32話
翌朝、リルドは窓辺で小さく芽吹いた鉢植えに「おはよう」と声をかけ、いつものようにギルドの扉をくぐった。
ギルド内では、昨日の「原因不明で倒れたワイドノックキック」の噂がまだ尾を引いていたが、彼はそんな騒ぎをすり抜け、掲示板の最も端、誰も見向きもしないような古い依頼が並ぶ場所へと手を伸ばした。
「今日は……あ、これだ。久しぶりにこの辺りを歩いてみようかな」
彼が剥がしたのは、『弥生草の採取』という依頼書だった。リルドはそれを大切に持ち、受付へと向かった。
「おはよう、受付さん。今日はこれをお願いするよ」
「おはようございます、リルドさん。……あ、弥生草ですね。場所は**『ルナルナ通り』**。街の外れの、少し古い石畳が残る美しい通りですけど……あそこ、今は少し魔獣の気配が濃くなっているって報告があります。大丈夫ですか?」
「うん、あそこの石畳は歩いていて気持ちがいいからね。お散歩がてら、ゆっくり見てくるよ」
受付嬢に笑顔で送り出され、リルドは街の北西に位置する「ルナルナ通り」へと向かった。
ルナルナ通りに到着すると、そこにはかつての宿場町の名残を感じさせる、苔むした風情ある石畳が続いていた。
リルドは「土木・清掃」の経験から、石の隙間や日当たりの具合を読み取り、弥生草が好む場所をすぐに見つけ出した。
「お、あったあった。今年も綺麗に咲いてるね」
淡い桃色の小さな花を咲かせる弥生草。リルドは指先に微かな魔力を通し、草にストレスを与えないよう、優しく、かつ鮮度を保ったまま摘み取っていく。
「よし、これで納品分はぴったりだ」
彼が籠に薬草を収め、最後の一本を丁寧に整えた時、依頼は完璧に完了した。
帰り道、リルドがルナルナ通りの石畳をのんびりと踏みしめながら歩いていると、前方から激しい足音が響いてきた。
「はぁ、はぁ……っ! ど、どけ! 逃げろおぉ!!」
走り抜けていったのは、数人のDランク冒険者たちだった。装備は泥だらけで、一人の盾には何かに噛みつかれたような大きな跡がついている。
彼らはリルドが立っていることにも気づかないほどの必死な形相で、街の方へと猛スピードで走り去っていった。
「おや、あんなに急いで……。忘れ物でもしたのかな?」
リルドは首を傾げ、彼らが走ってきた背後の森の奥を眺めた。そこには、彼らを追い払って満足したのか、巨大な魔獣が一本の樹の陰で鼻を鳴らしていたが、リルドが「静かにね」と優しく一瞥をくれると、魔獣は急に大人しくなり、そのまま丸まって昼寝を始めてしまった。
夕方、リルドはギルドに戻り、窓口に籠を置いた。
「ただいま、受付さん。弥生草、持ってきたよ。ルナルナ通りは今日も風が心地よかったな」
「おかえりなさい! ……えっ、リルドさん、無事だったんですか!? さっきDランクのパーティーが『巨大な魔獣に襲われた!』って真っ青な顔で帰ってきたんですよ?」
「ええ? 僕は特に何も。あ、でも道端で数人の冒険者さんが走っていくのは見たよ。マラソンの練習でもしてたのかな」
リルドはとぼけた様子で報酬の銅貨を受け取ると、満足げに微笑んだ。
「はい、これが今回の報酬です。……リルドさんの弥生草、本当に香りが良くて最高品質ですね」
「ありがとう。明日も晴れるといいな」
万年Fランク冒険者の日常は、今日も誰にも知られることのない平穏を守りながら、ゆるやかに過ぎていく。




