドアを少し開け、まず廊下の両端を見てから、下を向いた。
表紙の文字が少しずつ浮かび上がった。どこかの宗教団体の布教用の冊子だった。暗い赤色の手形がついていて、指の跡が少しだけ引きずられていた。
その横に、切れたひもが一本あった。
冊子には触れず、靴の先でひもを少し動かしてみた。厚手のナイロン生地で、一方の端には縫い目があり、もう一方は不ぞろいにちぎれていた。リュックから引きちぎられた肩ひものようだった。
「誰かいませんか」
声が外廊下に伝わっていった。
「落とし物ですよ」
返事はなかった。
しばらく耳を澄ましたが、階段を下りる足音は聞こえなかった。
その夜、IVMを外しても、なかなか寝つけなかった。
シーツがふくらはぎに擦れ、枕の縫い目が耳に当たった。冷蔵庫が動き出すと、聞き慣れた低い音がいつもより大きく聞こえた。寝返りを打ち、枕を替え、また向きを戻した。結局、ベッドを降りた。
一度トイレへ行き、そのあとキッチンへ水を飲みに行った。
家の中の距離は覚えていた。ベッドからドアまで何歩、曲がってさらに何歩行けば、左手が調理台に届く。
コップを台に戻したとき、窓の外でかすかな音がした。
小さく、ガラスの向こうにこもった音だった。
初めは風だと思った。建物の横には植え込みがあり、ときどき枝葉が窓を擦ることがあった。
けれど、その音には間隔があった。
しばらく続き、やんで、またしばらく続く。
僕は立ったまま動かなかった。
もう一度、音がした。
コップをきちんと置いて、ゆっくり近づいた。指先がカーテンに触れ、身をかがめて耳を澄ました。
音は目の前にあった。
息を止めた。それでも音は、自分のリズムで続いていた。
そして、ガラスの向こうから言葉が聞こえた。
「お疲れさまです。」
最後の音が長すぎた。前の音に曖昧につながったまま、いつまでも終わらなかった。
後ずさりすると、かかとが戸棚にぶつかった。
よろけながら寝室へ駆け戻り、IVMをつけたころには、キッチンは静かになっていた。
粗いブロックの集まりが、少しずつ部屋の形になっていく。全部ができあがるのを待てず、壁を伝って窓へ戻った。
外には誰もいなかった。
ガラスに、跡が一つ残っていた。
灰白色に描かれたその跡は、窓の外側についていた。長さの違う線が、中央から何本か伸びている。IVMはそれを汚れと認識した。
頭を動かし、いくつか角度を変えてみた。
跡は変わらなかった。
警察に通報した。
巡回に来た警察官は建物の横を一周し、ガラスの跡を撮影して、相手を見たかと聞いた。僕は、声を聞いただけで、姿は見ていないと答えた。
戸締まりをしっかりして、何かあったらまた連絡するようにと言われた。
僕が話せるのも、それだけだった。
翌日、同じ建物の何軒かを訪ねて聞いてみた。
あの言葉を聞いた人はいなかった。布教用の冊子を配っていた人を見たという人はいた。かばんを背負っていたが、詳しい見た目はもう覚えていないという。
小野寺さんは、やはり猫だと言った。
「松本さんとこの猫が、あちこちでドアを開けてもらおうとしてるんだよ。あの人に、もううんざりしてるんじゃないかね」
僕は、小野寺さんのドアの脇を見た。
以前はよく、ぶち猫がそこに座っていた。ドアを開けると、小野寺さんは足で軽く追い払っていた。その数日は、そこがずっと空いていた。
それからしばらく、何も起きなかった。
いつもどおり出勤し、図面を直し、森川さんの車で帰った。寝る前には鍵を何度か余計に確かめ、キッチンの窓をしっかり閉めた。装置がたまにエラーを起こせば再構成し、必要なら診断を実行した。
窓の外の声は、もう聞こえなかった。
ハロウィンが近づき、会社で小さな仮装の集まりをすることになった。森川さんに何を着るのか聞かれ、まだ決めていないと答えた。結局、ネットであまり高くない緋村剣心の衣装を買った。
剣心が彼女のいちばん好きなキャラクターだということは、本当に忘れていた。
少なくとも、買うときに意識して考えたわけではない。
当日、森川さんは僕を見ると、まず笑い、それから近づいて、内側に折れ込んでいた袖口を直した。
「わざとでしょ?」
「何が?」
「何でもない」
それ以上は聞かなかった。
その夜、IVMはひどく忙しそうだった。
ある人のかつらは体の一部と認識され、別の人の仮面はいつまでも表示されなかった。外に出ている手ははっきりしているのに、顔は目鼻のない球のままだった。
カスタマーサービス部門の同僚が一人、怪盗キッドに仮装していた。IVMはキャラクターを認識すると、その人を丸ごと置き換えてしまった。白いシルクハットの縁は整いすぎていて、マントにはしわ一つなかった。
森川さんにそのことを話すと、彼女はお茶をこぼしそうになるほど笑った。
「じゃあ、今、私はどんなふうに見える?」
僕は真面目に、彼女の顔がもう一度再構成されるのを待った。
「いつもと同じ」
「それだけ?」
「いい感じだよ」
彼女はカップを置き、また笑った。
その日は長いこと映画の話をした。彼女は俳優の名前も、僕が気に留めたこともない脇役も覚えていた。好きな場面の話になると、僕の装置を待つのを忘れた。手はもう目の前で動いているのに、僕には一秒前の動作が見えていた。
駐車場のことは、もう思い出さなかった。
家まで送ってもらってからも、しばらく話した。そのうち言葉が少なくなり、彼女の座る位置が近づいていった。
いつまで「森川さん」と呼ぶのか聞かれて、ずっと彼女の手を離していなかったことに気づいた。
午前二時過ぎ、IVMはベッドサイドのテーブルに置いてあった。
里奈は隣に横になり、僕の腰に腕を回していた。部屋は少し暑かった。ベランダへ出る掃き出し窓を少し開けていて、風がカーテンを揺らしていた。
長いこと黙っていた彼女が、ふいに聞いた。
「どうして、どうしてもそれを使いたいの?」
「ヘッドバンド?」
「うん。ずっと、見えなくなる準備をしてきたんでしょ?」
簡単な答えを返そうとした。便利だから。仕事ができるから。彼女を見たいから。
でも、そんなことは彼女も知っていた。
「思いつくことは全部、練習してきたんだ。慣れすぎて、本当にそうなっても、こんなものだろうって思うこともあった」
彼女は黙っていた。
僕の腰に置かれた手を探し、軽く握った。
「でも、やっぱり怖い」
「何が?」
すぐにはうまく言えなかった。
カーテンが窓枠に擦れて、かすかな音を立てた。どこにあるかも、窓がどれくらい開いているかもわかっていた。
そういう慣れたものがあるおかげで、僕は横になっていられた。
「急に変わるのが怖いんだ」
最後に、そう答えた。
里奈は手のひらを返し、僕の指に自分の指を絡めた。
「じゃあ、今は?」
「今は、悪くない」
彼女が少し笑った。見えなかったけれど、音でわかった。
しばらくして、水を飲むかと聞いた。
IVMをつけ、ベッドを降りるとき、毛布を彼女のほうへ少し引き寄せた。画面の中では、寝室の家具に順番に細部がついていた。彼女の顔より先に、ベッドの縁がはっきりした。
キッチンへ行った。天井の照明はつけなかった。
この部屋は、もう何度も装置に記録されていた。少しでも光があれば、戸棚も壁のタイルも調理台も、すぐにそれぞれの場所に戻ってくる。まず自分で水を一杯飲み、それから里奈のためにコップをもう一つ出した。
氷を入れようと思って、冷凍室を開けた。
中には、灰色のブロックがいくつか重なっているだけだった。手を伸ばして探っても氷の容器に触れなかったので、下の冷蔵室も開け、明かりを借りた。
背後で足音がした。
とても軽い。足の裏が、ちゃんと床についていないようだった。
里奈も起きてきたのだと思い、振り向いて片手を伸ばした。
画面の中では、流しの上のタイルがはっきりしていた。包丁立てに何本か包丁があり、そのうち一本の柄にある古い傷まで見えた。
目の前に立つものには、顔がなかった。
赤。
単純な四角い塊がいくつかと、その上に球が一つ。
伸ばした手が宙で止まった。
駐車場にいたときより大きかった。頭は、キッチンの吊り戸棚の上端に届きそうだった。胸のブロックがゆっくり広がり、また縮んだ。その動きに合わせて、湿ったにおいが顔の前まで流れてきた。
僕は後ろへ身を引き、腰を調理台にぶつけた。
赤いモデルが、すぐに手前へ跳んだ。
本当に動いたのか、装置が距離を修正しただけなのか、わからなかった。
「お疲れさまです。」
低い声だった。
冷蔵庫のコンプレッサーが動いていた。寝室から里奈が僕を呼んだ。ベッドのフレームが小さく鳴った。
彼女はまだ、あそこにいる。
僕は体を横にし、包丁立てへ手を伸ばした。指先がまず冷たい包丁の背に触れ、それをたどって柄に届いた。
握ると、少しだけ息ができた。
けれど、どこへ振ればいいのかわからなかった。
球形の頭は左にある。声は真正面から聞こえる気がした。見つめていると、目の前の体が急に縮み、次の瞬間には視界の半分を占めるほど大きくなった。
もう片方の手を上げ、再構成ボタンを押そうとした。
それが少し近づいた。
少なくとも、においは強くなった。
手はこめかみのそばで止まった。押せば、画面が消える。ほんの一瞬かもしれないが、それを前にして、その一瞬を待つ勇気がなかった。
冷蔵庫のドアが、僕の脇をゆっくり通った。
何かが肩越しに手を伸ばし、ドアを押し戻した。
中の明かりが消え、小さな音を立てて、パッキンが閉じた。
その動きで起きた風を感じた。
IVMの中では、タイルは相変わらず整然と壁に並び、調理台も見慣れた幅のままだった。赤い形だけがばらけ、いくつかの塊が一瞬戸棚に重なってから、急に戻ってきた。
「お疲れさまです。」
少しずつ左へ動いた。
靴底が床を擦り、その音が大きすぎて、動けなくなった。それも止まり、画面の別の場所に立っていた。
左手を後ろへ伸ばして台の縁を探り、それに沿って体の向きを変えた。回り込めば、ドアに届く。
「お疲れさまです。」
「うん」
自分の声は、とても小さかった。
「どうやって入ったの?」
球形の頭は変わらなかった。
キッチンの窓を見た。画面の中ではガラスは閉まり、鍵は下を向いていた。寝る前に触って確かめたのを覚えていた。
「お疲れさまです。」
僕はつばをのみ、台に沿って動き続けた。
「お疲れさまです。」
自分の口から出たその言葉は、それとほとんど同じくらい、はっきりしなかった。
ようやくドアの枠に触れた。
背後は廊下だった。外へ出て、ドアをつかみ、力いっぱい引いて閉めた。
すぐに内側から悲鳴が上がった。
あまりに近かった。手のひらはまだドアに触れていて、腕全体が震えた。視界に何本か光る線が走り、壁と床の縁が長く引き伸ばされた。
ドアから手を離し、玄関へ一歩踏み出した。
里奈がまた、寝室から僕を呼んだ。
振り向いて駆け戻った。
彼女はもうベッドを降り、毛布を巻いていた。僕の手の包丁を見ると、声が急に変わった。
「どうしたの?」
「ベランダから出よう」
包丁を放り出し、掃き出し窓を開けた。外は一階の植え込みだ。手すりを越えれば逃げられる。
里奈は窓際へ来て、毛布を体に巻き直した。僕が彼女を支え、先に外へ出そうとしたとき、背後で突然、大きな音が弾けた。
キッチンのドアが、廊下の反対側の壁にぶつかった。
僕は反射的に手に力を入れ、里奈を引き戻した。毛布の端に彼女の足が引っかかり、二人でベッドのそばへ倒れた。
廊下で、何かを引きずる音がした。
もう寝室の入り口まで来ていた。
僕は里奈の腕をつかみ、一緒にベッドの下へ潜り込んだ。
床板が低く、肩が擦れた。里奈は片手で僕の頭をかばい、もう片方の手で口を覆った。
「鼻で。ゆっくり」
すぐそばで、彼女が言った。
言われたとおりにしようとして、甘いかびのにおいを吸い込んだ。
長く放っておいて、湿気で固まった砂糖の袋を開け、鼻先に突きつけられたようだった。
あれが入ってきた。
僕は横向きに寝て、カメラをベッドの縁へ向けていた。IVMに見えるのは、床のごく一部と入り口だけだった。シーツが垂れると、そのわずかな場所まで隠れた。
赤いブロックが視界へ滑り込んだ。
大きく、地面に張りついていた。それが体のどの部分なのかわからなかった。モデルの縁が絶えず変わり、床と重なっては離れるのが見えるだけだった。
それは部屋を一回りした。
足が何本あるのか、音ではわからなかった。引きずる音は小さく、ときどき長く止まった。そうなると、あのにおいだけを頼りに、まだそこにいるのだと考えるしかなかった。
里奈が、僕の口を覆っていた手を少しずらした。
「何が見えるの?」
口を開いた。
「わからない」
カーテンが鳴った。
それがベランダへ向かい、掃き出し窓がゆっくり閉められた。レールの最後の少しが滑りにくく、聞き慣れた擦れる音がした。
窓が閉まった。
寝室が静かになった。
僕はベッドの外側の床を見つめ、それが身をかがめるのを待った。
いつまでも、かがんでこなかった。
一度、甘ったるいかびのにおいが急に強くなり、吐きそうになった。赤いモデルが、ベッドの下の隙間をいっぱいに埋めた。僕は固まったまま、里奈の手のひらに指を食い込ませた。
そのあと、画面の赤が小さくなり、ドアのそばまで下がった。
床には何もないままだった。
「お疲れさまです。」
声はベッドの足元から聞こえた。
歯を食いしばり、返事はしなかった。
それはベッドのそばをゆっくり引きずるように進み、ときどき止まって、短く息を漏らした。高さを変えながら同じ言葉を繰り返し、普通の人が通りすがりに何気なく口にする挨拶に、よく似ていることがあった。
似ていればいるほど、息をするのが怖くなった。
僕の携帯は居間で充電していた。里奈の携帯は、玄関のかばんの中だった。
どちらかを取りに行くにも、ベッドの下を出て、そのそばを通らなければならなかった。
手を伸ばして彼女の手首に触れ、そこからたどって手を探した。里奈は僕の手を握り、親指で僕の指の関節を軽く押した。
長い時間が過ぎてから、外で別の音がした。
玄関のほうだった。
最初は、一度だけ、小さく擦る音。
続いて、何か硬いものがドアに触れ、高いところから、ゆっくり下まで引っかいていった。
少し止まり、また上から始まった。
部屋の中のものが、すぐに動きを止めた。
大きく息を吐くのが聞こえた。
外の音は続いた。引っかく音の合間に、低く湿った音が混じっていた。何かがドアの隙間に口を寄せ、息を吐いているようだった。
赤いモデルが寝室の入り口を横切り、急に高くなった。
僕に見える狭い範囲にいたのは一瞬で、すぐに視界から消えた。玄関へ向かう音がした。
続いて、短いうなり声。
ドアが鳴った。
外の引っかく音が止んだ。
僕は待った。
また、うなり声。その直後、ドアを細かく叩く音がした。上から下へ、速すぎて順番も聞き取れなかった。
里奈が体をぴったりと寄せた。
こめかみのそばで、バッテリー残量の警告が小さく振動した。
もう一度、寝室のドアを見ようとして、細部が消え始めていることに気づいた。床の模様が薄れ、ベッドの脚が灰色の円柱に戻り、ドアの枠には薄い線が二本残るだけになった。
「もうすぐ電池が切れる」
里奈のすぐそばで言った。
彼女はすぐには答えなかった。
玄関のほうで、また何かがぶつかった。
「見えなくなる」
「私も見えない」
彼女が僕を少し引き寄せた。
「動かないで。ここにいるから」
画面が消えた。
目を閉じ、また開いた。
何も変わらなかった。
床板が肩に触れ、里奈の膝が脚に当たっていた。それ以外のものは、もうどこにあるか確かめられなかった。
僕たちは、ドアの内と外の音を聞いていた。
片方は僕の言葉で吠え、もう片方は硬いもので何度もドアを引っかいた。ときどき二つの音が同時にやみ、里奈の抑えた呼吸しか聞こえなくなった。
そういう時間が、いちばんつらかった。
まだドアを挟んでいるのかも、次の音がどこから聞こえるのかも、わからなかった。
僕はずっと里奈の手を握り締めていた。やがて彼女は、自分の指を一本ずつ僕の指のあいだに入れ、あまり痛くない握り方に変えた。
そのまま、二人でじっとしていた。
どれくらい経ったのか、里奈が僕の顔にそっと触れた。
「起きてる?」
僕は指を動かした。
「明るくなったよ」
動かなかった。
彼女はもう少し待ってから言った。
「ベッドの脚が見える」
それから、鳥の声が聞こえた。
遠くで車のエンジンがかかった。上の階を誰かが歩き、水道管に水の流れる音がした。
寝室には気配がなかった。
里奈が先に、ベッドの下から出た。僕は、離さなければならなくなるまで、彼女の手を握っていた。
彼女は立ち上がり、少し待った。
「もういない」
僕も手探りで這い出した。膝も腕も痛かった。里奈は僕の手に服を渡し、それからドアのほうへ歩いていった。
玄関のドアが開いていた。
開く音も、何かが出ていく音も聞いていなかった。
IVMに充電ケーブルをつないだが、起動するのは待たなかった。里奈に手を引かれ、キッチンのドアの一部をまたいで外へ出た。
外廊下には、もう人がいた。
小野寺さんが大声で電話していた。管理会社と揉めているようだった。
里奈が急に足を止めた。
僕も止まった。
彼女の手に少し力が入った。
「どうしたの?」
「壁に……それから、あなたの部屋のドアにも」
「何が?」
「引っかいた跡が、いっぱいある」
反対の手を伸ばすと、すぐに止められた。
「触らないで」
彼女は僕の手を体の脇へ戻し、小さな声で言った。
「タイルまで削れてる」
管理会社の人が来て、そのあと警察も来た。外廊下を絶えず人が行き来した。昨夜何時に音を聞いたかと尋ねる人もいれば、下の階で物を運んでいるのかと思った、と言う人もいた。
僕はそこに立ち、一晩中理解できなかった音が、目の前の痕跡と少しずつ結びつけられていくのを聞いていた。
その後、外壁にも引っかいた跡が見つかった。
建物の側面に沿って、ずっと上まで。
管理会社の人が、屋上へ通じるドアを開けた。
上がった人たちは、なかなか下りてこなかった。
里奈が一度、何があったのかと尋ねた。すぐには誰も答えなかった。しばらくして、一人が階段を下りてきた。声を落とし、まず下にいる人たちを離れた場所へ移すようにと言った。
屋上には、巣があった。
あとから里奈に聞いた話だ。
枝や雑草、根ごと引き抜かれた花の茎が、引き裂かれた青いビニールシートと絡まり、設備の土台の裏に積まれていた。下の草は黒くなっていたが、上には折ったばかりの枝もあった。
中に、骨があった。
猫のものとわかる骨もあった。
折れた骨が一本あり、見に来た人は、人の大腿骨に似ているので、持ち帰って調べると言っていた。
あの巣が何のものだったのか、教えてくれる人はいなかった。
いつからそこにあったのかも、わからない。
ただ、小野寺さんが以前、よく言っていたのを覚えている。屋上で音がする、何か動物でもいるんだろう、と。
僕も聞いたことがあった。
眠る前だったり、目が覚めかけたころだったり。何かを軽く引きずる音が、何枚もの天井を隔てて聞こえた。ぼんやりしていて、わざわざ考える気にもならなかった。
それ以来、小野寺さんと松本さんの猫の話をすることはなくなった。
あれから、ずいぶん経った。
僕は今もIVMを使っている。
部品をいくつか交換し、ソフトも更新した。少しずつ増える不具合も、受け入れられるようになってきた。数か月前、医師から、視覚信号を受け取る神経の反応が弱まっていて、もともとの視覚の伝達経路も衰え続けていると聞かされた。
いつか、装置は使えなくなる。
今度は、それがだいたいいつなのかとは聞かなかった。
今は、少し光が弱いだけで、画面が最初の大まかな形のまま止まることがある。外へ出るときは懐中電灯を持ち、見分けにくい場所では照らして、少し余計に待つ。
CADの仕事は続けている。提出したモデルは相変わらず審査されるし、修正のために戻されることもある。
高橋課長はもう、僕と話すとき、装置に少し時間をやるのに慣れた。
去年の一月、里奈と別のマンションへ引っ越した。
彼女は大学の獣医学科に受かった。車の後部座席の本は入れ替わったが、相変わらず驚くほど分厚い。時間が合えば、僕を会社へ送ってから大学へ行く。夜は、できるだけ一緒に帰る。
食卓の向こう側で彼女が暗記をしている横で、僕はヘッドホンをつけて図面を確認することがある。里奈は足を伸ばして僕の足首に軽く触れ、夕飯に何を食べたいかと聞く。
ハロウィンになると、今もあの剣心の衣装を出す。安物の生地は繰り返し洗うと傷むので、駄目になったところは取り替える。
里奈は毎回、こう言う。
「まだそれ着るの?」
そしてまた、袖口を直しに来てくれる。
今も、目が覚めると、まずしばらく横になったまま待つ。
それから手を伸ばし、ヘッドバンドを探して、つけて、電源を入れる。
たいていは、ベッドの縁が最初に現れる。続いてカーテン、クローゼット、里奈が椅子の背にかけた上着。明かりをつける必要がある日もあれば、もう少し明るくしなければならない日もある。
物が一つずつ戻ってくれば、起きる。
いつか、それらが現れなくなる朝が来る。
でも、まだ来ていない。
僕は今も窓辺に立ち、再現された日の光が、遠くの松の木を少しずつ越えてくるのを眺められる。風が吹けば枝葉の音は聞こえるが、モデルは動かないことが多い。次の更新で、ようやく梢の位置が急に変わる。
待つことには慣れた。
ときどき、松の木の後ろに、赤いものが一つ増える。
粗いブロックがいくつかと、球が一つ。遠すぎて、ヘッドバンドでは、それ以上の細部を補えない。
目をそらしてから、もう一度見ると、まだいることもある。
もういなくなっていることもある。
それが何なのか、今もわからない。本当に僕が見えているのかも。
それでも、僕は手を上げる。
向こうも片手を上げているのだと、信じたい。
そして、そちらへ向かって、ちょうど届くくらいの声で言う。
「お疲れさまです。」
ときどき、向こうからも返事がある。




