38話
翌朝、リルドは窓を開けて深く息を吸い込んだ。澄んだ空気の中に、少しだけ湿り気を含んだ風が混じっている。
「今日は、少し遠出になっても大丈夫そうだね」
リルドはいつものように、賑わい始めたギルドへと足を運んだ。館内では、昨日「聖者に救われた」という魔術師の少女が、必死に誰かを探している様子だったが、リルドはそっと気配を消して掲示板へと歩み寄る。
「さて、今日はまとめてやってしまおうかな」
彼が流れるような動作で剥がしたのは、三枚の依頼札だった。
『薬草採取』、『爽快石の採取』、そして『ウルフの毛の納品』。
三枚を重ねて受付へ持っていくと、受付嬢が目を丸くした。
「おはようございます、リルドさん! 今日は三つもですか? しかも爽快石は、魔力が溜まりやすい少し険しい場所まで行かないといけませんよ?」
「おはよう。うん、ちょうどウルフたちがいる辺りに爽快石も出ているはずだからね。お散歩のついでに集めてくるよ」
「……お散歩、ですか。ふふ、リルドさんらしいですね。気をつけていってらっしゃい!」
リルドはまず、いつもの草原へと向かった。
彼が姿を現すと、茂みから数頭のウルフたちが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「やあ、みんな。今日も少しだけ、毛を分けてくれるかな?」
リルドが手慣れた手つきでブラッシングを始めると、ウルフたちはうっとりと目を細め、お腹を見せて甘え出す。あっという間に、籠の中は純白の柔らかな毛でいっぱいになった。
そのまま、彼はウルフたちに案内されるように、崖沿いの岩場へと移動した。
そこには、空気を浄化する効果があるという、淡い水色の『爽快石』が結晶化していた。
「よしよし、いい輝きだね」
普通ならピッケルで力任せに砕くところだが、リルドが石の表面に指先で軽く触れ、魔力の波長を合わせると、石は自ら「ポロリ」と、最も美しい形のままリルドの手のひらに落ちてきた。
最後に、その周辺に生えていた最高品質の薬草を丁寧に摘み取り、リルドの籠はあっという間に三つの依頼品で満たされた。
帰り道、リルドがのんびりと森の小道を歩いていると、少し離れた広場の方から激しい魔法の爆発音が響いてきた。
「くそっ、こいつの皮、魔法が通じねえ!」
「後ろに回れ! タンク、持ちこたえてくれ!」
そこでは、Bランクの冒険者パーティーが、全身を鋼鉄のような鱗で覆った**『アイアン・バイソン』**と激闘を繰り広げていた。バイソンの突進は凄まじく、大盾を構えた重戦士がじりじりと後退させられている。
「あーあ。そんなに力んじゃうと、せっかくの盾が曲がっちゃうな」
リルドは少し離れた場所で立ち止まると、足元から小さな、角張った小石を一つ拾い上げた。
そして、バイソンが最大出力の突進を開始しようと前脚を地面に叩きつけた瞬間、指先でその小石を「ピンッ」と弾いた。
シュンッ――。
小石は目にも止まらぬ速さでバイソンの膝の関節部分を正確に叩いた。
「モウッ!?」
バランスを崩した巨体は、そのまま前のめりに派手に転倒し、自分の突進の勢いで地面を滑りながら目を回して沈黙した。
「あ、今のうちに帰ろう。これ以上ここにいると、見つかっちゃうからね」
リルドは驚愕に目を見開くBランク冒険者たちの視線を避けるように、森の影を縫ってスルスルと街の方へ向かった。
夕刻、リルドはギルドに戻り、三つの依頼品を受付に並べた。
「ただいま、受付さん。全部揃ったよ。爽快石も、いいのが見つかった」
「おかえりなさい! ……ええっ、この爽快石、不純物が全くなくて透き通ってる……! ウルフの毛も、まるで洗ったみたいに綺麗ですね。……あ、そういえば! さっきBランクのベテランさんたちが『見えない神の一撃が牛を倒した!』って震えながら帰ってきましたよ?」
「神の一撃? ……ははは、牛さんが石に躓いただけじゃないかな。今日は風が強かったしね」
リルドはとぼけた顔で、少し多めの報酬を受け取ると、ふと窓の外を見た。
「さて、明日は何をしようかな。庭の草むしりもいいかもしれないね」
万年Fランク冒険者の日常は、今日も誰にも気づかれない奇跡を置き去りにしたまま、穏やかに過ぎていく。




