第304話
翌朝、リルドは心地よい静寂の中で目を覚ました。窓辺の銀狼の毛のクッションには、昨夜から遊びに来ていたクロが丸まって眠っている。
「おはよう、クロ。……あ、ラッファードも。よく眠れた?」
リルドが声をかけると、枕元の魔剣が鞘を小さく鳴らした。
『ふむ……。お主のこの家は、魔素が極めて安定しておるな。伝説の魔獣の毛を枕にし、最強の魔剣を文鎮代わりに使うとは。相変わらず、お主の無自覚な贅沢には呆れるわ』
「あはは、ただのクッションだよ」
リルドは軽く身支度を整えると、腰にラッファードを差し、肩に乗りたそうに羽を広げたクロを連れて外に出た。今日の空気は少し湿り気を帯びている。雨が降る前の、あの独特な草の匂いだ。
ギルドに到着すると、掲示板の前はいつにも増して殺気立っていた。どうやら、王都付近の街道で凶暴な魔獣の目撃情報が相次いでいるらしい。
「いいか、相手はあの『岩喰い大百足』だぞ! 殻が硬すぎて鉄の剣じゃ刃が立たねぇ!」
「魔導師を呼べ! 爆炎魔法で焼き払うしかない!」
そんな怒号が飛び交う中、リルドは掲示板の端に追いやられた、今にも剥がれ落ちそうな古い紙を見つけた。
「おはよう、受付さん。今日はこれ、やってきてもいいかな?」
「おはようございます、リルドさん。……ええっと、それは……『古い井戸の底に詰まった落ち葉の掃除』ですか? ですが、その井戸はもう何十年も使われていない、街の北にある荒れ地のもので……」
「うん。なんだか、あそこの井戸が『喉が渇いた』って言っている気がして。お散歩がてら見てくるよ」
『……やれやれ。英雄たちが殻の硬い百足に頭を抱えておる間に、お主は古井戸の掃除か。だが、まあ良い。お主の選ぶ道には、常に風の囁きがあるからな』
リルドは街の喧騒を離れ、北の荒れ地へと向かった。
そこは、かつては小さな集落があった場所だが、今はただ枯れ草が風に揺れる寂しい場所だ。その中心に、ひっそりと佇む石造りの古井戸があった。
リルドが井戸を覗き込むと、そこには数十年の歳月で積み重なった落ち葉や土が、分厚い層となって底を塞いでいた。
「よし、今綺麗にしてあげるからね」
リルドは井戸の縁に腰を下ろし、指先から極めて微細な「操作魔力」を放った。本来なら数日がかりの清掃作業だが、リルドが魔力を通すと、井戸の底に溜まった土砂や落ち葉は、まるで意志を持った生き物のようにふわりと浮き上がり、井戸の外へと排出されていった。
その時、地脈の奥深くで「カチリ」と、何かが噛み合う音が響いた。
井戸の底から、澄み切った、青白い光を放つ水がこんこんと湧き出し始めた。それはただの水ではない。地脈の淀みが解消され、純粋な魔力を帯びた「霊水」だ。
「わあ……。綺麗な水。これでやっと、喉が潤ったね」
リルドは持ってきた水筒にその水を汲むと、井戸の縁に一輪の月見草を供え、静かにその場を後にした。
帰り道、街道の端で、先ほどの「岩喰い大百足」との戦いで深手を負い、武器を折られてうなだれる若き冒険者たちの姿を見かけた。
「……これ、飲んでみて。少しは楽になると思うよ」
リルドが差し出したのは、先ほど汲んだ井戸の水だった。若者が一口飲むと、その瞬間に全身の傷が塞がり、失われた魔力が爆発的に回復していく。
「え……!? な、なんだこれ……! 痛みが消えた……! あんた、この水、一体どこで……!」
「あはは、ただの井戸水だよ。……さあ、夕陽が落ちる前に帰りなよ。今夜は美味しいスープが飲めるといいね」
リルドはひらひらと手を振り、茜色に染まる街へと歩き出す。
最強の力で魔獣を討つのではなく、ただ井戸を掃除し、行き倒れた者に水を分かつ。
万年Fランクのリルドの毎日は、誰にも気づかれない「奇跡」を足元に散りばめながら、今日も静かに、そして穏やかに更けていく。




