コード打ちと矯正とキラキラのディナー
時折明滅する蛍光灯。赤茶けた畳。
どこかから吹く隙間風の、口笛にも似たかすかな音。あらかた部屋の主がパテで埋めたはずだが、新しくヒビでも入ったのだろうか。
多段本棚の言語リファレンスを取り出し、巻末の簡易な一問一答のページを、この粗末な部屋の住人は開く。読む。またノートパソコンの打鍵、もといコード記述を再開する。
しばらくして、彼はパソコンを閉じる。
安い小型の時計を見る。もう午前一時。
「んん……」
彼は首を回し、折り畳み机の安眠飲料を飲むと、蛍光灯を消した。
翌日、彼は外に用事があり、昼前にはしっかり起きた。
といっても十一時。おはようの時刻を少し過ぎる程度である。
「桐田さん、いま起きました」
桐田と呼ばれた老婆は、早めの昼食、宅配冷食を温めていたところだ。
「おお、おそようございます。天野くん、食べるかい?」
差し出したのは、数日前にネットスーパーで届いたものであろう、カレーパン。
ネットスーパー専門店の青と白のシールが貼られていた。
「あ、いただきます、ありがとうございます」
天野は、たかが二百円そこそこのカレーパンに「メシ代が一回分浮いたな」などと内心で跳ねる。
「今日は、ITの会社に行くのかい?」
「はい。月一の報告で、……あ、今回から別のところになったので、いまからでも日が沈む前に余裕で帰れます」
「そうかい。フリー、ランス、だったかね、の仕事は大変だなあ」
私は新しい仕事には詳しくなくてねえフフフ、と桐田はしわの多い顔をくちゃくちゃにする。
無理もない。彼女は、三十手前の天野の大叔母、八十をとうに超えている。足も少し悪いので、全体的に宅配に生活を頼っている。
「いえ、恐縮するのは私のほうです。私を賃料なしで二階に下宿させていただいて」
「まあ防犯のためもあるからね。若い男が住んで、夜まで灯りをつけていたら、簡単には泥棒さんも来ない」
正直なところ、それでも強盗は来るだろうが、それを指摘するのは無粋。
「では、行ってきます」
彼は玄関前の、古いが手入れ万全の自転車の鍵を、両輪とも解いた。
当初、天野はフリーランスのSEという仕事に、組織と指揮命令関係に縛られにくいという光を見ていた。
しかし蓋を開けてみれば、あまりそうであるとも言いがたかった。
「天野さん、なんですかこれ」
契約先の会社の小会議室。目の前には天野とさして齢の変わらない、切れ長の瞳の女。
「……え、問題はないはずですが」
「そうじゃないでしょう」
いつもこうである。
この女は、天野の聞く限り、副課長だかなんだか偉いらしい。しかしこの物腰では、いつかパワハラの問責で報いを受けるのではないだろうか。
まして純粋な部下ならともかく、天野はフリーランス。一般的な上下関係ではない。
「この部分を見なさい」
「……はあ、しかし喜名副課長、これのどこに問題が?」
見たところ、構文に破綻はない。閉じ忘れやミスタイプの類も見当たらない。
しかし。
「見なさい、これを三行削れるはずよ」
言って、二人でチェックしているモニターに、打鍵の小気味よく文字を走らせる。
「はあ」
「はあじゃないでしょう」
三行の節約。
できるにはできるが、そこを節約すると、後々拡張に少し難が出るはず。
それに三行節約したところで、いまの環境では、意味のあるデータ量カットには思えない。
……ということを天野は喜名に説明した。
「ここは三行だけ余分に書いた方がいいのではないでしょうか」
「なにを……、少しでも小さくまとめるのが基本でしょう、塩見小浜本にはそう書いてあります!」
またその本か。彼は嘆息する。
「あの、副課長」
喜名に冷えた言葉の刃を突き付ける。
「副課長には副課長なりの積み重ねがあるのでしょう。あなたは大学院で情報工学を学ばれたと聞きます。その本も、その道の偉大な教授が共著で書いたようですね、あまりに引用が多いので調べました。実際あなたが副課長に昇進できたのも、きっとその著書、というよりあなたの知見が、学術的価値だけでなく実践にも即しているからなのでしょう」
「それなら!」
「しかし他人の流儀は他人の流儀です。私は人の上に立ったことは、現在に至るまであまりありません。しかし組織には、一から十まで自分の流儀を叩き込むだけでは、新人相手ならともかく、私のようなある程度経験のある者は反発するのではないでしょうか」
淡々と、しかし氷で固めた発話。
「な、生意気な……」
「あなたは仕事との向き合い方、組織というもののあり方、そして必要性の薄い我を通すことの愚かしさを、少しは考え直してみてはいかがでしょうか!」
天野は椅子を蹴飛ばし、「失礼します!」と大声を上げつつ去った。
天野は特段、短気なほうではない。
しかし積み重ねというものがある。あのデキるキラキラレディの空気をまとった横暴女は、これまでも、とにかく「必要のない矯正」を仕掛けてくる。初期は椅子の座り方、画面への目線の配り方まで強制しようとしていたのだから大概である。
実際、数名が彼女の部署では病んだらしい。パワハラが原因かどうかは分からないが、少なくとも法的に認めるには足りないのだろう。しかし彼女があんな性格なのは確かだ。
これで終わりか。
と、彼は少し歩いて気づいた。自転車を忘れた。鍵がポケットにないから、つまりあの会社の物置兼駐輪場に、施錠されていない状態で忘れ去ったというわけだ。
まずい。
彼はくるりと戻る。
しかし駐輪場前に来たところで、あの女とまた出くわした。
「うわあ」
喜名副課長は、しかしどこか様子がおかしい。いつもの鋭さがない、どころか悄然としている。
なんだ?
「あの、天野さん」
「なんスか」
返事はしたが、彼は構わず屋内駐輪場の扉を開けようとする。
「待って……あの、ごめんなさい」
――へえ、このワガママ女、謝ることができたのか。ハッくだらねえ!
だが、彼女は彼の服の袖をつまんだ。
「お詫びに、私のおごりで、ディナーでもしない?」
「え、二人でですか?」
「予定は……いや、調整もあるだろうから、あの、とりあえずメッセ交換しない?」
「嫌だと言ったら?」
「……あの……その……」
普段姿勢の良い彼女が、どんどんうつむきがちになる。
さすがにこれを無視するのはどうか、と彼は思い始めた。
「はあ、分かりました」
「やった! えへへ……」
唐突に漏れる彼女の歓喜。まるで部屋の隙間風のようだ。
いや、そうではない、と彼は思い直した。
むしろその様子に、わずかではあるが彼の感情が波打った。
「……はい、これで」
「ふふ、よかった。ディナーはいいレストランを用意するから、楽しみにしていなさい」
自分の心が幾分軽いのは、夕食代が浮いたからであり、このちょっとキラキラした女と良いところでディナーデートをするからではない。
彼はそう言い聞かせ、ぶっきらぼうに「では失礼します」と反転した。
また自転車を忘れ、彼は喜名が引っ込んだのを確認してから回収した。




