第305話
翌朝、リルドはいつも通りの時間に目を覚ました。
窓の外では、名もなき小鳥が数羽、生垣の枝を揺らしてさえずっている。
「おはよう、クロ。……あ、ラッファードも。今日は風が止まったね」
リルドが伸びをすると、枕元のラッファードが小さく鞘を鳴らした。
『ふむ……。誠に静かな朝だ。魔力の揺らぎも、騒がしい予兆も何もない。たまにはこういう、ただ時が流れるだけの朝も悪くないな』
「そうだね。今日は少し、溜まった洗濯物でも片付けようかな」
「キー」とクロも同意するように、リルドの肩に飛び乗った。
リルドは井戸から水を汲み、庭の隅で黙々と布を洗った。
石鹸の泡が白く弾け、洗い流す水が土に吸い込まれていく。特別な魔法も、奇跡のような効能もない、ただの冷たい水。
洗い終えたシャツを干すと、太陽の熱を含んだ風がふわりと通り抜けた。
身支度を整えてギルドへ向かう道中も、街は至って平穏だった。
「おーい、リルド。今日はいい天気だな」
「こんにちは、八百屋さん。そっちのトマト、美味しそうですね」
そんな他愛もない挨拶を交わしながら、リルドはギルドの扉を潜った。
ギルドの中も、今日は驚くほど落ち着いていた。
例の料理長のスープや水路の噂も、数日経てば「そんなこともあったな」という程度に馴染んでしまい、今は誰も話題にしていない。皆、自分の装備を磨いたり、仲間と小声で打ち合わせをしたりして、それぞれの日常を過ごしている。
リルドは掲示板の前に行き、一番下にある地味な依頼を剥がした。
『街道の側溝に詰まった小石の除去』
「おはよう、受付さん。今日はこれに行ってくるね」
「おはようございます、リルドさん。ええ、地味な仕事ですけど、雨が降る前にやっておけると助かります。気をつけていってらっしゃい」
街道の端にしゃがみ込み、リルドは小さな熊手で側溝に詰まった石や枯れ葉を取り除いていった。
『……リルドよ。本当にただの石拾いだな。魔力も使わず、指先を泥で汚して。お主、その効率の悪さを楽しんでおるだろう?』
「(あはは。手で触ったほうが、石の形がよくわかるからね)」
リルドは時折、形の良い石を見つけると、それを陽の光に透かして眺めた。
どこにでもある、ただの河原の石。
けれど、その表面の滑らかさや、微かな模様の違いを愛でる時間は、リルドにとって何より贅沢なひとときだった。
作業を終える頃には、夕陽が街道を長く照らしていた。
特別な事件も、劇的な出会いも、誰からの賞賛もない。
ただ、通り過ぎる馬車の車輪が、詰まりのなくなった側溝の脇を軽やかに回っていくだけ。
夕暮れ時、リルドはギルドに報告を済ませ、報酬の銅貨を受け取った。
「ただいま。……ふぅ、いい運動になったよ」
「おかえりなさい、リルドさん。お疲れ様でした。はい、いつもの報酬です」
チャリン、とポケットで鳴る銅貨の音。
帰り道、リルドは夕食の材料を少し買い足し、茜色の空を見上げながらゆっくりと家路についた。
最強の力を振るう必要も、誰かの期待に応える必要もない。
ただ、摘んだ薬草を乾かし、拾った石を窓辺に並べ、クロと眠りにつく。
万年Fランクのリルドの毎日は、何事も起きないという「平和」を噛み締めながら、今日も穏やかに、そして贅沢に更けていく。




