第292話
翌朝、リルドが庭先で顔を洗っていると、小さな青い鳥がパタパタと飛んできて、生け垣の枝に止まった。
「おはよう。今日もいい天気だね」
リルドが微笑むと、肩にふわりとクロが降り立ち、小鳥と挨拶を交わすように「キー」と短く鳴いた。その穏やかな光景を破るように、腰に下げられたラッファードが意気揚々と声を上げる。
『さあ、行くぞリルド! 今日こそは我が能力を存分に振るえるような、血湧き肉躍る……掃除や草むしりがあるはずだ!』
「あはは、そうだね。行こうか」
ギルドの扉を開けると、先日までの「聖者」や「妖精」といったスピリチュアルな論争は霧散し、冒険者たちは未知の異文化に対する戸惑いと好奇心に包まれていた。
「おい、聞いたか? 王都の方に『ラーメン』とかいうわけわからん食文化が入ってきたらしいぞ」
「ああ。なんでも『麺』っていう細長いやつをスープに入れて、『箸』なる棒切れ二本で掬って(?)食べるらしいんだが……」
「棒で掬う? 指でつまんだ方が早いだろ!」
「(へぇ……ラーメンに、ハシ……。箸ってなんだろう?)」
首を傾げるリルドに、ラッファードが知的好奇心を剥き出しにして尋ねてきた。
『リルドよ、ラーメンとは何だ? 箸とは何だ? 武器の一種か?』
「僕もよく知らない……。箸っていうのは、確か別の言葉で『チョップスティック』って言うらしいけど」
『ふむ……。スティック(杖)で叩き切る(チョップ)のか? なんとも面妖な食作法ではないか』
そんな会話を楽しみながら、リルドが選んだ今日の依頼はこれだった。
『竹林に迷い込んだ犬(?)の救出』
街の外れ、青々と茂る竹林。その奥へ進むと、笹の葉が揺れる向こう側に、不自然にギザギザした形の尻尾が見え隠れしていた。
「(あれかな?)……あう? どうしたの、迷っちゃったの?」
リルドが後ろ姿の犬(?)らしき者に声をかけると、その生き物はゆっくりと振り返った。どこか不思議な模様のある、犬というには少し神秘的な姿をしていた。
「ここに迷い込んだ?」
尋ねるリルドに対し、その生き物は驚くべきことに、人の言葉で答えた。
「え? ここって『ハマウドラ』?」
「ううん。ここは『フィンディル・エルメルダ王国』の『ラマストリー』だよ」
「あー……だいぶ遠くまで来ちゃってたのか。時空の歪みに乗っちゃったかな。まあいいや、自力で帰るね。ありがと」
その不思議な生き物は、光の粒子を散らしながら、竹林の奥へと消えていった。
「うん。じゃあね、気をつけて」
リルドがのんびりと手を振っていると、腰のラッファードがこれまでにないほど激しく震え、絶叫した。
『な、な、なにぃ!? い、今、お主、何と言った!? フィンディル・エルメルダ王国だと!? あの伝説の失われたはずの……いや、エルメルダ王国自体は現存しているのか!!?』
「(当たり前でしょ。僕たちが住んでるこの国の名前なんだから)」
『な……何ということだ……。我が封印されていた間に、歴史はどう書き換わったのだ……それとも我の方が……』
困惑し、ブツブツと哲学的な混乱に陥ったラッファードを宥めながら、リルドはギルドへの帰り道を歩き出した。
夕暮れ時、リルドはギルドに報告を済ませた。
「ただいま、受付さん。迷子のワンちゃん……みたいな子、無事に帰っていったよ。特に怪我もなさそうだった」
「おかえりなさい、リルドさん。まあ、あの子、無事に帰れたのね。よかったわ。はい、こちら報酬の銅貨よ」
報酬をチャリンと鳴らし、リルドは茜色の空を見上げた。
「(エルメルダ王国……そんなに驚くことかなぁ。ラーメンの方が、よっぽど不思議な気がするけど)」
最強の力と、壮大な歴史の謎を腰に下げながら。
万年Fランクのリルドは、今日も誰にも気づかれぬまま、世界の境界線で不思議な出会いを果たし、穏やかな夜を迎える。




