95話
翌朝、ギルドの扉を開けると、そこには相変わらずの賑やかさが待っていた。
「おい、あの『隣の国の聖女様が実は幼馴染だった件』って小説、最新刊読んだかよ?」
「ああ、あのじれったい距離感がたまらねぇんだよな!」
そんな冒険者たちの熱いラブコメ談義をBGMに、リルドは掲示板の端っこ、色褪せた端に追いやられている一枚の依頼札を見つけた。
「……『古井戸の調査』、か。お掃除じゃなくて調査なのは珍しいね」
リルドはそれを剥がし、受付へと持っていった。
「おはよう、受付さん。今日はこの井戸を見てくるよ」
「おはようございます、リルドさん。あ、そこ、最近妙な音がするって苦情が出ていて……。ただの汚れならいいんですけど、魔獣でも住み着いていたら危ないですから、気をつけてくださいね」
「うん、何か住み着いちゃったのかもしれないね。お散歩がてら覗いてくるよ」
街の裏路地にある古い井戸に到着したリルドは、腰に下げたランタンではなく、指先に小さな「灯」の魔術を灯した。青白い光が、暗い井戸の底を静かに照らし出す。
「(……さて、何がいるのかな?)」
リルドは手慣れた動作でロープを伝い、井戸の底へと降りていった。
足が水面に触れるか触れないかというところで、不意に水の中から「プルン」とした感触が足首に絡みついた。
「わっ……」
現れたのは、透明度の高い、大きな水スライムだった。
それも一体ではない。リルドの清らかな魔力に惹かれたのか、数体のスライムたちが一斉に這い上がり、彼の足から腰へと、ひんやりとした感触で纏わりついてきた。
「……ぁ……ちょ……。ダメだよ、それはお散歩の服なんだから……」
リルドは困ったように声を漏らし、護身用に持ってきた掃除用のモップで、スライムの核を傷つけないように優しく、けれど的確に「ツンツン」と突いた。
「ほら、そこはくすぐったいから。元の場所に戻ってね」
がむしゃらに生きていた頃のスキルのおかげで、スライムの急所は手に取るようにわかる。リルドがモップで優しく誘導すると、スライムたちは満足したのか、名残惜しそうに水底へと帰っていった。
夕刻、リルドは少しだけ濡れた服を気にしながら、ギルドへと戻った。
「ただいま、受付さん。井戸にはスライムが住み着いていたよ。少しお話しして大人しくしてもらったから、もう大丈夫だと思うな」
「おかえりなさい! ……えっ、スライムを説得したんですか?」
受付嬢が驚いて顔を上げると、そこには夕陽を背負い、服が水に濡れてうっすらと肌が透けてしまったリルドが立っていた。
昨日新調したばかりの、質の良い白いシャツが、彼のしなやかで美しい体のラインを露骨に強調してしまっている。
「……あ、あの、リルドさん……!」
「ん? どうしたの、顔が赤いよ? 井戸の中、少し冷たかったけど、僕は大丈夫だよ」
リルドがいつも通りの無防備な笑顔で首を傾げると、受付嬢は「……いえ、なんでもないですっ! 報酬です、早く帰ってお着替えしてください!」と、顔を真っ赤にして視線を泳がせながら、大急ぎで手続きを済ませた。
「あはは、ありがとう。お散歩の後の着替えは気持ちいいもんね」
リルドは不思議そうに報酬を受け取ると、ギルド中の冒険者たちの視線がなぜか自分に集中していることにも気づかず、軽やかな足取りで家路についた。
「さて、僕は今夜は、風邪を引かないように温かいミルクティーでも淹れて、ゆっくり本でも読もうかな」
万年Fランク冒険者の日常は、無自覚な美しさを街に振りまきながら、穏やかに更けていく。




