第316話
翌朝、リルドはいつもと同じ時間に目を覚ました。
窓の外では、昨日と変わらぬ穏やかな風が吹き、生垣の葉をサワサワと揺らしている。
「おはよう、クロ。……ラッファードも。今日は、静かな朝だね」
『……ふむ。嵐の予兆も、魔力の乱れも皆無。ただの火曜日、といったところか。我も二度寝を楽しませてもらうとしよう』
リルドは軽く身支度を整え、台所で昨夜の残りのパンをスープに浸して食べた。派手なご馳走ではないが、胃の腑に落ちる温かさが心地よい。
ギルドへ向かう道すがらも、特筆すべきことは何も起きなかった。
いつもの角のパン屋の主人が小麦粉の袋を運び、近所の子供が石畳の上で跳ねて遊んでいる。リルドはそんな光景に小さく会釈をしながら、ギルドの重い扉を押し開けた。
ギルドの中も、今日は驚くほど凪いでいた。
ゴルドたちのような騒がしい連中は遠征に出ているのか、あるいは単に二日酔いで寝ているのか。食堂では数人の冒険者が小声で談笑しているだけで、食器の触れ合う音だけが規則正しく響いている。
リルドは掲示板の前に行き、しばらく眺めた。
剥がしたのは、一番隅にあったごく普通の依頼。
『薬草採取:スズラン草の確保』
「おはよう、受付さん。今日はこれに行ってくるね」
「おはようございます、リルドさん。ええ、今日は落ち着いていますね。特に変わった報告も入っていませんし、のんびり採取してきてください」
「うん。行ってきます」
森の入り口から少し入った、日当たりの良い斜面。
リルドはそこで、静かに地面と向き合った。スズラン草の根を傷つけないよう、指先で優しく土を払い、一株ずつ籠に収めていく。
特別な魔獣が現れるわけでも、伝説の秘薬が見つかるわけでもない。
ただ、土の湿り気を感じ、草の匂いを吸い込み、時折クロが羽を休める音を聞く。
『……リルドよ。本当にお主は、何もしない天才だな。世界を揺るがす力がありながら、ただ土をいじって一日を終える。ある意味、最も贅沢な時間の使い方かもしれん』
「(あはは。だって、お花が綺麗なんだもん)」
夕暮れ時、リルドは予定通りの分量を採取してギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。スズラン草、持ってきたよ」
「おかえりなさい、リルドさん。お疲れ様です。……はい、検品も問題ありませんね。こちらが報酬の銅貨です。今日は本当に、何事もなくて平和でしたね」
「うん、そうだね。……じゃあ、また明日」
チャリン、とポケットで鳴る銅貨の音。
リルドは沈みゆく夕陽を背に、ゆっくりとした歩調で家路についた。
最強の力を振るう機会も、誰かに頭を撫で回される受難もない。
ただ、仕事を終えて、静かな夜を迎える。
万年Fランクのリルドの毎日は、何事も起きないという「最高の幸せ」を噛み締めながら、今日も穏やかに更けていく。




