第319話
翌朝、リルドは窓を叩く静かな雨音で目を覚ました。
灰色の空からは細かな雫が降り注ぎ、街全体をしっとりと濡らしている。
『……ふむ。今日は雨か。湿気がひどいな。我は剣ゆえ、このままでは不覚にも錆びてしまうのではないか?』
腰に立てかけた聖剣ラッファードが、心なしか心細げに念じてきた。リルドはくすぐったそうに笑いながら、棚から柔らかい油布を取り出した。
「何言ってるの、ラッファード。僕がついてるじゃない。ほら、特製の保護布でしっかり巻いてあげるよ。これなら雨粒一つ通さないから」
『うむ……。お主の気遣いには感謝する。これで我が矜持も守られるというものだ』
リルドの手際よい作業で、鈍色の鞘はすっぽりと防水布に包まれた。その様子を、肩に止まった蝙蝠のクロが「キー!」と満足げに鳴いて見守っている。この会話が聞こえるのは、世界でリルドとクロの二人だけだ。
雨の日は薬草採取もしにくい。リルドがギルドの扉をくぐると、掲示板に珍しい貼り紙が出ていた。
『急募:人員不足のため、受付代行を願います』
どうやら風邪が流行っているらしく、窓口がパンクしかけているようだ。リルドは迷わずその紙を剥がし、カウンターの奥へと回った。
「おはよう、受付さん。大変そうだね、今日はお手伝いするよ」
「あ、リルドさん! 助かります! 経験のあるあなたなら安心です、よろしくお願いしますね」
リルドは慣れた手つきで書類を整理し、窓口に座った。数分もしないうちに、びしょ濡れの冒険者たちが次々と戻ってくる。その中には、いつもリルドを「仔兎」扱いして可愛がるゴルドたちの姿もあった。
「よう! リルド! 今日は受付か? 珍しいじゃねぇか。おい、聞いてくれよ、今日の俺たちは凄くてな! 森の奥で巨大な――」
ゴルドが身を乗り出し、自慢話を始めようとしたその時。
リルドは書類をトントンと机で揃え、一点の曇りもない、それでいて底知れない静けさを湛えた笑顔を向けた。
「……なにが凄いの?」
「え……?」
「それより、早く依頼書出しな? ほら、後ろがつかえてるでしょ」
にこり。
その瞬間、ゴルドの背筋に氷の刃で撫でられたような戦慄が走った。怒っているわけではない。だが、逆らってはいけない「何か」が、その柔らかな微笑みの奥に鎮座している。
「あ、ああ……。すまねぇ、これだ」
ゴルドは毒気を抜かれたように依頼書を差し出すと、逃げるように酒場の方へと足早に去っていった。
その後も同じような光景が繰り返された。
「リルド君、聞いてよ! この魔石、最高級でしょ!」
「……そう。で、討伐証明の部位はどこ? 出さないなら後回しにするよ?」
「へへ、リルド、お疲れ。雨宿りに付き合えよ」
「お仕事中。私語は慎んで。……次の方ー」
普段は「万年Fランク」と侮っている連中も、カウンター越しのリルドの有無を言わさぬ「正論の圧」と、時折見せる逃げ場のない微笑みに圧倒され、最後には借りてきた猫のように大人しく手続きを済ませていく。
「ふぅ。これで午前中の分は終わりかな」
リルドが伸びをすると、隣で見ていた本職の受付嬢が頬を引きつらせながら呟いた。
「リルドさん……あなた、受付に向いてるっていうか……ある意味、ギルドマスターより威厳がありますね……」
「え? そんなことないよ。僕はただ、みんなが早くお家に帰れるように急かしてるだけ」
夕方、臨時業務を終えたリルドは、報酬の銅貨を数枚受け取ってギルドを後にした。
雨は上がり、雲の間から黄金色の夕陽が差し込み始めている。
『……リルドよ。お主、やはり無自覚に人を支配する才能があるのではないか? あの荒くれどもが、お主の「にこり」一つで震え上がっておったぞ』
「失礼な。僕はただのFランクだよ。さあ、帰りに晩ごはんの材料を買っていこう。今日は頑張ったから、ちょっといいお肉にしようかな」
濡れた石畳を軽やかに踏み締め、リルドは夕暮れの街へと消えていく。
明日になれば、また「いつもの仔兎」に戻って頭を撫でられるのかもしれない。
けれど、今の彼の足取りは、どの英雄よりも自由で、満ち足りていた。




