第306話
翌朝、リルドはいつものように柔らかな陽光の中で目を覚ました。
枕元ではクロが羽を休め、ラッファードは朝日を浴びて静かに佇んでいる。
「おはよう、クロ。……うん、今日もいい天気だね」
特別な予感も、騒がしい予兆もない。ただ、窓の外を流れる雲が穏やかで、近所の家の朝食の匂いが微かに漂ってくるような、至って普通の朝だ。
リルドは身支度を整えると、腰にラッファードを差し、肩にクロを乗せてギルドへと向かった。
ギルドの扉を開けると、そこにはいつも通りの喧騒があった。
「おい、昨日の酒代、お前が払う番だろ!」
「うるせぇ、今日は大型の魔獣を狩って一攫千金だ!」
冒険者たちが大声で笑い合い、食器の触れ合う音や、掲示板の前で依頼を奪い合う活気が満ちている。
リルドはその騒ぎの輪には加わらず、いつものように壁際を歩いて掲示板の端へと向かった。
新しい依頼が次々と上から重ねられる中で、一番下の角に、ひっそりと、そして色褪せた一枚の依頼書が残っていた。
「(……これ、ずっとここにあるね)」
リルドが指先で埃を払い、その紙を手に取った。
そこには、震えるような幼い字で、こう綴られていた。
『あのね、赤い花、、すごく綺麗なの…でもどこにあるのか、名前もわからない…けれども探してほしい…』
報酬欄には、小さな木の実が一つ、丁寧に描かれているだけだった。
『……ふむ。名前も場所もわからぬ赤い花か。お主、またそんな「正解」のない探し物をするつもりか?』
「(あはは、なんとなく……この子がその花を見て、どれだけ感動したか伝わってくるからね)」
リルドは、色褪せたその紙を受付へと運んだ。
「おはよう、受付さん。今日はこの『赤い花』を探してくるよ」
受付嬢は、リルドが持ってきた古い依頼書を見て、少し驚いたように目を丸くした。
「おはようございます、リルドさん。……ああ、その依頼。もう何ヶ月も前からそこにあって、誰も見向きもしなかったものです。場所も名前もヒントがなさすぎて、受理する人もいなかったんですけど……。リルドさんなら、見つけてくれそうな気がしますね」
「うん、お散歩がてら、街の周りを見てくるよ」
リルドは街を出ると、風の吹く方向や、土の湿り気を肌で感じながら歩き出した。
特に急ぐ風でもなく、ただ道端に咲く名もなき草花を愛でながら、一歩一歩、確かな足取りで森の入り口へと向かう。
『……リルドよ。赤い花など、この季節ならどこにでも咲いているぞ。お主はどうやって、その「たった一つ」を見極めるのだ?』
「(……きっと、心が一番赤く染まる場所にあると思うんだ)」
リルドは「視野拡大」を使うこともなく、ただ五感を研ぎ澄ませて、森の奥へと続く古い獣道を辿っていった。
特別な魔法も、劇的な展開もない。
ただ、静かな時間が流れ、リルドの足音が枯れ葉を鳴らす音だけが響いている。
夕暮れ時、リルドはギルドに戻ってきた。
その手には、夕陽よりも深く、しかしどこか優しく輝く「一輪の赤い花」が握られていた。
「ただいま、受付さん。……見つかったよ。名前はわからなかったけど、きっとこの花だと思うんだ」
リルドがカウンターにその花を置くと、不思議なことに、騒がしかったギルドの空気が一瞬だけ、ふわりと和らいだような気がした。
「おかえりなさい、リルドさん! ……なんて綺麗な赤。見たこともない花だけど、見ているだけで心が温かくなりますね。……はい、受理のスタンプを押しておきますね」
報酬の銅貨を受け取り、リルドは満足げに微笑んだ。
最強の力で秘宝を探し出す代わりに、名もなき子の記憶にある「綺麗」を形にして届ける。
万年Fランクのリルドの日常は、誰にも気づかれない小さな願いを叶えながら、今日も穏やかに、そして贅沢に更けていく。




