ヒューマン・ニュートラル
共和国の北の端、海岸沿いの灯台の近くに、N博士という若き天才科学者が住んでいた。世界一とも宇宙一とも言われるその頭脳を頼って、各国の要人がこぞって彼の元に頭を下げに行った。
「博士。カーボン・ニュートラルをご存知ですか?」
どこかの国の大統領の言葉に、N博士は黙って頷いた。カーボン・ニュートラルとはCO2の排出量と吸収量を出来るだけ等しくして、差し引きを実質ゼロにするという取り組みである。要するに温暖化対策、温室効果ガスは問題だということだ。
「このまま温暖化が続けば、2050年までに約10億人が水不足に陥る、という試算が出ています」
大統領がハンカチで汗を拭いながらそう言った。季節は夏だった。比較的緯度の高い位置にあるこの共和国も、今年は例年に比べ『経験したことのない猛暑』が連日続いていた。
温暖化については博士も実感していた。
昔はこの国に、蛇やトカゲなど変温動物は少なかった。それが今では、野生のゾウやキリンが森を闊歩している始末だ。大きな窓の向こうの、灯台と、穏やかな北の海を眺めながら、博士は呟いた。
「地球の気温が4℃上昇すると、生物の約40%は死滅する、と聞きます」
……もちろん検証してみたことはなかったが。検証してみたい、と密かに思っていることは内緒にして、博士は真面目腐った顔で大統領を見つめた。
「博士。どうにかなりませんか?」
大統領はというと、困り顔で懇願した。
「CO2の排出量には、大国が莫大な罰金を課しています。しかし我が国は資源も無く、工業国だ。このままでは……博士、お願いです。どうにか温室効果ガスを無くしてくれませんか?」
「分かりました。やってみましょう」
博士は頷いた。
それから博士は研究に没頭した。それから一年後。千年に一度の大天才であるN博士は、温室効果ガスを削減する活気的な大発明をしていた。
「素晴らしい!」
歴史に残る発明品を前に、大統領が両手を挙げて大喜びした。
「さすが博士だ! これで温室効果ガスなんて怖くない!」
「このスイッチを押せば、温室効果ガスは消えてしまいます。後は大統領のご判断で」
「よぉし。早速スイッチオンだ。明日には盛大にセレモニーをやって、この国の新しい門出を祝おうじゃないか」
大統領は博士の肩をバンバンと叩き、上機嫌で真夏の研究所を後にした。
次の日。
「うーん……」
宿舎のベッドで寝ていた大統領は、早朝、あまりの寒さに震えながら飛び起きた。
「これは一体、どういうことだ!?」
大統領は面食らった。窓の外を覗くと、なんと雪が降っている。今、季節は夏だ。昨日まで夏だったはずだ。宿舎のあちらこちらで、風邪を引いた者たちのくしゃみが鳴り響き、中庭の美しいバラ園は白銀に染まっていた。
「博士! 博士!」
大統領は慌てて防寒着を着込み、研究所へと急いだ。
「この寒さは何だ!? どうなってる!?」
「これはこれは大統領」
N博士は淹れたてのコーヒーカップを片手に、落ち着き払って彼を出迎えた。
「説明してくれ。あの発明品は失敗だったのか!?」
「大統領。この地球で最大の温室効果ガスは何だと思いますか?」
「何?」
「それはH2O……つまり水蒸気です」
博士がズズ……とコーヒーを口に含んだ。
「温室効果の約5割が水蒸気、約2割が二酸化炭素です。温室効果が無ければ、地球の温度はマイナス18℃まで下がります」
「マイナス18℃……!?」
「私は言われるがままに、貴方にとっての悪を排除したまでです」
博士はしたり顔で、徐に研究所のカーテンを開けた。
「ああっ!?」
大統領は驚いた。大きな窓の向こうには、灯台が、北の海が広がっているはずだったが……今やそこには何もなかった。何と、海がカラカラに干からびているではないか。
「まぁ、水蒸気は雲になって、直射日光を遮る役割もありましたから、一概に悪者だったとも言えないんですけどね」
「だったらどうして……!?」
「温室効果ガスを無くせと言ったのは貴方でしょう?」
だから博士の発明品は、この地球からH2Oを無くしてしまったのだ。コーヒーを飲み干した博士が、満足そうにほほ笑んだ。
「悪者がいなくなって、良かったじゃないですか。まぁ、人類は絶滅ですけど」




