第342話
翌朝、リルドの家はカレーの残り香と、窓から差し込む柔らかな光に包まれていました。
昨晩の無水カレーは、一晩寝かせたことでさらにコクが増し、鍋の中で宝石のような深い色合いを放っています。リルドは鼻歌を歌いながら、厚切りの食パンを軽く焼き、その上に温め直したカレーをたっぷりと乗せました。
「おはよ、クロ。……よし、朝ごはんにしようか」
『キー!』
サクッとしたトーストの食感と、野菜の旨味が凝縮されたカレーが口の中で溶け合います。
「(……んー、やっぱり一晩置くと、味が落ち着いてもっと美味しくなるね)」
『リルドよ。お主、無意識に鍋の中に「時間の停滞」と「熟成」の術式を編み込んでおるぞ。本来なら三日は寝かせねば出ぬ深みが、一晩で完成しておるではないか。お主の食欲は、時空の理さえ歪めるのか……』
「あはは、ただの『美味しくなれ』っていうおまじないだよ」
朝食を終え、リルドはいつも通り身支度を整えて家を出ました。
今日は特に依頼を受ける予定もありませんでしたが、足が自然とギルドへと向かいます。
ギルドの扉を開けると、そこにはまた昨日とは違う「日常」がありました。
「お、リルド! おはよう!」
「おはよう、ゴルドさん」
挨拶を交わしながら受付へ向かおうとすると、昨日の「肩揉み隊」の一人である巨漢の戦士が、ニヤニヤしながら手招きをしていました。
「おいリルド、こっち来いよ。今日はいい出物があるんだ」
リルドが誘われるままソファに座ると、彼らが差し出してきたのは、見たこともないほど立派な**「完熟のマンゴー」**でした。
「隣国の商隊から安く譲ってもらったんだ。昨日の肩揉みのお礼に、お前にやるよ。お前、果物好きだろ?」
「わあ、いいの? ありがとうございます!」
リルドが嬉しそうにマンゴーを受け取ると、その瑞々しい香りがパッと広がりました。彼はそれを大事そうに抱え、掲示板の隅っこを眺めました。
『【緊急】裏通りの井戸の底に、誰かが落とした「銀のさじ」を拾ってほしい』
「……今日はこれにしよう。お昼ごはんまでに終わらせて、帰ってこのマンゴーを食べようかな」
リルドが依頼札を剥がすと、受付嬢が「またそんな地味な依頼を……」と苦笑いしながらスタンプを押してくれました。
最強の力を持ちながら、井戸の底で銀のスプーンを探し、報酬の銅貨と貰い物の果物で最高に幸せな気分になる。
世界を救う英雄譚はどこにもないけれど、リルドの心は今日も、小さな喜びで満たされていました。
万年Fランクの日常は、甘いマンゴーの香りを心待ちにしながら、今日もどこまでも穏やかに、そして優しく過ぎていくのでした。




