第302話
翌朝、リルドがギルドの扉を開けると、そこには異様な熱気が立ち込めていた。
いつもは「パンが硬い」だの「依頼が渋い」だの文句を言っている冒険者たちが、揃って食堂のカウンターを凝視している。
「おい……料理長が、笑ったぞ」
「あの『鉄の味覚』を持つ偏屈親父が、水一杯を飲んで涙ぐんでやがる……」
視線の先では、厳格さで知られる巨漢の料理長が、リルドが整えた水路から汲んできた水を一口含み、震える手で出汁の鍋に向き合っていた。
「……これだ。この雑味のない、しかし命の躍動を感じる水。これならば、俺の求めた『至高のスープ』が完成する……!」
「(わぁ……料理長さん、すごく情熱的だ……)」
リルドは目立たないようにその脇をすり抜け、いつもの掲示板の端っこへと向かった。
「おはよう、受付さん。今日はこれにしようかな」
剥がし取った依頼書には、掠れた文字でこう書かれていた。
『古びた「日時計」の影の調整』
「おはようございます、リルドさん。あ、それは街の広場にある古い日時計ですね。最近、どうも時間がズレるって時計職人さんが首を傾げていたんです。でも、あれは台座が歪んでいるのか、それとも……」
「見てくるね。お散歩のついでに」
『ふむ、時の流れを刻む石か。お主の精密な手作業にはお似合いの仕事ではないか』
広場の中央、長い年月街を見守ってきた巨大な石造りの日時計。リルドは「視野拡大」を使い、その構造をじっくりと観察した。
「……あ、やっぱり。台座の下に、小さな木の根っこが入り込んじゃって、ほんの数ミリだけ石が浮いてるんだ」
リルドは周囲に誰もいないことを確認すると、日時計の台座にそっと指先を添えた。
本来なら数トンはある巨石だが、リルドが魔力で「摩擦」をゼロにし、空間の歪みをほんの少しだけ調整すると、石は羽毛のようにふわりと浮き上がった。
その隙に、隙間に入り込んでいた根っこを傷つけないように優しく横へずらし、再び石を地面に戻す。
「よし、これでぴったり。……あとは、目盛りの汚れを落として、と」
リルドが古布で文字盤を磨くと、指先から伝わった魔力が石の内部に眠る「記憶」を呼び起こした。日時計はまるで命を吹き込まれたかのように、太陽の光を正確に捉え、凛とした影を落とした。
その瞬間、街中の時計塔の鐘が、いつもより澄んだ音色で「正午」を告げた。
夕暮れ時、リルドがギルドに戻ると、時計職人の老人が受付で興奮気味に話していた。
「信じられん! 何をしても直らなかった日時計が、完璧に『真の時間』を指している! それどころか、広場全体の空気が研ぎ澄まされたようだ!」
「おかえりなさい、リルドさん。……また、何かしましたね?」
受付さんが悪戯っぽく笑うと、リルドは「ただ、お掃除しただけですよ」と肩をすくめた。
「はい、こちら報酬の銅貨よ。それと……料理長から。今日のスープ、リルドさんには特別に『大盛り』にするって言っていたわ」
「わぁ、嬉しいな。帰ろう、ラッファード。クロ」
報酬の銅貨を鳴らし、リルドは夕焼けに染まる広場を通り抜ける。
正確な時を刻み始めた日時計の影が、彼の足元を優しく見送っていた。
最強の力で時を止める代わりに、街の時間を正しく整え、温かいスープを分かち合う。
万年Fランクのリルドの毎日は、誰にも気づかれない「調和」を紡ぎながら、今日も穏やかに、そしてお腹いっぱいに更けていく。




