第325話
翌朝、リルドはこれまでにない重苦しい空気で目を覚ました。
視線を落とすと、ベッドの脇で胡坐をかき、腕を組んだまま凄まじい威圧感を放って眠る魔王の姿があった。
「……おはよう、魔王様。あの、椅子を使っていいんだよ?」
「ぬぅ……。貴様、目覚めて早々俺様の結界を無意識に跨ぐとは相変わらずだな。椅子など軟弱な。魔王たるもの、常に戦場を想定して地を這うのだ」
『……ただの床寝ではないか。見栄を張るのも大概にせよ』
ラッファードが呆れたように念じる中、リルドはいつも通り朝食の準備を始めた。
魔王は食卓に並んだ質素な野菜スープとパンを見て「毒か?」と疑っていたが、一口食べた瞬間、その芳醇な旨味(という名のリルドの無自覚な浄化魔力)に目を見開いた。
「な、なんだこれは……。我が城の専属シェフが作った竜肉のソテーより、魂が震えるぞ……!」
「あはは、ただの近所の畑の野菜だよ。さあ、冷めないうちに食べて」
準備を終え、リルドがいつものようにギルドの扉を開けようとすると、背後から魔王がマントを翻して割り込んできた。
「どけ、リルド。俺様が先に道を作ってやる」
「いいよ、普通に入れば……」
ギルドの扉が勢いよく開くと、昨日の恐怖が冷めやらぬ冒険者たちが一斉に「ひいっ!」と椅子から転げ落ちた。受付嬢は引きつった笑顔で、マスターはもはや悟りを開いたような顔で二人を迎えた。
「あ、リルドさん……おはようございます。……と、魔王様も、おはようございます……」
「うむ。リルド、今日の依頼はどうする。世界を滅ぼさんとする邪神の封印か? それとも冥界の門の番犬の首か?」
魔王が鼻息荒く掲示板を指差すが、リルドが剥がしたのは、一番下の古ぼけた依頼札だった。
『【緊急】迷い込んだ「子ヤギ」が屋根から降りられません。助けて!』
「今日はこれ。高いところ、怖いだろうからね」
「……貴様、俺様を連れてヤギを救いに行くというのか!?」
『ふふん、魔王ともあろう者がヤギ一匹に腰が引けているのか? 情けないな』
「貴様、そのなまくら……! 良いだろう、ヤギだろうが神獣だろうが、俺様が根こそぎ救ってやるわ!」
移動中、魔王は「俺様の歩く道に塵一つ残さぬ!」と、漆黒の魔圧で道端の小石を粉砕しようとしたが、リルドに「石さんが痛そうでしょ」とたしなめられ、結局は大人しくリルドの後ろを付いて歩く羽目になった。
現場に着くと、小さな民家の屋根の上で、震える子ヤギが一匹。
魔王は「俺様が空間ごと転移させてやる」と物騒な魔法を唱えようとしたが、リルドがひょいと空を歩くように屋根に登り、優しく抱きかかえて降りてきた。
「はい、もう大丈夫だよ。お母さんのところへお帰り」
「……。貴様、今の足運び……時空を数ミリ固定して踏み台にしたな? 無造作すぎるぞ」
夕暮れ時、リルドは子ヤギの飼い主からお礼に貰った「特製チーズ」を魔王と分け合いながら、ギルドへ戻った。
「ただいま、受付さん。ヤギさん、無事にお家に帰ったよ」
「お疲れ様です……。あの、魔王様が後ろでヤギの真似をして『メェ』と呟いているように見えるのですが、私の幻覚でしょうか……?」
「あ、それは多分、チーズが美味しかったんだと思うな」
報告を終え、夜道を歩く二人。魔王は不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、リルドの家が見えてくると、どこか安心したような顔をした。
「リルドよ。貴様の家は狭いが……魔力密度が異常に高いな。あの庭の黄金の芽も、昨晩より三メートルは伸びているぞ」
「えっ、本当? 明日はもっとたくさんお水をあげなきゃ」
家に入ると、魔王は当然のようにソファを占領し、リルドが用意したお古の毛布に包まった。
「……明日も付いていくぞ。貴様がヤギに食べられないようにな」
「あはは、ありがとう。おやすみ、魔王様」
最強のFランクの家に、最強の居候(魔王)が完全に馴染み始めた。
万年Fランクの日常は、魔界の王を「ヤギ救出の助手」に変えながら、今日も賑やかに、そして少しだけ騒がしく更けていく。




