第337話
学術都市の喧騒が背後で遠ざかる中、リルドは数日ぶりに住み慣れた自分の街へと戻ってきました。
街の門をくぐると、潮の香りと森の匂いが混ざり合った、いつもの空気が鼻をくすぐります。
「ただいま。やっぱり、ここが一番落ち着くね、クロ」
『キー!』
肩の上でクロが嬉しそうに羽を広げ、腰のラッファードも心なしかホッとしたように鞘を鳴らしました。
『ふむ……。あの都市の賢者どものギラギラした視線に比べれば、この街ののんびりした空気は我の刀身にも優しいわ』
リルドはそのまま、報告のために冒険者ギルドの扉を押し開けました。
「ただいま戻りました、受付さん」
「あら! リルドさん、おかえりなさい! 隣国への護衛任務、お疲れ様。……って、ちょっと待って。今、学術都市のギルドから超特急の魔導通信が届いたところよ」
受付嬢は、真っ青な顔で通信紙を握りしめていました。
「えーっと……『神代の石板を解呪し、図書館に伝説の聖域を築き、一人の少女を大賢者候補に変貌させたFランク冒険者を、国家予算の半分を投じてでも拘束……じゃなくて、引き留めろ』って書いてあるんだけど。……心当たり、あるわよね?」
「あはは、人違いじゃないかな。僕はただ、お土産に大根を買ってきただけだよ。ほら、これ」
リルドは籠から、学術都市の重石(石板の破片)で熟成された、黄金色に輝く「究極のたくあん」を取り出しました。
その瞬間、ギルド中に「全魔力が活性化し、寿命が5年延びる」ほどの芳醇な香りが広がり、昼間から酒を飲んでいた荒くれ者たちが一斉に背筋を伸ばして居住まいを正しました。
「これ、ギルドの皆さんで食べてください。旅の無事のお礼です」
「……リルドさん。これ、一切れで王族の晩餐会が開けるレベルの代物な気がするんだけど……。まあいいわ、あなたの『お土産』だものね。受理しておくわ」
受付嬢が震える手でたくあんを受け取ると、リルドは満足そうに掲示板へと歩み寄りました。
そこには、彼が不在の間も変わらずに貼られ続けていた、隅っこの依頼札。
『【定期】窓辺の七色苔の剪定と、周辺の掃除』
「よし、明日はこれにしよう。留守にしてたから、うちの子たちも寂しがってるだろうしね」
リルドが依頼札を剥がすと、ギルドマスターが奥の部屋からこっそり顔を出し、彼が踏みしめた床の跡(無意識に浄化された聖域)を拝むように眺めていました。
「さて、帰って七色苔に水をあげようかな」
最強の力を持ちながら、学術都市を伝説の一ページで塗り替えてきた青年は、今日も一人のFランクとして、愛用の籠を背負って夕暮れの街を歩いていきます。
万年Fランクの日常は、故郷の温かさに包まれながら、また穏やかに、そして誰にも邪魔されない「普通」へと戻っていくのでした。




