第289話
翌朝、リルドがギルドへ向かうと、食堂からは何とも言えない芳醇な香りが漂っていた。
昨夜、リルドが届けた「ほろほろ茸」がさっそく大鍋で煮込まれているらしい。かつては肉の厚みや種類に血眼になっていた冒険者たちも、今ではこの繊細な季節の香りに、静かに鼻をくすぐらせていた。
「……ふぅ。この茸の出汁、身体の芯まで染み渡るな」
「ああ。派手さはないが、これこそが『日常』の頂点だよ」
彼らの会話を背中で聞きながら、リルドはいつものように掲示板の端っこへと手を伸ばした。
「おはよう、受付さん。今日はこれにするね」
手渡された依頼書には、少し変わった内容が記されていた。
『「忘れられた歌石」の表面清掃、および周辺の雑草取り』
「歌石……。風が吹くと音が鳴る石のことかな?」
「ええ、リルドさん。街の北にある丘にあるのだけれど、今は苔がむして音が鳴らなくなっているみたいなの。もしよければ、綺麗にしてあげて」
『ふむ。音を奏でる石か。風雅な依頼ではないか、リルド。我もその音色、少し興味があるぞ』
丘の上に立つと、そこには高さ一メートルほどの、穴がいくつも開いた不思議な巨石が鎮座していた。しかし、受付さんの言う通り、表面は厚い苔とツタに覆われ、沈黙を守っている。
リルドは籠から小さなブラシと、魔法で少しだけ温めた水を取り出した。
「ごめんね、今綺麗にしてあげるから」
一本一本、丁寧にツタを解き、苔を優しく撫でるように落としていく。リルドの指先から漏れる微かな魔力が、石に溜まった数百年の汚れを浮かび上がらせ、磨き上げていった。
その時、森の奥から群れをはぐれた『ワイルド・ベア』が、リルドの背後に忍び寄った。だが、リルドは振り返りもしない。
「クロ、ちょっと静かにしててね」
リルドは掃除に使っていた「古くなった手ぬぐい」を、肩越しに無造作にパッと振った。
ただの布切れが、リルドの魔力によって鋭い衝撃波を放ち、クマの鼻先を優しく、しかし確実に「パチンッ」と叩いた。
「ガフッ!?」
鼻を痛めたクマは、何が起きたのか分からないまま、リルドから放たれる圧倒的な「静かな威圧感」に恐れをなし、一目散に逃げ去っていった。
掃除が終わり、ちょうど心地よい風が丘を駆け抜けた。
すると、磨き上げられた石の穴を風が通り抜け、まるでフルートを幾重にも重ねたような、澄んだ音色が丘全体に響き渡った。
「わぁ……。こんなに綺麗な音がするんだね」
「キー!」とクロも楽しそうにその周りを飛び回る。
夕暮れ時、リルドは満足げな表情でギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。歌石、とってもいい声で歌うようになったよ」
「おかえりなさい、リルドさん! ええ、街までその音が聞こえてきたわ。みんな『今日はいい日だ』って喜んでいるわよ。はい、こちら報酬の銅貨ね」
「ありがとう。……帰ろう、ラッファード。クロ、また明日もいい音が聞けるといいね」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、リルドは丘から流れてくる遠い音色に耳を傾けながら歩く。
最強の力で石を磨き、街に音楽を届ける。
万年Fランクのリルドの日常は、風の歌と共に、今日も穏やかに更けていく。




