第338話
翌朝、リルドは差し込む朝日の暖かさで、いつも通りゆっくりと目を覚ました。
窓辺の「七色苔」は、主人の帰還を喜ぶように淡く、それでいて力強く虹色の光を放っている。学術都市の重石(石板の破片)の影響か、部屋の空気は驚くほど澄み渡り、深呼吸をするだけで体中の魔力が滑らかに整っていく。
「ふふ、やっぱり家が一番だね。クロ、お腹空いた?」
『キー!』
「(よしよし、今日はお土産の乾燥イチジクを混ぜてあげよう)」
朝食を済ませ、軽く庭の草むしりをした後、リルドは特に急ぐ様子もなく、散歩がてらギルドへと向かった。今日はこれといって依頼を受けるつもりも、誰かと待ち合わせているわけでもない。ただ、いつもの場所に顔を出し、いつもの空気に触れる。それだけの「何もない一日」だ。
ギルドの重い扉を引くと、中からは馴染みの喧騒が溢れ出してきた。
「おい、昨日のたくあん、あれは一体何だったんだ! 食べた瞬間、二十年前の腰痛が消えちまったぞ!」
「馬鹿野郎、俺なんて魔力回路が倍に広がって、火魔法が爆発しそうなんだ!」
昨日の「お土産」の余韻で大騒ぎしている冒険者たちを横目に、リルドは気配を消して、すーっと受付カウンターの端へと滑り込んだ。
「おはよう、受付さん。今日は挨拶に来ただけなんだ」
「あ、リルドさん! おはようございます。……ふふ、昨日のお土産のせいで、うちのギルドの戦力が底上げされちゃって、マスターが頭を抱えて喜んでますよ」
受付嬢が笑いながら、リルドの分のギルド維持費(Fランクの少額なものだ)の処理をする。
リルドはそのまま、掲示板の前をゆっくりと歩いた。
高ランクの討伐依頼、派手な護衛任務……それらを眺めながら、「へぇ、大変そうだなぁ」と他人事のように感心する。
「(……あ、でも、あの掲示板の角の画鋲、少し緩んでる)」
リルドは指先でトントン、と画鋲を押し込んだ。
ただそれだけで、掲示板全体に「物理的摩耗を拒絶する」ほどの強力な固定魔法が無意識に上書きされたが、本人は「よし、これで落ちないね」と満足げだ。
そのままギルドの隅っこにあるベンチに座り、学術都市で買った「花の図鑑」をパラパラと捲る。
誰に話しかけるでもなく、誰に注目されるでもない。
最強の力を持つ青年が、ただのFランクとして風景に溶け込んでいる。
お昼時になり、少しお腹が空いてきたリルドは、腰を上げた。
「じゃあ、受付さん。また明日。今日はのんびり川原でも歩いて帰るよ」
「はい、お疲れ様でした。リルドさん、良い午後を!」
ギルドを出ると、春の風が心地よく吹き抜けた。
夕食の献立を考えながら、川原の石を拾う。
世界を救うことも、伝説を刻むこともないけれど、リルドにとってはこれが、何物にも代えがたい「最高の一日」だった。
万年Fランクの日常は、そんな「何もない幸せ」を大切に抱きしめながら、今日も静かに、そして豊かに流れていく。




