第301話
夕食後、リルドは新しく縫ったカーテンを窓辺に吊るした。
夜風に揺れる柔らかな布地が、月光を透かして部屋を淡い藍色に染めている。
「うん、いい感じ。クロ、どうかな?」
「キー!」
『ふむ、実に優雅な夜だな。お主の家は、もはやギルドの騒がしさとは別世界の聖域のようだぞ。……さて、明日は何を拾い、何を磨くのだ?』
ラッファードが期待を込めて鞘を鳴らす。
リルドはふふっと笑い、窓から見える静かな街並みを眺めながら目を閉じた。
翌朝、リルドはいつも通りの時間に目を覚まし、クロに朝の挨拶をしてから家を出た。
ギルドに入ると、掲示板の前で昨日のテントの若者が、何やら年配の冒険者に熱心に語りかけていた。
「違うんです! リルドさんに教わった通りに道具を拭くと、なんだか武器が喜んでいる気がするんですよ!」
「ははは、お前も『リルド教』に入信したか。あいつの丁寧さは、俺たち荒くれ者には真似できんからな」
リルドはそんな微笑ましい会話の横をすり抜け、掲示板の隅に貼られた「今日の一枚」を選び取った。
『裏山の「風通し」の改善、および倒木の撤去』
「おはよう、受付さん。今日は山のお掃除に行ってくるね」
「おはようございます、リルドさん。裏山ですね。最近、風の巡りが悪くて淀んだ空気が溜まっているって、薬師さんが困っていたんです。よろしくお願いしますね」
裏山へ向かう道中、リルドは「視野拡大」で山の呼吸を観察した。
確かに、大きな古い木が倒れ、そこから伸びた蔦が空気の通り道を塞いでしまっている。
「これじゃあ、山の神様も息苦しいよね」
リルドは籠を下ろすと、倒木にそっと手を触れた。
本来なら数人がかりで動かす巨木だが、リルドが重心の「ツボ」を指先で軽く押すと、木はまるで意志を持っているかのように軽々と持ち上がった。
『お主、それを「重石」にでもするつもりか?』
「ううん、あっちの崖の下に。そこなら小さな生き物たちの良いお家になるから」
倒木を移動させ、空気の流れを阻んでいた蔦を優しく解いていく。リルドが最後の一本を外した瞬間、山の上から「ひゅうっ」と心地よい涼風が吹き抜けた。
その風は淀んだ空気を一気に運び去り、山の奥で眠っていた薬草たちが一斉に葉を広げて輝き出す。
「(……あ、いい風)」
リルドが目を細めていると、近くの茂みから、風の精霊に導かれたのか、怪我をした『一角鹿』がふらふらと現れた。
「おや、足に棘が刺さっちゃったんだね。痛かったでしょう」
リルドは優しく鹿の首筋を撫で、「言語理解」でその痛みを汲み取ると、そっと棘を抜き取った。指先から漏れたほんの少しの癒やしの光が、傷を一瞬で塞いでしまう。
鹿は感謝を伝えるようにリルドの頬を舐め、軽やかな足取りで森の奥へと駆けていった。
夕暮れ時、リルドは山の爽やかな空気を纏ってギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。山に良い風が吹くようになったよ」
「おかえりなさい、リルドさん! ええ、街まで清々しい風が届いていますよ。薬師さんも『今日採れた薬草は最高だ!』って大喜びでした。はい、こちら報酬の銅貨よ」
「あはは、それはよかった。……さあ、帰ろう、ラッファード。クロ」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、リルドは茜色の道を歩き出す。
最強の力で嵐を呼ぶ代わりに、山の呼吸を整え、一匹の鹿の傷を癒やす。
万年Fランクの日常は、世界の片隅で静かに「調和」を奏でながら、今日も穏やかに、そして優しく更けていく。




