第327話
眩い光に包まれた朝の静寂。
リルドが目を覚ますと、そこにはいつも通りの、少し傾いた天井と、使い古された簡素な家具があった。
「……ん、あれ?」
慌てて隣を確認するが、昨日まで床で胡坐をかいていた魔王の姿はない。
庭を窓から覗いてみても、天を突くような世界樹や聖女の白い天幕はなく、そこにあるのは昨日植えたばかりの「七色の種」から出た、指先ほどの小さな、愛らしい芽だけだった。
「なんだ……夢だったのか」
頬を撫でる風は心地よく、部屋には魔王の禍々しい気配も、聖女の神々しい香りも残っていない。
腰に立てかけたラッファードが、眠たげな声を上げた。
『……リルドよ、どうした? お主、寝言で「魔王様、分別して」などと奇妙な指示を出しておったぞ。よほど変な夢でも見たのか?』
「あはは……。うん、なんだか世界中のすごい人たちが、うちに居候しに来る夢だよ」
『ふん、馬鹿馬鹿しい。お主のような万年Fランクの家に、そんな大層な連中が来るはずなかろう。夢は夢だ、早く支度をせよ』
リルドは可笑しくなって、肩に乗ってきたクロを撫でた。
「そうだね。さて、今日こそ本当に『裏通りのドブさらい』の依頼を受けに行こうかな。……現実は、これくらいがちょうどいいや」
リルドはいつものように身支度を整え、お気に入りの籠を背負って家を出た。
ギルドまでの道すがら、街の人々に挨拶を交わす。昨日のパニックも、黄金の飛行船もどこにもない、穏やかで退屈な、最高の一日が始まっていた。
ギルドの扉を開けると、中はいつも通りの活気に満ちていた。
「お、リルド! 今日も朝から精が出るな!」
「おはよう、ゴルドさん」
掲示板の前に行くと、昨日夢の中で剥がしたはずの『ドブさらい』の依頼が、確かにそこにあった。
「……よかった。人違いも、魔王のいびきも、ここにはないんだ」
リルドは心底ホッとした様子で依頼札を剥がし、受付へと向かった。
窓口では、いつもの受付嬢が忙しそうに書類を整理している。
「あ、リルドさん。おはよう。今日はそのドブさらいね? 昨日の魔力異常の調査じゃなくていいの?」
「うん、あはは。僕にはこっちの方がお似合いだよ」
受付嬢と軽い冗談を交わし、リルドはギルドを後にした。
青空の下、彼は鼻歌を歌いながら現場へと向かう。
『……リルド、なぜそんなに嬉しそうなのだ。たかがドブさらいだろう?』
「ううん。ただ、いつもの平和が一番贅沢なんだなって、改めて思っただけだよ」
最強の力を持ちながら、彼は今日もFランクとして、世界で一番贅沢な足踏みを楽しんでいる。
夢の中で魔王を顎で使った記憶を、密かな宝物のように胸に仕舞い込んで。
万年Fランクの日常は、何も起きない奇跡を噛み締めながら、今日も穏やかに、どこまでも優しく更けていく。




