第339話
翌朝、リルドは窓辺で「七色苔」に水をやりながら、ふと思いついた。
「今日は……依頼を受けるんじゃなくて、お手伝いをしてみようかな」
いつもお世話になっているギルドの受付嬢が、最近の「たくあん騒動」による冒険者たちの活性化で、事務作業に追われて目が回るほど忙しそうだったのを思い出したのだ。
リルドはいつもの籠を置き、身軽な格好でギルドの扉を叩いた。
「おはよう、受付さん。今日はもしよかったら、僕に受付の端っこを手伝わせてくれないかな? 書類の整理とか、簡単な案内ならできると思うんだ」
「えっ、リルドさんが!? ……助かるわ! 今、遠征組の帰還報告が重なって、猫の手も借りたい状態なの。お願い、こっちのカウンターに入って!」
こうして、史上最強のFランク冒険者による「一日受付係」が始まった。
ギルドにやってくる冒険者たちは、カウンターの中にリルドがいるのを見て目を丸くした。
「おい、リルド。お前、ついに引退して職員になったのか?」
「あはは、今日だけのお手伝いだよ。はい、これ受領印。お疲れ様」
リルドが書類にポンと判を押すたび、彼の指先から無意識に漏れ出た魔力が、乱雑に書かれた報告書の誤字脱字を自動修正し、読みやすく整理していく。さらには、彼が触れた依頼札は、冒険者が手にした瞬間に「その人の実力に最適な加護」を微かに宿すようになった。
「……なんだ? この依頼札、持つとやる気が湧いてくるな!」
「俺もだ。なんだか今日は、ゴブリン相手に負ける気がしねえぞ!」
ギルドの中は、リルドがいるだけで不思議と殺伐とした空気が消え、柔らかな陽だまりのような安心感に包まれていった。
お昼時、行列が途切れた一瞬。リルドは持参したお茶を淹れ、隣の受付嬢に差し出した。
「はい、お疲れ様。少し休んで」
「……はぁぁ、ありがとう。リルドさんが隣にいると、なんだか仕事が全然疲れないわ。むしろ、どんどん元気になっていく気がする……」
彼女は知らない。リルドが座っているだけで、ギルド全体が「超高濃度の回復結界」と化していることに。
『……リルドよ。お主、受付に座っておるだけで、この街の治安を数十年分維持するほどの徳を積んでおるぞ。我も暇すぎて、お主の腰で居眠りしてしまいそうだ』
ラッファードが鞘の中で欠伸をするような音を立てる。
午後のひととき。
特に大きな事件も、魔獣の襲来もない。ただ、冒険者たちが笑顔で報告に来て、リルドが「よかったね」と微笑んで判を押す。そんな、なんてことのない時間がゆっくりと流れていった。
夕暮れ時、リルドはエプロンを外してカウンターを出た。
「今日はありがとう、リルドさん。本当に助かったわ。おかげで定時に帰れそう!」
「どういたしまして。僕も楽しかったよ」
報酬代わりに貰った、ギルドの食堂特製のクッキーを一袋手に、リルドは茜色の道を歩き出した。
特に何もない一日。世界を救ったわけでも、伝説を刻んだわけでもない。
けれど、誰かの「お疲れ様」を間近で聞いたその心地よさが、リルドの胸を温かく満たしていた。
万年Fランクの日常は、役割を変えても変わらぬ穏やかさを保ちながら、今日も静かに夜の帳へと溶けていく。




