第333話
刻まれる轍、変わらぬ歩み
リルドが直したチェスセットをギルドの片隅に置いてから数日。
ギルドの雰囲気は、ほんの少しだけ変わっていた。荒くれ者たちが怒鳴り合う代わりに、「待て、その一手は……」と盤を囲んで熟考する静かな時間が生まれていたのだ。
リルドはそれを、いつものように壁際から「よかった」と眺め、掲示板の前に立った。
「(さて、今日は……)」
いつもなら迷わず「薬草採取」を選ぶところだが、リルドの指先が、ふと一枚の依頼札で止まった。それは、これまでの彼なら選ばなかったような、少しだけ「外の世界」へ踏み出す内容だった。
『【長期】隣国の学術都市までの、巡礼団の荷馬車護衛。※ただし、道中の野花や地質の調査記録を求む』
「……隣国。少し遠いけど、あっちの方にはまた違う色の石があるかな」
『ほう、お主にしては珍しい。ついにこの街を離れる気になったか』
ラッファードが鞘の中で、期待に震えるような音を立てる。
「離れるんじゃないよ、ラッファード。ちょっと遠くにお散歩に行くだけ。受付さん、これ受けてもいいかな?」
「リルドさん! ええ、もちろんですとも! あなたが護衛(?)についてくれれば、これほど安心なことはありませんわ」
受付嬢は「これで学術都市への道中の魔獣も絶滅するわね……」と小声で呟きながら、素早くスタンプを押した。
数日後。リルドは巡礼団の馬車の最後尾で、のんびりと歩いていた。
周囲には、彼を「ただの荷物持ちのFランク」と侮る他国の傭兵たちも混ざっている。
「おい、Fランク! 足を引っぱるんじゃねぇぞ。この先は『死の荒野』と呼ばれる危険地帯だ。お前のような仔兎が来るところじゃねぇ」
「あはは、すみません。でも、見てください。ここの砂、少しだけ青い粒が混ざっていて、とっても綺麗ですよ」
リルドが掌に乗せた砂。それは、かつて大魔法使いが残した魔力の残滓が結晶化した超高純度の魔鉱石だったが、彼はそれを「お土産の瓶に詰めようかな」と楽しそうに笑っている。
その夜。予告通り、荒野の影から巨大な影――伝説の捕食者「ヴォイド・ワーム」が這い出してきた。傭兵たちが絶望し、剣を抜くことさえ忘れたその時。
リルドは焚き火の番をしながら、パチン、と指を鳴らした。
「……あ、ダメだよ。今はスープを作ってるんだから、砂を上げないで」
ただそれだけ。
リルドが放った「音」の振動は、空間の理を書き換え、ヴォイド・ワームの存在そのものを「そこにはいなかったこと」として霧散させた。
「……? 消えた……?」
呆然とする傭兵たちを余所に、リルドは完成したスープを小皿に分けた。
「皆さん、スープできましたよ。今日はいい出汁が出てます」
最強の力は、相変わらず「料理の邪魔」を退けるためだけに使われる。
けれど、彼の足跡は確実に、この街を超えて世界へと広がろうとしていた。
万年Fランクの日常は、少しだけ足を伸ばした旅路の中で、知らず知らずのうちに世界の理を整え、新しい「綺麗なもの」を探して続いていく。




