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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

白狐の嫁入り ― 無能と呼ばれた花巫女は、白狐様の唯一の花嫁でした ―

掲載日:2026/02/20



 帝都の冬は、すべてを覆い隠すような白雪に閉ざされていた。

 窓の外、凍てつく闇を黄金の街灯が残酷なほど美しく照らし出している。けれど、この屋敷の奥まった一室だけは、外の寒気が嘘のように穏やかな熱に満ちていた。


「よく聞くのよ、白雪。どんな時も、人を恨んではいけませんよ」


 白雪の小さな手を包み込む母・白露の手は、陽だまりのように温かかった。その胸元からは、いつも焚いたばかりの香のような、清廉な残り香がする。母の指先が、白雪の胸に刻まれた色のない『椿』の蕾をやさしくなぞった。


「人の心に沈んだ澱みは、やがて形を持つわ。名もない“怪異”となって、誰かを傷つけるの」


 白雪はその言葉を、おまじないを聞くような心地で受け止めていた。母の膝の上で広げられた絵本には、黄金の装飾を纏った四柱の尊き存在が描かれている。


「この国を守る神様たちよ。強く、気高く、けれど……とても孤独なの」

 

 その時の白雪には、母の言葉の意味が半分も分からなかった。

 白露は一瞬だけ、遠くを見る目をした。


「神様といえど、ひとりでは燃え尽きてしまう。だから、その熱を受け止める“器”が必要なの」

 

 白雪は胸の椿に触れる。

 そこは、母が触れている間だけ、ほんのりと温かかった。

 

 「いつか、その花が色づく時が来るでしょう」

 

 遠い外で、雪の重みに耐えかねた竹が割れる音が、パァンと乾いた音を立てて響いた。

 

 それが、白雪が母と過ごした、最後の冬の記憶となった。

 やがて母は、その溢れるほどの癒やしの力を使い果たしたかのように、雪の中に静かに消えていった。


 母が去った後の白雪の胸に残ったのは、血の色を失い、どす黒く沈んだ椿の紋章だけ。温もりを失った花は、深い眠りについたまま、何かを待っている。

 

 ――けれど、白雪はまだ知らない。

 ――帝都の頂で、ひとりの少年が燃えていることも知らずに。

 

 誰にも触れさせぬ蒼い炎。

 誰にも望まれなかった黒い椿。


 まだ交わらぬ二つの孤独が、やがてひとつに重なるとき。

 その花は、この世で最も鮮やかな色へと変わる。




 白雪は、誰にも選ばれない娘だった。


 雑巾を動かすたび、使い古された畳が湿った音を立てて沈む。

 かつて名門と謳われた姫ノ宮の屋敷は、今や安酒の乾いた染みと煤に覆われ、過去の威光を思い出す者すらいない。白雪が雑巾を動かす。

 

 「酒だ……。おい、白雪、まだ来ないのか」


 奥の間から叔父の掠れた声が響く。

 その声音には、華族の誇りなど欠片もない。ただ、借金取りに追われる男の焦燥と、酒に溺れる者の濁りがあるだけだった。

 

 白雪は、あかぎれが裂けて赤く染まった指先を、冷水の中に沈めた。鋭い痛みが走る。だがその痛みだけが、自分がここに在る証のように思えた。


 胸元に刻まれた椿に、そっと触れる。


 選ばれた少女の胸には花が宿る。

 花巫女。花嫁として神に選ばれる目印。


 だが白雪の椿は、どす黒く沈んだままだった。

 誰にも望まれない、死んだ花。


「――ただいま。そんな水を使っては駄目よ」


 玄関の静寂を破ったのは、軍靴の硬い響きだった。

 現れた男装の麗人は、その身に纏う清潔な石鹸の香りで、屋敷の重苦しい空気を一瞬にして塗り替えた。男装の町医者として外を渡り歩く彼女の服には、塵ひとつ付いていない。糊のきいた白い襟元、石鹸の香り。ここだけ別の世界の住人のようだ。


「……世津義姉さま」


 世津は白雪の前に跪き、濡れた手をそっと包み込む。

 壊れ物を扱うように、優しく。


「痛いでしょうに……。白露様が生きていらしたら、こんな苦労はしなかったのに」


 世津の指先が、白雪の傷口を優しくなぞる。

 温かい。けれどその指は、白雪から雑巾を奪い取ることはしない。


「あなたの小さな手では、この屋敷の汚れを拭いきれないわ」


 世津の瞳に宿る、濁りのない同情の光。

 それは救いの手というよりは、白雪の足首に絡みつく柔らかな鎖のようだった。


 世津が語る「優しさ」を拒絶することは、この世界で唯一自分を繋ぎ止めている細い糸を、自ら断ち切ることを意味していた。


「大丈夫よ、白雪。私があなたを守ってあげる。だからあなたは、この暗がりで私だけを待っていればいい」


 世津が満足げに微笑み、白雪の頬に手を添えたその時。

 

 「――出来損ない! 酒はまだかと言っているのが聞こえんのか!」


 襖を蹴破らんばかりの勢いで、叔父の怒声が飛んできた。

 投げつけられた徳利が畳の上を虚しく転がり、わずかに残っていた安酒が、白雪の着物の裾を汚していく。

 

「申し訳ありません、叔父様。すぐに……」

「白露の娘だというから置いてやっているものを、癒やしの力も使えぬ役立たずが。その胸の『花印』は飾りか!」


 叔父の指が、白雪の胸元を忌々しげに指す。

 花巫女として生まれた娘の肌には、その癒しの力の象徴である花の紋章が刻まれる。


 だが、白雪の椿はどす黒く、死んだように沈んでいる。

 

「お父様、はしたない言葉はおやめなさい。」


 世津が冷徹なまでの冷静さで叔父を遮る。

 だが、その冷ややかな制止は、かえって叔父の鬱屈した怒りに油を注いだ。


「ふん、どの口が言う! お前の花印とて、かすかに傷を癒やす程度の端した力しか持たぬ出来損ないではないか。姫ノ宮の血も、お前の代で枯れ果てたのだ」

 

 世津の背中が、一瞬だけ硬く強張る。

 彼女の胸元にあるのは、色付いてはいるものの、微かな光しか放たない矮小な花の印。


「――私は、あのような妖どもに嫁ぐ気など毛頭ありません」


 世津は叔父を冷ややかに見据え、あえて低い声で言い放った。


「私は医者です。人ならざる力に魂を売るより、こうして人間を癒やすことの方が、姫ノ宮の誇りに適う。そうは思いませんか?」


 その言葉は気高く響いた。


「ふん、負け惜しみを! 女の身で医者ごっこなどと狂気沙汰だ。婚期もとっくに逃し、そんな気味の悪い恰好をして……。この家には、まともな女は一人もおらんのか! ええい、この狂人めが!」


 叔父は吐き捨てるように言うと、荒々しく襖を閉めて去っていった。

 後に残されたのは、凍てつくような沈黙と、世津が纏う冷たい石鹸の香りだけだった。世津は白雪の髪をもう一度、今度は少し指先に力を込めて撫でつける。


「いい、白雪。あなたも、私と同じ。誰にも選ばれずとも、私たちの幸福を探すのよ」


 白雪は、世津の瞳の奥に揺れる昏い情念から逃げるように、わずかに開いた窓の隙間から外の景色へ視線を逃がした。


 遠く、帝都の空を裂くようにそびえ立つ軍本部の塔が、鈍い威圧感を放っている。

 

 この帝国の頂点に君臨するのは、人ではなく、強大な異能を宿した「妖」たち。彼らは神として崇められ、同時に絶対的な武力で行使する支配者として、この国のすべてを掌握している。


 彼らが纏う軍服に施された装飾は、単なる飾りではない。それは異能を持つ者だけが許される生存権の証であり、力なき人間が模造すれば即座に極刑に処される、侵しがたい特権の色だ。


 幼い頃に母が読んでくれた絵本の神々は、もっと慈愛に満ちていたはずだった。けれど、現実の彼らはあまりに峻烈で、あまりに遠い。

 

 異能同士では子をなせない彼らにとって、癒やしの力を宿す人間の「巫女」は、その血を繋ぎ止めるための生きた器――。


 一度もその力を顕現させたことのない自分にとって、この印は至宝の証などではなかった。それは、消えない呪いだ。


 ――ガタッ、と。

 再び、地響きのような震動が屋敷を揺らした。


 軍本部の塔の彼方から届く、制御を失った異能の咆哮。

 その禍々しくも圧倒的な熱量が、冷え切った白雪の心に、あるはずのない痛みを走らせるのであった。



 その夜、白雪は冷え切った板間の隅で針を動かしていた。


 一日中、煤を払い、割れた瓶を拾い、凍る水で炊事をこなした指は、もう感覚がない。何度も継ぎを当てた着物は、布というより、ほころびの集まりのようだった。

 

「……また、直さないと」

 

 針が擦り切れた布を通るたび、胸の奥で何かが削れていく。新しい着物を仕立てる余裕など、この没落した姫ノ宮の家にはどこにもない。


 八つの頃、温かく弱り切った母の手に引かれてこの門を潜った日の記憶は、今や遠い異国の語り草のように朧げだ。母が亡くなってから、十年。白雪はこの屋敷の天井を見上げながら、一日を終わらせることだけを考えて生きてきた。


 不意に、静寂を切り裂いて、何かが激しく砕け散る音が響いた。


「――おい! 聞こえんのか、この出来損ないが!」


 襖が乱暴に蹴開けられ、叔父がよろめきながら姿を現した。その手には叩き割られたばかりの酒瓶の破片が握られ、血走った目が白雪を射抜く。

 

「酒が切れたと言っているんだ。買ってこい。今すぐにだ」

「ですが……外は吹雪です。道も――」

「黙れ! 居候の分際で口答えするか!」


 叔父は怒りに任せて、白雪の細い肩を力任せに突き飛ばした。

 凍てつく土間に放り出された白雪の前に、世津が影のように音もなく現れた。彼女は荒れ狂う叔父を宥めることも、その横暴を咎めることもしない。ただ、冷え切った床に這いつくばる白雪を、感情の抜け落ちた瞳で見下ろしている。


 棚から取ったのは、薄いショール。雪を凌げるはずもない、頼りない布切れ。それを、慈しむような手つきで白雪の肩に掛ける。


「気をつけていくのよ。お父様を怒らせたら、もっと恐ろしいことになるわ」


 背中に添えられた世津の手は、驚くほど温かかった。けれど、その指先が白雪を外へと促す力には、逃れようのない拒絶が込められている。

 

「さあ、行ってらっしゃい」


 世津の穏やかな囁きに背中を押され、白雪は夜の闇へと放り出された。

 重い木戸が背後で閉まり、錠を下ろす乾いた音が、彼女を絶望の白銀へと隔離した。


 吹雪は容赦がなかった。


 薄いショールはすぐに湿り、冷えた雪が足袋の中へ侵入する。

 それでも白雪は歩く。戻る場所がないからだ。


 こんな夜更けに、格式張った酒屋が開いているはずもない。

 向かうのは、帝都の裏。黄金に照らされない場所。


 頭上で頼りなく灯るガス灯の光さえ、荒れ狂う雪に飲み込まれ、かろうじて足元を照らすのが精一杯だ。白雪は、凍りついた吐息を吐きながら、記憶を頼りに帝都の「裏」へと足を進めた。


 辿り着いたのは、煤けた看板が風に揺れる小さな酒場だった。

 扉を開けると、安酒の鼻を突く匂いと紫煙が混じり合った、澱んだ熱気が白雪を包み込む。


「……あら、姫ノ宮のお嬢さんじゃないか。こんな嵐の夜に、正気かい?」


 酒場の奥で、店主が驚いたように手を止めた。場違いなほど白い白雪の肌が、薄暗い店内では死人のように淡く光っている。

 白雪は肩を震わせながら、かじかんだ指先をカウンターへ差し出した。


「すみません……一番強い酒を一本。それから……」

「また『付け』かい?」


 店主の声から微かな同情が消え、ひび割れた冷たい視線が白雪を射抜いた。

 

「お嬢さんを不憫には思うがね、姫ノ宮さんの未払いはもう限界だ。……うちだって慈善事業じゃないんだ。いいかい、次は必ず持ってきてもらうよ」


「……申し訳、ありません」


 白雪は深く頭を下げた。店主は舌打ちしながらも、一升瓶を新聞紙に包み、白雪の手に押し付けた。


 ずしりと重い。その重みは、姫ノ宮という名の残骸そのものだ。


 酒場の重い扉が閉まった瞬間、背中に残っていたわずかな熱気は、北風に容赦なく奪われた。


 新聞紙に包まれた一升瓶は、胸元に抱えていても皮膚を刺すほど冷たい。吹雪はさらに勢いを増し、細かな雪片が白雪の頬を打ち、ほつれた袖口から忍び込む冷気が細い手首を赤紫に染め上げていく。

 

 角を曲がったとき、暗がりに灯りとは異なる濁りが溜まっているのに気づいた。


「……はは、俺なんて、生きてたって意味ねえんだよ」


 道端にうずくまる男の声は、雪よりも冷たく、深い自己嫌悪に濁っていた。その足元の影が、不自然に揺らぐ。溶け残った泥雪の黒が、ゆっくりと形を持ちはじめる。


 白雪の胸の奥が、ひやりと冷えた。

 

(あ……)


 その瞬間、周囲の空気が一変した。

 

 それは煙でも霧でもない。人の心の隙間に沈殿した澱みが、吹雪の夜に触れて凝り固まり、輪郭を得ようとしている。


 母が語った「怪異」。


 黒い影は粘りつくように地面から剥がれ、無数の目を持つ塊となって、白雪と絶望する男を同時に見据えた。


 そして、怪異はズルリと這い出し、白雪の瞳を覗き込むように、そのどす黒く長い指先を伸ばした。恐怖のあまり、白雪は静かに瞼を閉じた。


(……ああ、私はここで、誰にも知られずに死ぬのだわ)


 叫びもなく、ただ静かに瞼を閉じる。


 その瞬間だった。

 突如として、白銀の世界が鮮烈な「青」に塗り潰された。


 音もなく燃え上がった炎が、吹雪を蒸発させ、夜の空気を一変させる。怪異は悲鳴を上げる間もなく、その青い劫火に呑み込まれ、澱んだ絶望は一瞬で浄化された。

 

 だが、その炎は白雪を焼かない。

 

 凍え切っていた指先に、芯から広がる熱がある。それは荒々しいはずなのに、不思議と懐かしく、胸の奥をほどくような温かさだった。

 

 驚きに目を見開いた白雪の視界に、一人の男の背中が映り込んだ。


 闇を裂く青い光の中、毅然と立つ軍服の男。

 黒の軍服に整然と並ぶ無数の金のボタン。その輝きは飾りではない。この帝国で絶対の力を持つ者だけに許された、侵しがたい証。


「――目障りだ。消えろ」


 低く、地響きのように響く声。

 

 男が指先をわずかに動かすと、それまで白雪を追い詰めていた怪異は、悲鳴を上げる暇もなく青い劫火に呑み込まれた。澱んだ絶望は一瞬にして浄化され、夜の静寂が戻ってくる。


 男はゆっくりと、白雪の方へと振り返った。

 

 青い炎を背負って立つその姿は、かつて母が読み聞かせてくれた絵本の中の神様よりも、ずっと危うく、そして狂おしいほどに美しかった。


 白雪の胸の「黒い椿」が、これまでにないほど激しく脈動し始める。

 まるで、長い眠りから呼び起こされるように。

 二人の視線が交差した瞬間、止まっていた運命の歯車が、火花を散らして回り出した。


  

 怪異が消えたあとの静寂は、あまりに深く、あまりに冷たかった。


 白雪の膝は震えている。それでも、雪の上に倒れ伏す男の姿が目に入った瞬間、恐怖より先に身体が動いた。


 泥雪に横たわるその男は、怪異の澱から解放され、ただの酔い潰れた人間に戻っている。白雪は一升瓶を抱えたまま、這うように近づき、震える指を男の喉元へ伸ばした。

 

 「……よかった、息をしていらっしゃる」


 おずおずと差し出した指先が、男の喉元の微かな拍動を捉える。世界の底へ沈みかけた者を、放っておけなかった。自分と同じ場所にいると、どこかで感じていたからだ。


「あの……お怪我はありませんか? 大丈夫ですか?」


 白雪が懸命に呼びかけると、男は力なく呻くだけだったが、その命の灯火が消えていないことに、彼女は深い安堵の溜息を漏らした。


「――その者は軍で引き取ろう。……君こそ怪我はないか?」


 頭上から降ってきたのは、冷徹でありながら、地響きのように重厚な、あるいは深く澄んだ水の底から響くような声だった。

 白雪は弾かれたように顔を上げた。


 そこに立っていたのは、一人の軍服の青年だった。

 深く被った軍帽が深い影を落とし、その素顔を隠している。けれど、吹雪がふわりと彼の周囲で蒸発し、渦を巻く霧の中で、男はゆっくりと顔を上げた。


(あ……)


 月光を細い糸にして織り上げたような、透き通る白髪。

 そして、暗闇の中で深く揺らぐ双蒼の瞳。

 整いすぎた鼻筋に、陶器のように滑らかな白い肌。軍服に整然と並ぶ「金のボタン」が、霧の中で神の眼のごとき威光を放っている。


 帝都を統べる「妖」が、いま、目の前に立っていた。

 彼が纏う圧倒的な熱量は、周囲の雪を瞬時に霧へと変え、夜の帳を白く、幻想的な熱気の中に沈めている。その峻烈な美しさは、煤けた路地裏にはあまりに不釣り合いな絶景だった。


 だが、白雪の視線は、その至高の美貌に刻まれた「一点」の汚れに、どうしても釘付けになった。

 

 白蓮の白い頬。そこに、先ほどの怪異との衝突で跳ねたのであろうか、一筋の煤が黒く残っていた。

 

 完璧な神域を侵す、卑俗な汚れ。


 白雪は、無意識のうちに右手を動かしていた。

 

 自身の震えも、相手が何者であるかという恐怖も、その瞬間の彼女には消え失せていた。ほつれた袖口から、使い古して薄くなったハンカチを取り出す。何度も洗い、もはや元の模様も判然としない布切れを、彼女は震える手で男の肌へと伸ばした。


「……汚れています、これ」

 

 ハンカチ越しに、彼の肌に触れる。

 その瞬間、青年の瞳が、雷に打たれたように大きく見開かれるのを白雪は間近で見た。


 不思議な感覚だった。指先から、彼が纏っていた刺すような熱が、しんと凪いでいくのがわかる。まるで荒れ狂う火の海に、冷たい雫を落としたかのような静寂。

 

 青年は己の呼吸すら忘れたように、白雪を凝視している。その眼差しは、先ほどの冷徹なものとは異なり、驚愕と、何かに飢えた獣のような渇望を孕んで揺れていた。


 彼が吸い寄せられるように、白雪の頬へ、その長い指を伸ばそうとする。

 

 その動きで、白雪は我に返った。不意に正気へと戻った彼女を襲ったのは、血を凍らせるような現実の恐怖だった。


 (……ああ、大変。私は、何を。何ということを)


 帝都の神に、この汚れた手で触れてしまった。

 

 それ以上に恐ろしいのは、刻一刻と過ぎていく時間だ。もしも酒を届けられなければ。もしもこのまま帰るのが遅れれば。叔父の怒声、冷ややかな眼差し、そして「役立たず」としてこの雪の中に捨てられる未来が、網膜の裏に焼き付いて離れない。


「あ……っ、ごめんなさい! 急がないと、叱られるから……っ!」


 白雪の声は、恐怖に震え、かすれていた。彼女は謝罪の言葉を闇の中に投げ捨てると、白蓮が何かを言いかける暇も与えず、脱兎のごとく駆け出した。雪に足を取られ、何度も転びそうになりながら、暗闇の彼方へと逃げ込んでいく。


「待て――」


 背後から届く呼びかけさえ、恐ろしくて振り返ることはできなかった。

 

 ただ、夢中で走る白雪の腕の中は、あまりに軽かった。

 命懸けで手に入れたはずの酒瓶を、あそこに置き忘れてきたことに気づいたのは、屋敷の重い門扉が見え始めた頃だった。


 肺が焼けるように熱い。喉の奥で血の味がした。

 白雪は、膝まで埋まる雪を掻き分け、縋るようにして屋敷の門へと辿り着いた。背後には、あの青い炎と同じ色の瞳が残した熱が、まだ肌にべったりと張り付いているような気がする。


 だが、門を潜った瞬間、彼女の心臓は別の恐怖で凍りついた。


(……ない。どうしよう、ない……っ)


 抱えていたはずの腕の中には、雪で濡れた薄いショールが握られているだけだった。抱えていたはずの酒瓶がない。


 屋敷の玄関から漏れる灯りは、吸い込まれるように暗い。

 震える手で引き戸を開けると、そこに待ち構えていたのは、世津の静かな、そして底冷えするような声だった。


「遅かったわね、白雪」


 土間に立ち尽くす世津の背後、奥の間から凄まじい衝撃音が響いた。


「あの女はどこだ! 酒も持ってこず、どこで油を売っている!」


 世津は一歩、白雪に歩み寄った。その瞳は、白雪の空っぽの両手を冷然と見据えている。

 

「……まさか、手ぶらで帰ってきたの?」

「……申し訳、ありません。途中で、その……」


 言い訳を口にすることさえ許されなかった。

 奥から飛び出してきた叔父の拳が、白雪の頬を容赦なく打った。


「が……っ!」


 視界が白く弾ける。


 冷たい土間に転がり、砂利が掌に食い込む。頬の痛みが、さきほど触れたあの静かな熱を無惨に上書きした。

 

「この役立たずが! 飯を食わせ、屋根を貸してやっている恩を仇で返すか!」


 叔父の罵声と共に、激しい蹴りが白雪の脇腹を見舞う。

 白雪は亀のように丸まり、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。世津は助けを呼ぶこともせず、壁に寄りかかってその光景を眺めている。


 叔父は忌々しげに舌打ちすると、白雪の襟首を掴んで強引に引きずり起こした。


「反省するまで、そこで床の汚れでも舐めていろ! できねば、お前の花印を焼き切って門の外へ放り出してやる!」


 投げ込まれたのは、光も届かぬ座敷牢だった。重いかんぬきが下り、再び訪れた静寂が訪れる。頬が疼く。肋が痛む。吹雪の夜よりも鋭く白雪の身を削った。


 けれど、重い瞼を閉じれば、あの一瞬の光景が脳裏に鮮烈に蘇る。


 闇を裂いた青い炎。自分を護るように立った、峻烈な背中。そして、ハンカチ越しに指先から伝わってきた、あの凪いだ静寂。地獄の底で、それだけが消えなかった。


 どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 重く閉ざされた、閂が外される音がした。そこに立っていたのは、世津だった。


「……もういいわ、部屋に戻りなさい。お父様は寝入ってしまったから」


 世津の声には、冷たかった。白雪は凍りついた身体を無理やり動かし、世津の視線を避けるようにして、与えられた自分の小部屋へと戻った。


 だが、部屋の戸を開けた瞬間、白雪は息を呑んだ。

 

 六畳足らずの狭い部屋は、嵐が通り過ぎた後のように荒らされていた。布団は剥ぎ取られ、棚の荷物は床に散乱している。

 そして何より、白雪の視線を釘付けにしたのは、部屋の隅に置かれていた古い桐箱だった。


(……ああっ!)


 母の形見を、自分の命よりも大切に収めていたその箱が、無惨にこじ開けられている。

 

 蓋は割れ、中に入っていたはずの母の古い手首飾りや、数少ない思い出の品々が、足蹴にされたかのように床に転がっていた。叔父が酒代になるものがないかと、座敷牢に入れている間に探し回ったのは明白だった。


 白雪は震える手で中を確かめたが、そこにあるはずの「それ」は、影も形もなくなっていた。

 

 鮮やかな紅い椿が描かれた絹の振袖。母が遺した唯一の華やかな形見。いつか自分が認められる日を夢見て、密かに守り続けてきた希望そのものが、消えていた。

 

 白雪の頭の中で、何かが音を立てて千切れた。

 

 ふらつく足取りで部屋を飛び出し、冷たい廊下を走る。向かったのは、屋敷で最も日当たりの良い、叔父の居間だった。

 

「叔父様! 叔父様!!」


 乱暴に襖を蹴開ける。

 そこには、酒瓶に囲まれて泥のように眠る叔父の姿があった。白雪はその肩を掴み、狂ったように揺さぶり起こした。


「起きてください! 私の……お母様の振袖を、どこへやったのですか!」


「……あ? 何だ、五月蝿いぞ……」


 叔父は重い瞼をこじ開け、酒臭い吐息を吐きながら、枕元に置かれたわずかな紙幣を弄んだ。質屋から得た、酒を数本買えば消えてしまうほどの端金。それを満足げに眺めながら、叔父は居直った。


「ああ、あれか。あんな古びた布切れ、いつまでも持っておいても仕方あるまい。これまで育ててやった恩を考えれば、安いものだ」


「……返してください……今すぐ、取り戻してきてください!」

 

 普段、影のように静かで、どんな打擲にも耐えてきた白雪が、初めて声を荒らげた。それは怒りというよりも、己の半分を無慈悲に切り裂かれた者の悲鳴に近かった。

 

 叔父の目は血走り、酒の臭いを含んだ呼気が白雪の顔を打った。

 母を侮辱され、初めて剥き出しにした白雪の意志は、この屋敷の主にとって不愉快な「反乱」でしかなかった。


「黙れ! 誰に口を聞いている!」


 叔父は咆哮すると、白雪の細い腕を乱暴に掴み、土間へと引きずり回した。抗う力などない白雪は、冷たい床に膝を打ちながら玄関先まで放り出される。


「これ以上逆らうなら、この家を出ていけ! 誰がそんなみすぼらしい、力の欠片もない女を拾うものか。野垂れ死ぬのがお似合いだ!」


 力任せに突き飛ばされ、白雪の身体は門の外、吹き荒れる雪の中へと投げ出された。あかぎれの指が凍土を掻き、鋭い冷気が一瞬にして体温を奪い去っていく。


 背後で、騒ぎを聞きつけた世津が静かに姿を現した。

 彼女は荒れ狂う叔父を宥めることも、その暴挙を止めることもしなかった。ただ、雪の中に倒れ伏す白雪の傍らへ、音もなく駆け寄る。


「……白雪! なんてこと……」


 世津は、自身の高価な上着が濡れるのも構わず、白雪の細い肩を抱き寄せた。その瞳には、今にも零れ落ちそうなほどの悲しみが湛えられている。

 

 だが、世津がその手を引いて、白雪を暖かい家の中へ連れ戻すことはなかった。彼女はただ、震える白雪の耳元で、甘く、毒を含んだ蜜のような声で囁いた。


「大丈夫よ、白雪。何かあったら、すぐに私に連絡しなさい。……お父様が落ち着くまで、少しだけ耐えるの。私はいつだって、あなたの味方なのだから」


 世津の指先が、白雪の頬に触れる。

 その温もりを、白雪は凍える心に灯った唯一の救いの火のように信じてしまった。自分を外へと突き放した叔父の暴力よりも、側にいながら家の中へは入れない、この「優しい拒絶」の方が残酷であることに気づく術はない。


「さあ、行きなさい。私はここで、あなたが戻るのを待っているわ」


 世津の手が、そっと白雪の背を離れる。

 その瞬間、背後で重い門扉が閉ざされた。


 再び、一人。昨日よりもさらに深い闇と、激しい吹雪が白雪を包み込む。形見も、酒瓶も、帰る場所も失った彼女は、ただ真っ白な死の世界に放り出された。



 帝都を白く閉ざしていた雪は、いつの間にか、すべてを拒絶するような冷たい雨へと変わっていた。


 行くあてもなく、白雪はただ泥濘に足を取られながら街を彷徨う。

 ボロボロの小袖は雨を吸って重く肌に張り付き、あかぎれに裂けた指先からは感覚が消えていく。一歩踏み出すごとに、泥水が白雪の裾を容赦なく汚し、氷のような雨粒が細い首筋を伝って、彼女の中に残された最期の体温を根こそぎ奪い去っていく。

 

 街灯の黄金が雨粒に砕け、歪んだ光となって夜を彩る。色とりどりの傘の下を行き交う人々は、泥にまみれた娘を避けるように通り過ぎる。その視線は鋭かったが、白雪の心はすでにそれを受け止める余力を失っていた。


(……ああ、もう、いいわ。全部、終わってしまえばいい)


 白雪は、雨に濡れそぼった膝を泥水につけたまま、ただ呆然と空を仰いだ。

 母の形見を奪われ、帰る場所を失い、自尊心を最後の一片まで削り取られた彼女に、明日を望む理由はどこにもない。

 

 このまま冷たい雨がすべてを流し去り、自分も路傍の石のように冷え切って消えてしまえばいい。胸の椿は、もはや何の脈動も伝えてこなかった。死を待つ花のように、ただ静かに閉じている。


 ――その時だった。


 頭上を執拗に叩いていた雨の音が、不自然なほど静かになった。

 降り注ぐ雨粒が白雪に触れる前に、ジュッと音を立てて白い霧へと変わっていく。周囲の温度が、劇的に、そして甘やかに上昇した。

 目の前に、不自然なほどの熱を帯びた「青い影」が落ちる。


 視界に入るのは、泥に汚れた自分の指先と、それとは対照的に、冷徹なまでに美しく磨き上げられた漆黒の軍靴。そして、降り注ぐ雨を蒸発させる圧倒的な熱源。

 

 白雪が、重い鉛を押し上げるようにして瞼を開くと、そこにはあの雪の夜に出会った彼が立っていた。


 深く被った軍帽の下、双蒼の瞳がまっすぐに射抜く。雨夜の暗がりの中でも、軍服の金のボタンは揺るがぬ輝きを放っている。


 峻烈で、危うく、美しい。その視線は、もはや冷たくはなかった。

 

「――ああ、やっと会えたね」


 低い声が、雨音を押しのける。


 それは安堵にも似ていたし、長く探し続けた者の確信にも似ていた。


「もう、大丈夫」


 彼はそう囁くと、泥に触れることを意に介さず、白雪の前に跪いた。彼が指先で白雪の凍てついた頬を撫でた瞬間、氷のようだった彼女の心臓に、熱烈な、とろけるような熱が流れ込んでくる。


 張り詰めていた緊張が、ぷつりと切れた。

 白雪の視界が急速に暗転し、世界が遠のいていく。


「あ……」


 崩れ落ちる身体を、強い腕が受け止め、そしてこの上なく優しく抱き寄せた。意識を失う直前、白雪が最後に聞いたのは、降りしきる雨の音でも叔父の罵声でもない。

 

 自分の胸の椿を激しく叩く、あの男の、あまりに熱い鼓動の音であった。


 

  深い水底から、光の差す水面へとゆっくり浮上していくような感覚だった。

 白雪が重い瞼を開くと、視界に広がったのは、雪よりも白く柔らかな世界である。頬に触れるのは、見たこともないほど上質な絹の寝具。その滑らかさは、これまで彼女が纏ってきたどの布よりも優しく、まるで壊れ物を扱うように体を包み込んでいた。

 

「……ここは……」


 声はかすれている。


 室内は豪奢でありながら過度な飾りを排し、静謐な気配に満ちていた。澄んだ空気の中に、白檀と、雨上がりの森を思わせる清らかな香りがほのかに漂う。


 視線を巡らせると、部屋の隅に老いた使用人が控えていた。背を丸めたその男は、白雪が目覚めたことに気づくと、音もなく歩み寄り、深く一礼する。

 

「……お目覚めになられましたか。良うございました」


 その穏やかな声には、姫ノ宮の屋敷で浴びせられ続けたような毒はなく、白雪はそれだけで身体の強張りがわずかに解けるのを感じた。

 

 だが、体を起こしかけて、自身の装いに気づく。泥にまみれた小袖ではない。白練の、清らかな光沢を持つ着物が肌に沿っている。


「あの……お着替えは……」


 戸惑いを含んだ問いが落ちた瞬間、重厚な扉が静かに開いた。


 廊下の光を背にして、青年が現れる。


 昨夜の軍服ではなく、肩の力を抜いた着流し姿。それでも、その場の空気は自然と彼を中心に整う。

 

「君は雨に濡れ、凍えていた。狐火で乾かしただけだよ。手は、出していない」

 

 入ってきた青年は、淡々と、けれどどこか独占欲の滲む声で答えた。爺やは主人を迎え入れるように静かに後退し、部屋の隅で再び深く一礼をして控えている。



 白雪は息を詰める。あかぎれだらけの、痩せた自分の身体を思い、申し訳なさが先に立つ。


「いいえ……とんでもございません。……不愉快なものをお見せしてしまって。申し訳、ございません……」


 俯き、白雪の言葉に、双蒼の瞳が鋭く細められた。彼は白雪の枕元に膝を突くと、驚く彼女の細い指を取り、その指先にそっと唇を寄せた。


「不愉快なものなど、どこにもなかったよ。本当さ。あの時の着物はすでに処分してしまったから、体力が戻ったら、君の好みのものを仕立てに行こう、白雪」


 流れるような動作に、白雪は心臓が止まるかと思った。指先から熱が伝わり、全身が痺れるような感覚に陥る。


「どうして……私の名前を?」


「あぁ、自己紹介がまだだったね。僕は一条白蓮いちじょう びゃくれん


「一条様……?」


 その家名を聞いた瞬間、白雪は息を呑んだ。帝国を支える枢として有名な家名だ。同じ室内にいることさえ恐れ多い。混乱する白雪を、白蓮は宥めるように、彼女の手を自分の大きな手で包み込んだ。


「白蓮でいいよ。君は何も心配しなくていい。いまは体を休めるんだ」


 部屋には絹の擦れる音が静かに響き、焚き込められた沈香の香りが安らぎを誘う。


 あかぎれだらけだった指先には、いつの間にか薬油が塗られている。痛みは消え、代わりにじわりと温かさが広がっていく。


 白雪はまだ、これが現実だとは思えなかった。


 十年のあいだ、与えられてきたのは否定と痛みだけだったのだから。

 

「私のような……無能な女に、なぜこれほどの贅沢を……?」


 震える問いに、白蓮はすぐには答えなかった。

 

 彼はただ静かに、白雪の手に自分の手を重ね、彼女の内側に眠る静寂を感じ取るように、愛おしげに目を細めた。その掌の熱が、凍りついていた椿の奥深くへ、静かに流れ込んでいった。

 

 「誰がそんな嘘を教え込んだんだろうね」


 白蓮は、白雪の指先に残るあかぎれの痕を、慈しむように親指でなぞった。その仕草はあまりに優美で、まるで壊れやすい硝子細工を鑑定しているかのようだった。


「……今はまだ、信じられなくてもいい。これから僕が、君に嫌というほど分からせてあげるから」


 彼はそれだけ言い残すと、意味深な微笑を湛えて白雪の瞳を覗き込んだ。その甘やかな空気を切り裂くように、窓の外からヒラヒラと一枚の紙片が舞い込み、白蓮の肩に音もなく着地した。


 紙片は瞬時に光を帯びて形を変え、手のひらほどの小さな、真っ白な狐の姿となった。


「まぁ、かわいい」

「気に入ったかい? 僕の式神だよ」

 

 白蓮は微笑む。だが小狐は落ち着きなく鼻を鳴らし、耳元で何事かを訴えた。聞き終えるころには、彼の表情から柔らかな余裕が消えている。


「……まったく。これくらいは自分たちだけで解決してほしいんだけどね」


 白蓮は心底不服そうに眉をひそめ、溜息をついた。自分を呼び戻そうとする軍部の無粋な催促に、露骨な嫌悪感を示している。彼は名残惜しそうに白雪の頭を一度だけ優しく撫でると、泣く泣くといった様子で身を翻した。


「少し席を外すよ。……いいかい、勝手にどこかへ消えたりしないでね」


 念を押すような言葉を残し、白蓮は部屋を後にした。


 白雪は、ひとり広い部屋に取り残された。静寂が戻った室内で、白雪は、彼が触れていた手の甲を見つめた。熱はまだ残っている。その温もりが心地よいほど、胸の奥に不安が広がる。


(何もせずに、こんな贅沢な場所にいていいはずがない……)


 役に立たなければ、居場所はない――。十年間、呪文のように叩き込まれてきたその思考は、そう簡単には消えてくれない。

 

 じっとしていられなくなった白雪は、用意されていた薄紫の小紋に袖を通した。今の自分にはあまりに分不相応な絹の感触に、落ち着かない。


 何かしなければならないという焦りだけが背を押す。


 だが屋敷は驚くほど静かだった。磨き抜かれた廊下も、広間も、生活の音がほとんどない。


 迷子のような心持ちで彷徨っていると、背後から声をかけられた。


「……おや。あまり無理をなさらないでください。坊ちゃまが心配なさいます」


 不意の響きに肩を跳ねさせて振り返ると、そこには目覚めた時に傍らにいた爺やが、柔和な笑みを浮かべて立っていた。


「あ、あの……。私に何かお手伝いできることはありませんか? お掃除でも、台所仕事でも……」


 必死に食い下がる白雪に、爺やは困ったように眉を下げた。


「お気持ちは嬉しいのですが、白雪様はゆっくりお休みください。それが何よりのお手伝いです」

 

「でも、それでは私の居る意味が……」

 

「白雪様は一週間もの間、眠っていらっしゃったのですよ」

 

「……え。一週間も」

 

 爺やは、白雪のあかぎれが薬油で潤い、少しずつ赤みが引いている指先をそっと見つめた。その眼差しは、主人が彼女に向けた執着とはまた違う、孫を見るような慈愛に満ちている。


「ええ。坊ちゃまがあれほど熱心に誰かを案じる姿は、幼いころからお仕えしておりますが、初めて見ました……。あのような形でお連れした貴女様のお世話だけは、私にさえ任せきりにせず、自ら甲斐甲斐しく動いておられましたよ。泥を拭い、狐火を調節し……。あんなに楽しそうな坊ちゃまは珍しい」


 白雪は、胸の奥の椿が再びトクンと脈打つのを感じた。それは恐怖ではなく、生まれて初めて触れる戸惑いを含んだ鼓動だった。

 

「それに、この屋敷の使用人は私一人でございます。坊ちゃまは、あまり多くの人間と関わるのを好みになられませんのでな。普段は掃除すら、私が必要最小限に行う程度で事足りるのです」


「お一人……。これほど広いお屋敷を?」


「左様でございます。坊ちゃまは、お一人で静かに過ごされる時間を何より大切になさるお方。……ですが、白雪様は違うのでしょう」


 爺やの言葉に、白雪は顔が火照るのを止められなかった。一条白蓮という、帝都の頂点に立つ男が、なぜそこまで。


「……白蓮様は、今どちらに?」


「軍部に向かわれました。あのお方は非常に多忙な身。なるべく早く戻ると仰せでしたよ。貴女様が退屈されないよう、美味な菓子を用意しておくようにとも厳命されております」


「白蓮様は、とてもお忙しい方なのですね……」


 白雪は窓の外を見やった。軍の要職にあり、多くの民を、そして妖たちを統べる存在。そんな遠い世界の住人が、自分のような存在のために時間を割き、自ら手を汚してまで介抱したという事実。


 その期待に応えられるだけの価値が自分にあるのかは分からない。けれど、彼が帰ってくるまで、この清潔な紫の小紋を汚さずに待っていようと、白雪は静かに決めた。



 窓を叩いていた雨音はいつの間にか止み、雲の切れ間から差し込む冷ややかな月光が、部屋の畳に白い模様を描いていた。


 白雪は、沈香の香りと絹の温もりに包まれ、深く眠っていた。恐怖と共に目を閉じるのが当たり前だった十年を思えば、これほど身体を預けた眠りは初めてだった。


 不意に、静寂を破る微かな音が響いた。

 重厚な扉が慎重に開かれ、廊下の暖かな空気と共に、懐かしい、けれどどこか焦燥感を含んだ気配が滑り込んでくる。白雪は重い瞼を押し上げ、ぼんやりと身を起こした。枕元の行灯の残り火が、侵入者の輪郭を揺らめかせ、長い影を壁に落としている。


「……白蓮、様……?」


 月明かりの中に立つその人は、三日ぶりの姿だった。漆黒の軍服は僅かに乱れ、白銀の髪の隙間から覗くその美しい顔立ちには、隠しようのない憔悴と、色濃い疲労の影が滲んでいる。


 だが、白雪の視線を奪ったのはそれだけではない。

 月の光を浴びる彼の頭頂部、白銀の髪を割るようにして、ふわふわとした白い狐の耳が覗いていたのだ。それだけではない。軍服の裾からは、真珠のような光沢を放つ、太くしなやかな尻尾が、感情の揺らぎを示すようにゆらりと夜の闇を撫でていた。


「ごめんね……少し疲れていて、抑えが利かないんだ。驚かせてしまったね」


 白蓮は力なく微笑むと、重い身体を預けるようにベッドの端へ腰を下ろした。彼が動くたびに、膨大な魔力を孕んだ大きな尾が静かに空気を揺らし、部屋の温度が微かに上昇する。


 白雪は、目の前の神秘的で、どこか神聖さすら感じさせる光景に圧倒されていた。白蓮は大きな手で白雪の頬に触れ、壊れ物を扱うような手つきでその肌をなぞる。

 

「よかった。……この前よりも、ずっと顔色がよくなっている」


「……狐、なのですね……」


「そう。これが僕の真実の姿だ。……恐ろしいかい?」


 白蓮は、自嘲気味に瞳を伏せた。

 その瞳は、目の前の少女に拒絶されることを、彼はこの世の何よりも恐れているようだった。白雪の胸は思わず締め付けられる。


 白雪はおずおずと、けれど迷うことなく、その白く柔らかな耳へと手を伸ばした。


「いいえ……。とても、きれいです。雪よりも、月よりも、ずっと……」


 白雪の指先が、絹糸のような毛並みに触れる。

 触れられた瞬間、白蓮の呼吸が止まった。やがて、長く息を吐き、そのまま白雪の膝へと額を預ける。


「……君がここから逃げていなくて、本当に良かった。寂しい思いをさせたね、白雪」


 その声は低く、掠れている。

 膝に乗せられた彼の頭の重みと、伝わってくる確かな熱。

 白雪は、自分の胸の奥の椿が、かつてないほど激しく、けれどこの上なく温かな幸福感を持って脈打つのを感じた。


「明日は、ようやく休みをもらったんだ。一緒に出掛けようか。君が欲しいものを、すべて買いに行こう」


 白蓮は白雪の手を取り、掌のあかぎれが消え、滑らかになった肌に誓いを刻むように深く唇を寄せた。窓の外では、夜明けを告げる藍色の空がゆっくりと広がり始めていた。


 

 夜明けの藍色が、やがて柔らかな朝の光へと溶け出した頃。白雪は、夢心地のまま白蓮に促され、邸宅の広い車寄せへと降り立った。


 深い森に囲まれた一条の邸宅に、異質な鉄の獣が横たわっていた。漆黒の漆塗りに、繊細な金の細工が朝日に輝く、重厚な蒸気自動車である。


「あの……これは?」

「蒸気自動車だよ。見たことはなかったかな?」


 白蓮は、昨夜の憔悴が嘘のように、端正な顔立ちに余裕の微笑を浮かべていた。耳も尻尾も、綺麗に隠されているが、彼から放たれる熱量は、周囲の霧を優しく晴らしていく。


「はい……噂には聞いておりましたが、これほど立派なものは、はじめてです」


 白雪が見上げると、彼は当然のように腰へ手を添え、軽やかに車内へ導いた。その手つきは自然で、拒む隙を与えない。


「この屋敷は森の奥深くにあって、帝都の喧騒からは少し離れているからね。君を歩かせるわけにはいかないから。少し揺れるけれど、我慢しておくれ」


 白蓮が隣に乗り込むと、車内は瞬時に彼の心地よい熱気に満たされた。蒸気機関が低く唸りを上げ、滑るように車が動き出す。窓の外では、静謐な森の緑が飛ぶように後ろへと流れていった。


「まずは、君の着物を揃えよう。君にはきちんとしたものを纏ってほしい」


 「いいえ……そんな、滅相もございません。一条様に助けていただいただけで、十分すぎるほどです。私は、何もお返しできるものがないのに……」


 白雪が慌てて首を振ると、白蓮はわざとらしく溜息をついた。その仕草すら、物語の王子様のように優雅で、どこか悪戯っぽい。


「僕が君に贈りたいんだよ、白雪。……これは、あの時の酒の礼だと思ってくれないかい?」


 その言葉に、白雪は顔を真っ赤にしてうつむいた。あの吹雪の夜、泥濘の中で命がけで運んでいた、あの安酒のことだ。


「……あんな安酒のこと、どうか忘れてください。あの方……叔父様が飲むための、とても人様に差し上げるようなものではなかったのに」


「ふふ、確かにあまり旨い酒ではなかったな」


 白蓮は隠すことなくそう言って、屈託なく笑った。


「不純物が多くて、喉を焼くような雑味があった。 少なくとも僕にとっては、どんな銘酒よりも価値のある一杯だったよ」


 白蓮は白雪のあかぎれが消えた手を、そっと自分の掌で包み込んだ。


「だから、これは正当な対価だよ」


 窓の外、並木道の向こうに帝都の活気ある街並みが見え始めた。白雪の心は、自分に向けられるあり得ないほどの甘い献身に、戸惑いながらも、凍りついていた何かがゆっくりと解けていくのを感じていた。


 蒸気自動車は静かに速度を落とし、帝都でも指折りの格式を誇る呉服店の前で停まった。


 白蓮に手を取られ、豪奢な店内に足を踏み入れた白雪は、その煌びやかさに圧倒されて肩をすくめた。磨き抜かれた床、壁一面に並ぶ色とりどりの反物。


「さあ、好きなものを選んでごらん。君が袖を通したいと思うものを、端から順に仕立てさせよう」


 そう言われても、白雪の手は自然と棚の隅の落ち着いた色へ伸びる。灰汁色、濃紺、汚れの目立たぬものばかり。


 白蓮は一瞬だけ眉を上げ、それから優しく彼女の肩に手を置いた。


「白雪。君は本当にその色が好きなのかい?」


 白蓮は店主に目配せをすると、自ら反物の間を歩き始めた。まるで花園を吟味する蝶のように、彼は迷いのない手つきで、春の陽だまりを切り取ったような明るい色の反物をいくつか選び出し、白雪の身体に当てていく。


「この山吹色もいいけれど、こちらの若草色も捨てがたいね。……おや、これはどうだい?」


 白蓮が広げたのは、淡く、けれど芯の強さを感じさせる薄桃色の反物だった。それは、厳しい冬を越えて、ようやく蕾を膨らませた花のような色合いで、白雪の透き通るような肌に驚くほどしっくりと馴染んだ。


「……きれいです。こんなに明るい色は、はじめてで……」


 白雪が夢見るように呟くと、白蓮は満足げに頷いた。


「決まりだね。君の優しさにぴったりの色だ」


 薄桃色の物も含めいくつかの反物を選び、仕立てを依頼する。店に並ぶ、塗り箱の中には、無数の帯留めや簪が、宝石箱のように輝いている。


 白雪が何気なくその中を眺めていた時、ふと、ある一点で視線が止まった。

 

 たくさん並ぶ銀の細工物の中に、深い青の宝石が嵌め込まれた帯留めが一つ。それは、帝都の夜空を凝縮したような、あるいは深い水の底を覗き込むような、吸い込まれるほどに純粋な青。


(……白蓮様の、瞳の色だわ)


 白雪は思わず息を呑んだ。

 彼が自分に向けてくれる、あの「双蒼」の瞳と同じ、強くて優しい輝き。


 自分のような女に、彼と同じ色のものを身につける資格などない。そう分かっていても、白雪はその青い石から目を離すことができなかった。


 白雪がその青い石をじっと見つめていることに、白蓮が気づかないはずはなかった。


「それが気に入ったのかい?」


 不意に耳元で囁かれ、白雪は肩を震わせて振り返った。いつの間にか白蓮が背後に立ち、彼女と同じように塗り箱の中を覗き込んでいた。その双蒼の瞳が、至近距離で白雪を射抜く。


「い、いいえ! その、あまりに綺麗な色でしたので、つい……」

「君は、嘘が下手だね」


 白蓮は迷いのない手つきでその帯留めを手に取ると、白雪の腰元にそっと当てた。薄紫色の生地の上に、深い青が鮮やかに映える。

 

「やっぱり。君によく似合う。……僕と同じ色を選ぶなんて、嬉しいね」


 悪戯っぽく、けれどこの上なく甘やかに微笑む白蓮に、白雪は顔が爆発しそうなほど赤くなった。拒否する間もなく、白蓮は店主に短く告げた。

 

「これもいただくよ。着物が仕立てあがったら一条の屋敷に運んでくれ」


 白蓮は流れるような仕草で支払いを済ませると、白雪の背を優しく促した。

 

 呉服店を出た二人は、再び重厚な蒸気自動車へと乗り込む。車輪が石畳を叩く規則的な音を聞きながら、白雪は膝の上で自分の指を弄んだ。薬油のおかげで痛みは消えたが、まだ少し赤みが残る指先。それに一条白蓮という男が唇を寄せたのだと思うたび、胸の奥が騒がしくなる。


「さて、少し歩き疲れただろう。次は、甘いものでも食べに行こうか」


 白蓮の案内で辿り着いたのは、洋風の意匠を凝らした、白亜の美しい「洋菓子舗」であった。

 入り口の大きな硝子窓には、外の世界を歪ませるほど磨き抜かれた透明感があり、銀色の装飾が帝都の陽光を跳ね返して眩しく輝いている。


 扉が開かれた瞬間、白雪は幸福な目眩を覚えた。

 乳を煮詰めたような濃厚で甘い芳香、異国の豆を煎じた芳醇な残り香。そして、扇を手に談笑する洋装の貴婦人たちと、磁器の触れ合う繊細な音が入り混じり、音楽のように響いている。


「わぁ……なんて、煌びやかな場所なのでしょう……」


 白雪は、弾む胸を抑えきれず、瞳を輝かせて店内を見渡した。叔父の屋敷では、日の当たらない薄暗い台所と冷たい土間が彼女の居場所のすべてだった。それに比べ、ここは天上の箱庭のようでさえある。

 白蓮に手を取られ、革張りの椅子に腰を下ろすと、ほどなくして彼女の前に、銀の器に盛られた美しい一皿が運ばれてきた。それは、淡い乳白色をした、小山のような不思議な食べ物だった。


「一条様、これは……?」

「『あいすくりいむ』というものだよ。氷の菓子だ。溶けないうちに食べてごらん」


 白雪はおずおずと銀の匙を握り、その白い塊を慎重に掬い取った。毒見をするかのような緊張感を漂わせつつ、小さな口を開けて運ぶ。

 その瞬間、白雪の瞳が驚きに丸く見開かれた。


「……っ! 冷たくて、甘くて……。それに、口の中でさらりととろけます! 雪のようですのに、お砂糖よりもずっと優しくて……。このような美味しいものが、この世にあるなんて知りませんでした」


 頬を上気させ、あまりに初々しく感嘆するその姿に、白蓮は頬杖をつきながら、蕩けるような甘い眼差しで彼女を見つめた。


「そんなに喜んでもらえるなら、連れてきた甲斐があったよ。ああ、白雪。口の端に、少しついているよ」


 白蓮はそう言うと、彼女が辞退する間もなく細い指先を伸ばした。白雪の柔らかな肌に触れた指が、白い冷菓の雫を拭い去る。そのまま彼はその指を自分の口元へと運び、白雪をじっと見つめたまま、吸い上げるようにして味わった。


 そのあまりに自然で、同時に艶やかな仕草に、白雪は心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃を受けた。首筋まで一気に赤く染まり、持っていた匙を取り落としそうになる。

 

 陽光の差し込む窓辺。

 美しい洋菓子舗の喧騒の中で、白雪の胸に刻まれた椿の花だけが、熱に浮かされたように激しく、そして確かに脈打っていた。


 落としそうになった匙を握り直したその時、隣の卓で談笑していた若い女たちが、そわそわとこちらへ視線を送っていることに気づいた。


 今日の白蓮は、軍の階級を示す金の装飾や、あの仰々しい軍帽を身につけていない。白銀の髪を風に遊ばせ、質の良い洋服をさらりと纏った姿は、恐ろしい「妖」というよりは、どこか浮世離れした美貌を持つ、良家の貴公子のようであった。


「――ねえ、あちらの方。素敵じゃない?」

「異国の方かしら。でも、あんなに綺麗な髪、見たことないわ」


 耳を劈くような嬌声と共に、流行の短い髪に派手な色の振袖を合わせた「モダンガール」たちが、ふわりと白蓮の側へ歩み寄ってきた。彼女たちは白蓮の背後に潜む強大な魔力など露知らず、ただその美しい容姿に目を奪われている様子だった。


 「失礼、素敵な殿方。もしよろしければ、この後ご一緒に銀ブラでもいかがかしら?」


 女たちは、白蓮の隣に座る白雪をちらりと見た。だが、薄紫の小紋を纏い、所在なげに俯く彼女の姿は、彼女たちの目には、裕福な主人の供をしてきた「少しばかり小綺麗な使用人」程度にしか映らなかったらしい。


「そちらの娘さんは……お使いの方? 終わるまで待っていてもらえばいいじゃない」


 無神経な言葉が、白雪の胸にちくりと刺さった。華やかな帝都の女性たちの中、自分は彼に相応しくない。白雪は思わず身を縮めた。


 しかし、白蓮の反応は冷徹なまでに早かった。


「……僕の邪魔をしないでくれないか」


 先ほどまで白雪に向けていた蕩けるような甘さは霧散し、その声には万年雪のような冷気が宿っていた。白蓮は女たちの顔さえ見ず、ただ白雪の冷え切った指先を、慈しむように自分の大きな掌で包み込んだ。


 「彼女は、僕にとって代えのきかない大切な人だ。失礼な言葉を吐く口があるなら、二度と僕の前に現れないでほしい」


 白蓮の瞳が、一瞬だけ鋭い「蒼」に光った。女たちは、蛇に睨まれた蛙のように顔を青ざめさせ、悲鳴を上げる間もなく逃げるように去っていった。


 店内が再び静まり返ったような錯覚の中で、白雪はただ、自分を包む白蓮の熱に圧倒されていた。

 

 大切な存在。あんなに美しい人たちの前で、彼は自分を選んでくれた。


(ああ、どうして……。どうしてこれほどまでに、私を……)


 胸の奥に刻まれた椿が、痛みにも似た激しさで疼く。それは、今まで感じていた絶望の重みではなく、もっと熱く、切ない「恋心」という名の重みだった。

 

 白雪は、潤んだ瞳を上げて白蓮を見つめた。


「白蓮様……。私、私は……」


 こんなに良くしてくれるこの人のために、何かをしたい。

 たとえ微力でも、このどこまでも優しい「神」の心に寄り添える何かを。白雪の心に、初めて自分の中から湧き上がる、強く、確かな熱い意志が宿ったのだった。


 洋菓子舗での「あいすくりいむ」の夢のような出来事から、数日が過ぎた。

 帝都の喧騒を遠くに置いた一条の邸宅には、白雪がこれまで知る由もなかった、穏やかで満ち足りた時間が流れていた。


 白雪の朝は、窓辺に差し込む柔らかな光と、庭の木々を揺らす風の音で始まる。

 かつての屋敷では、日の出前に凍える土間へ降り、罵声に追われるように火を熾すのが常だった。しかしここでは、温かな寝具の中でゆっくりと目覚めることが許されている。


 だが、その安らぎの隣には、常に小さな寂しさが寄り添っていた。

 白蓮は、あの日以来ほとんど屋敷にいない。

 朝は白雪が目を開く前に出立し、夜は日付が変わるころに蒸気自動車の低い唸りが森を震わせる。顔を合わせるのは、ほんの束の間だ。

 

「白蓮様は、今日もまだお戻りにならないのですね……」


 夜更け、広い広間でぽつりと呟く白雪に、温かな茶を差し出しながら爺やが目を細めた。


「坊ちゃまは、少々張り切りすぎておられますな。本来なら数月かかる政務を、数日で片づけようとなさるものですから」


「どうして、そんなに……」


 爺やは目を細めた。


「早く、自由になるためでございましょう」


 それ以上は語らない。けれど白雪の胸には、じんわりと温かなものが広がった。


 白雪は少しでも彼の助けになりたいと、箒を手に取ったり台所へ向かおうとしたりするのだが、そのたびに爺やは「おやおや」と困ったように笑って彼女を制した。


「左様なお仕事は私の役目でございますよ。白雪様は、どうぞその指先を大切になさってください」


「でも、爺やさん。私ばかりがこんなに良くしていただいては、罰が当たってしまいます」


「罰など当たりませぬよ。貴女様が健やかに笑っておられる。それだけで、この屋敷の空気は以前よりずっと温かくなっているのですから」


 爺やと囲む茶卓の時間は、白雪にとってかけがえのないものとなっていた。彼は時折、妖狐であり白蓮の幼い頃の武勇伝や、彼の好物が甘い稲荷であること、実は情に厚いお方であるかを、静かな語り口で教えてくれた。


「やっぱり、お狐さまは、お稲荷様が好きなのですね」

「ははは、そうでございますな。……まあ、そうでもありませんよ。爺や、はあまり好みではないですな」

「あら、爺やさんもお狐さまでしたの?」

 

 驚きに目を見開く白雪に、爺やは「おや」といたずらっぽく笑い、一瞬だけ、髪の隙間から小さな耳をぴょこんと覗かせてみせた。


「坊ちゃまほど立派な尾はございませんがね」

 

 白雪は声を上げて笑った。

 その笑い声が、この屋敷に満ちるようになっていた。


 そんな穏やかなある日の午後、呉服店から一竿の衣装箱が届けられた。白蓮が「君の優しさにぴったりの色だ」と選んだ、あの薄桃色の振袖が仕立て上がってきたのだ。


 爺やの手を借りて袖を通し、大きな姿見の前に立った白雪は、思わず自分の息を呑む音を聞いた。


 それは、まるで春の霞をそのまま形にしたような、繊細で美しい一着だった。光の加減で浮き出る地紋は水の流れのように清らかで、生地の上で踊るように刺繍された白い花びらが、彼女の歩みに合わせてひらりと揺れる。


 そして、腰元で凛とした輝きを放つのは、あの日白雪が目を奪われた、白蓮の瞳と同じ深い青の宝石をあしらった帯留めだ。


(……本当に、私なのでしょうか)


 鏡の中にいるのは、泥にまみれて絶望していたあの日の娘ではない。一条白蓮という光に照らされ、大切に育まれ始めた、一輪の花のような少女だった。指先でそっと帯留めの青い石に触れる。冷たいはずの宝石が、主の熱を宿しているかのように温かく感じられた。


 白雪の胸の奥で、淡い恋心が確かな形を結んでいく。


 そんな静かな幸福を切り裂くように、屋敷の重厚な門扉を叩く、無作法で不快な音が響き渡ったのは、その日の深夜のことだった。


 邸宅を包んでいた静謐は、一瞬にして焦熱の地獄へと変貌した。


 深い夜の闇を裂いて、どこからか突如として姿を現した白蓮だった。ここ数日の無理が祟ったのだろう。その反動か、彼の内側に宿る強大な「神気」が均衡を崩し、暴走を始めていたのだ。


「坊ちゃま! 今すぐ巫女を、いや帝都から最高位の神官を呼びましょう!」

「……そんなもの、無駄だ。来るなと言っている……!」


 白蓮の周囲に渦巻く炎は、蒼を越えて白へと滲む。軍服の金の装飾が赤く染まり、溶け落ちる。彼の吐息ひとつで、紙が焦げ、床板が軋んだ。異常な高熱に、妖狐である爺やすら、近づくことすら叶わない。ただ、苦悶に喘ぐ主の声を、遠くから震えて聞くことしかできなかった。

 

 白雪は、廊下の角でその光景を呆然と見つめていた。仕立て上がったばかりの薄桃色の振袖が、室内に吹き荒れる熱風に煽られて激しくはためく。


(あの方を、お助けしなければ……。あんなに、苦しそうな声を上げている)


 恐怖よりも先に、胸を締め付けるような痛みが白雪を動かした。泥濘の中で自分を拾い上げ、宝物だと呼んでくれたあの人のためなら、この命が灰になっても構わない。

 

 むしろ、これまで「無能」と蔑まれ、生きる意味を見出せなかった自分に、もし最期にできることがあるとするならば――。

 

 白雪は吸い寄せられるように一歩、また一歩と、誰もが死を予感して逃げ出す炎の渦中へと、迷いなく踏み込んでいく。


「……近寄るな! 焼き殺されたいのか!」


 白蓮の絶叫が、狂おしく空間を震わせる。しかし不思議なことに、肌を焼くはずの熱が、彼女には「痛み」として届かなかった。そこにあるのはただ、あまりにも悲しく、叫び出したくなるような白蓮の孤独。それが幾重もの波となって、彼女の心に直接押し寄せてくるのだ。


(ああ、私なら……私なら、あの方の苦しみを受け止められるかもしれない)


 根拠のない、けれど魂の奥底から湧き上がる確信が、白雪の足を前へと進ませた。

 

「白蓮様……!」


 白雪は、膝をつき喘ぐ彼の背後に駆け寄り、その震える体を背後から力いっぱい抱きしめた。薄桃色の袖が、彼の身から溢れ出す蒼白い炎に包まれ、一瞬で蒸気が立ち込める。


「下がれと言っただろう……っ、死にたいのか!」


 白蓮の咆哮が、耳元で轟く。しかしその瞬間、白雪の胸に深く刻まれた「黒い椿」が、共鳴するようにドクン、と大きく脈動した。


 その瞬間のことだった。

 白蓮の体から溢れ出し、世界さえ焼き尽くそうとしていた暴虐な猛火が、まるで底なしの深淵に吸い込まれるように、白雪の体へと流れ込み始めた。


 白蓮を苛んでいた炎は、白雪の肌を透過し、彼女の胸の椿へと消えていく。猛々しい熱は彼女の内側を通るうちに柔らかな凪へと変わり、代わりに白雪の体は、透き通るような白蓮の魔力の光を帯びていった。


(ああ……そうだったのですね……)


 白雪は、自分の意識が白く染まっていく中で、初めて悟った。

 自分を「器」として欠陥品だと呼んだ人々は、何も分かっていなかったのだ。彼女の癒しの力が「空っぽ」で、何も生み出さず、何も与えられないと蔑まれたのは、無能だったからではない。


 彼女の椿の印は、聖なる深淵。

 溢れ出し、制御を失って世界を焼き尽くそうとする「狐」の苦痛を、その身にすべて受け止め、どこまでも「吸い込む」ための、彼一人のための受け皿だったのだ。


 白蓮の呼吸が、次第に穏やかなものへと変わっていく。狂おしいほどの高熱が引き、蒼白い炎が消えていく中で、彼は白雪の、驚くほど冷たくて心地よい腕の感触に包まれていた。


「……白蓮様」


 熱に浮かされた彼の名を一度だけ呼ぶと、喉奥で絡みついていた獣じみた呻きが、やっと人の吐息へと戻っていく。彼の肩から力が抜け、荒れていた鼓動がゆるやかに落ち着いていくのが、手に取るようにわかった。


 その瞬間、白雪の胸に刻まれた椿が、最後のひと波を飲み干すように、深く――どくん、と脈打った。


(……ああ)


 白雪は、遅れて自分の内側の異変に気づく。

 熱はすべて受け止めた。炎は鎮めた。けれど、その代償が“何もない”はずがなかった。

 

 視界の端が白く滲み、音が遠のく。

 床の冷たさも、焦げた匂いも、彼の体温さえも、ひとつずつ薄紙を剥がすように遠ざかっていく。


 けれど、不思議と恐ろしくはなかった。


 白蓮の呼吸が確かにここにある。荒ぶる炎ではなく、落ち着いた人の息が、彼女の肩をあたためている。


(この印は、私を苦しめるためじゃない)


 言葉にする余裕はないのに、思考だけが澄んでいく。

 いつか出会う、この孤独な神様を救うためだったんだ――その理解が、罪悪感の氷を静かに溶かし、代わりに胸の奥へ確かな芯を残していく。


 白雪の腕がわずかに震えた。


「……大丈夫、ですよ」


 掠れた声が、唇からこぼれる。


(もう、一人じゃない)


 その確信を最後の灯として、白雪はゆっくりと瞼を伏せる。

 闇に沈むのではなく、深い水へ身を委ねるように、意識が静かに、静かに遠のいていった。



 白雪の身体から力が抜けた瞬間、白蓮はそれを取り落とすことなく抱き止めた。炎は完全に鎮まり、部屋を焦がしていた蒼白い光も消えている。それでも彼は一瞬、動かなかった。自分の腕の中にあるこの軽さが、ただの眠りなのか、それとも――という最悪の想像を、理性が静かに切り捨てるまでのわずかな時間だった。


 白雪の呼吸はある。浅く、しかし確かに胸が上下している。神気の流れも乱れていない。むしろ不思議なほど澄んでいる。白雪の花巫女としての力が、彼の暴走を受け止め、深いところへ沈めたのだと、理屈ではなく本能で理解する。


「……君は」


 言葉が続かない。


 彼はゆっくりと彼女を抱き上げ、焦げた畳を踏み越えて寝台へ運ぶ。その動作には軍を率いる将の威圧も、妖狐の神格もなく、ただひとりの男の慎重さだけがあった。横たえたあとも、白蓮は白雪の手を握ったまま離さない。彼女の掌に残るかすかな熱が、自分の炎を受け止めた証だと知っているからだ。


 吹雪の夜、彼女が差し出した薄いハンカチが頬に触れた瞬間、白蓮は確かに違和感を覚えていた。痛みが消えたわけではない。ただ、炎が一瞬だけ、ほんのわずかに揺らいだのだ。拒絶でも反発でもなく、熱が行き場を失ったような感覚。だがそれは錯覚かもしれない程度のもので、彼は深く追及しなかった。


 後に秘密裏に境遇を調べさせ、虐げられていると知ったときも、胸を打たれたというよりは、ただ静かに憐れだと思っただけだった。力もなく、後ろ盾もなく、それでも理不尽に耐え続けている娘。側に置いても不愉快ではない。しばらく手元に置き、様子を見るのも悪くない――それが、あの時の本音だった。


 興味と、ほんの少しの気まぐれ。


 だが今、腕の中で眠る白雪を見下ろしながら、白蓮ははっきりと悟る。


 これは偶然ではない。彼女は、他の花巫女とは違う。


 これまで幾度となく、花巫女たちは彼の前に跪いてきた。「お救いします」と微笑み、祝詞を唱え、清らかな光を差し出した。だがその“癒し”は、彼の内に渦巻く神気と触れ合った瞬間、甘い蜜が毒へ変わるように反転した。浄化の力は炎を鎮めるどころか刺激し、彼の体内で暴れ狂い、制御を奪い、触れた巫女の方が血を吐いて崩れ落ちたことも一度や二度ではない。


 祈りは焦げ、祝詞は裂け、清らかなはずの光は彼の炎に焼かれて歪んだ。


 そのたびに白蓮は理解した。自分は“癒される側”ではない。誰かの善意を受け取ることすら許されない存在なのだと。


 だからこそ、彼は期待しなかった。誰にも近づかせず、誰の祈りも拒んできた。


 ――だが。白雪は違った。

 

 白蓮は白雪の額にそっと触れる。指先がわずかに震えるのを、自分でも驚くほどはっきりと感じながら。


「愚かだな」


 低く漏れた声は叱責ではなく、どうしようもないほどの愛おしさを帯びていた。指一本触れれば、その身を炭に変えてしまうほどの業火だった。それでも彼女は退かなかった。この小さな体で、怪物と化した自分を丸ごと抱きとめたのだ。

 

「君がいなければ、僕はとっくに自分自身の火で灰になっていた」


 その声は揺れない。だが真実の重みを帯びている。


 夜は静かに更けていった。


 白蓮は寝台の傍らに座り続ける。眠らない。目を閉じない。炎が再び暴れぬよう、神気を完璧に制御しながら、ただ彼女の呼吸を見守る。それは義務ではない。礼だった。命を懸けて自分を受け止めた彼女への、神としてではなく男としての礼。


 やがて東の空が白み始めた頃、白雪の指先がかすかに動いた。長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が開く。


 朝の光が、二人の間に差し込む。


「目が覚めたかい」

 

 まだ夢と現のあわいにいる声。


 白蓮は、彼女の手を包んだまま、ようやく深く息を吐いた。その吐息には焦燥も動揺もない。ただ、確かな安堵があった。

 

「……白蓮、様……?」

「ありがとう、僕を救ってくれて」

 

 白蓮は、まるで壊れ物に触れるような手つきで白雪の指を持ち上げる。かつてあかぎれで裂けていた場所を、親指でそっとなぞる。そこにはもう痛ましい赤はなく、柔らかな肌が戻りつつあった。

 

 その変化を確かめるように、彼はわずかに目を細める。


「君の身体に、もう傷は作らせない」


 そのまま、彼女の掌を自分の胸へと導く。薄い衣越しに伝わる鼓動は、力強く、確かで、そして驚くほど静かだった。炎に狂っていた男の心臓とは思えないほど、落ち着いた律動。


「君が触れるのは、私の心臓だけでいい」


 その言葉には支配の影はない。ただ、差し出す覚悟がある。守るのではなく、預けるという選択。


 白蓮はゆっくりと、傍らに置いていた軍服の胸元へ手を伸ばす。最も眩く輝く金のボタンを、躊躇いなくひとつ引き千切った。帝国軍としての象徴。だが彼は、何の芝居気もなく、その黄金を彼女の掌へと置いた。


 朝の光が黄金を照らし、きらりと鋭く瞬く。


「君がこれを持っている限り、帝国軍のすべてが君を害することを許さない」

 

 その言葉は甘いだけの囁きではなかった。

 この国において、そのような誓いを“花巫女”に与えることの意味を、白雪は知っている。それは、永遠の服従と永遠の守護。白雪の指が、重みに耐えるようにわずかに震える。


 彼は白雪の手を、さらに上から力強く包み込む。逃がさないためではない。共に行くと誓うためだ。

 

「……そして僕も、君の許しなく君から離れることはない」


 蒼い瞳が、逸らさずに彼女を見つめる。そこには、ただ、ひとりの男の決意だけがある。


「白雪」


 名を呼ぶ声が、静かに落ちる。


「僕の花嫁になってほしい」


 その瞬間、白雪の胸に刻まれた椿が、確かな鼓動を打った。

 椿が、甘く震え、胸の奥から熱いものが込み上げる。自分は無能ではなかった。この人のために、生まれてきたのだ。

 白雪はゆっくりと息を吸う。



「……白蓮様」


 名を呼ぶ声は、かすれない。


 白雪は彼の手を握り返す。黄金を包み込むように、そして彼の指を絡め取るように。


「私は、貴方の傍にいると決めました」


 かすかに微笑む。その言葉は震えていない。


「あなたをお慕いしております」


 白蓮の蒼い瞳が、わずかに見開かれる。

 白雪はそっと身を乗り出す。彼の胸元に触れていた手を持ち上げ、その鼓動を確かめるように、もう一度掌を重ねる。


 そして、躊躇わずに、彼の頬へと指を伸ばした。


 あの吹雪の夜、泥濘の中で彼に触れた時と同じように。けれど今度は、温かな愛情を込めて。


「……貴方の花嫁になります」


 その返答と同時に、白雪はゆっくりと目を閉じる。

 白蓮が動くよりもわずかに早く、彼女の唇が彼のそれに触れた。


 最初は静かに、誓いを結ぶように。


 次の瞬間、白蓮の大きな手が彼女の項を引き寄せ、深く、奪うように熱い口づけを重ねた。炎ではない、深く温かな熱が二人の間に満ちる。椿の鼓動と彼の心臓が、境界を失うほど同じ律動で重なっていく。


 窓の外では朝日が昇り、蒼い空が金に染まる。


 白狐の妖と、花巫女の選択。


 それは、世界で二人だけの、愛と誓いの口づけだった。

 椿が、静かに、そして誇らしく咲く。




 ――第一章 了

 





 

 

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