73話
リルドがギルドの扉を開けると、そこにはいつも通りの、どこか気の抜けたような穏やかな空気が流れていた。
昨日の「愛の告白騒動」や「絶世の美青年」の噂も、新しい一日の喧騒に飲み込まれ、今や誰の口からも出てこない。
「昨日の夢に巨大なプリンが出てきてさ……」
「今日のランチ、ギルド飯の新作らしいぜ。楽しみだな」
そんな他愛もない会話が飛び交う中、リルドは掲示板の前へ。
「今日は……これとこれかな。久しぶりに大物を狙ってみよう」
彼が剥がしたのは、基本の『薬草採取』と、長らく放置されていた『フリアの池の主釣り』の二枚だった。
「おはよう、受付さん。今日は池の方まで行ってくるよ」
「おはようございます、リルドさん。……えっ、フリアの池の主ですか? あれ、もう何年も誰も釣り上げられていないんですよ。糸を切られるだけじゃなくて、釣り竿ごと持っていかれるって有名なんですけど……受理しますね。お怪我のないように!」
「うん、お魚さんとお話ししてくるよ。行ってきます」
リルドはまず、池へと続く道すがら、木漏れ日の中で輝く薬草を丁寧に摘み取った。籠の中は、爽やかな緑の香りと、ほんのりとした魔力の輝きで満たされていく。
やがて到着した「フリアの池」は、鏡のように静かな水面を湛えていた。
リルドは手ぶらで岸辺に立つと、足元に落ちていた手頃な長さの木の枝を拾い上げた。
「(さて、これでいいかな)」
彼は願うように心の中で念じた。すると、手元に丈夫な釣り糸と、鈍く光る特製の釣り針が現れた。彼はそれを手際よく木の枝に結びつけ、即席の、しかし世界に二つとない強靭な釣り竿を作り上げた。
餌は、先ほど摘んだ薬草の根元にいた小さな虫。
「……お待たせ。お腹、空いてるだろう?」
ひょいと糸を投げ入れると、数分もしないうちに、水面が爆発したかのような激しい水しぶきが上がった。
凄まじい力で引き込まれる糸。普通の冒険者ならここで竿を折られるところだが、リルドは「聴覚向上」で水中の振動を読み取り、魚の動きを完璧に先読みしていた。
「……暴れなくても大丈夫だよ。少しだけ、街のみんなに顔を見せてあげて」
リルドがそっと魔力を糸に伝わせると、暴れていた「主」――体長二メートルを超える黄金の巨大魚――は、不思議と大人しくなり、吸い寄せられるように岸へと上がってきた。
夕刻、リルドは巨大な黄金の魚を、魔法で重さを消した状態でひょいと担ぎ、ギルドに姿を現した。
「ただいま、受付さん。池の主、連れてきたよ」
「おかえりなさ……えええええええっ!? 何ですかその巨大な黄金の塊は!? まさか、本当にフリアの池の主!? しかも、その即席すぎる木の枝で釣ったんですか!?」
ギルド中の冒険者たちが「ランチ」や「夢」の話を止め、驚愕の表情でリルドを囲んだ。
「あはは、運良く食い付いてくれたんだよ。薬草もたくさん採れたし、いいお散歩だった」
リルドは驚きで固まっている受付嬢から、多額の報酬金を受け取ると、いつものようにふわりと微笑んでギルドを後にした。
「さて、僕(僕)も今夜は、主が教えてくれた美味しい湧き水で、温かいスープでも作ろうかな」
万年Fランク冒険者の日常は、今日も誰にも知られない超常の成果を「ただの幸運」に変えて、穏やかに更けていく。




