93話
翌朝、リルドがギルドの掲示板の前に立つと、背後から刺すような視線を感じた。
一部の冒険者たちは、実力もないのに(と彼らは思っている)ひょうひょうと依頼をこなすリルドのことを、あまり快く思っていなかったのだ。
「……ふん、またあんな端っこの掃除依頼かよ」
リルドはそんな声を聞き流しながら、『神殿の入り口の石畳の清掃』という依頼札を剥がし、受付へと持っていった。
「おはよう、受付さん。今日は神殿の石畳を綺麗にしてくるよ」
「おはようございます、リルドさん。あそこは苔が滑りやすくなっていますから、足元に気をつけてくださいね」
リルドは鼻歌を歌いながら、街外れの古い神殿へと続く緩やかな坂道を歩き始めた。
背後には、先ほどの「よく思っていない冒険者」が、足音を殺して付いてきている。リルドは「視野拡大」や「聴覚向上」を使うまでもなく、その未熟な気配に気づいていたが、特段気にする様子もなく神殿へと到着した。
「さて、お散歩ついでにピカピカにしようかな」
リルドは手際よく作業を開始した。かつて極めたスキルツリーの恩恵か、無駄のない動きで石畳の隙間の苔や泥を掻き出し、魔法を使うまでもなく「清掃」そのものを一つの芸術のように進めていく。影から覗いていた冒険者は、そのあまりの速さと正確さに、舌打ちしながらも見入っていた。
清掃を終え、夕暮れ時の帰り道を歩いていると、前方から必死の形相で走ってくる別の冒険者の姿があった。
「助けてくれ! 森から『狂乱の黒豹』が出てきた!」
その声と同時に、冒険者の背後から黒い影が音もなく跳躍する。
リルドは、後ろを向いたまま。
腰に下げた、いつも持っている使い古しのロングソードに、そっと手を当てた。
「……お散歩の静寂を乱すのは、良くないな」
――シュパッ。
抜剣の音すら聞こえないほどの神速の一閃。
魔獣が鋭い爪をリルドの背中に突き立てようとした瞬間、その手首が空中で綺麗に切断され、地面に転がった。
「グギャアアア!?」
のたうち回る魔獣の前に、リルドはゆっくりと振り返り、冷ややかな、しかしどこか慈悲深い瞳で魔獣を見据えた。
「このまま静かに森へ逃げ帰るなら、切り落とした手首、元に戻してあげてもいいけど。どうする?」
かつて「魔獣言語」を極め、治癒魔術さえもツリーの果てまで埋めたリルドの言葉に、魔獣は本能的な恐怖で身を震わせ、平伏した。リルドが切断面に手をかざすと、淡い光と共に手首は接合され、魔獣は一目散に森の奥へと消えていった。
影で見守っていた「気に食わない冒険者」は、その圧倒的な実力を前に、腰を抜かして震えていた。
夕刻、リルドはいつも通りの穏やかな表情でギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。石畳の掃除、終わったよ。滑りにくくなったから、もう安心だね」
「おかえりなさい、リルドさん! お疲れ様です。……あれ、さっき戻ってきた冒険者たちが『神様が剣を振ったのを見た』とか変なことを言ってますけど、何かありました?」
「あはは、きっと夕陽の悪戯じゃないかな。眩しかったからね」
リルドは報酬を受け取ると、満足げに微笑んでギルドを後にした。
「さて、僕も今夜は、綺麗な石畳を思い出しながら、ゆっくりとお茶を淹れて一息つこうかな」
万年Fランク冒険者の日常は、牙を剥く災厄さえも「お散歩の作法」でいなし、静かに更けていく。




