第288話
翌朝、リルドがギルドの扉を開けると、そこにはかつての「食への執着」から解脱し、今度は「物語」という精神の潤いを求める冒険者たちの穏やかな談義が広がっていた。
「……やはり、あのファンタジー小説の騎士道精神は胸に打たれるものがあるな」
「ああ、特に主人公が正体を隠して街の掃除を手伝うシーン。あれこそが、真の強者のあり方だと俺は思うんだ」
「全くだ。俺たちも、剣を振るうだけでなく、物語のような高潔さを持ちたいものだ」
彼らの会話は、もはや荒くれ者のそれではなく、高名な批評家のように落ち着いたトーンだ。リルドはそんな平和な空気を感じながら、受付カウンターへ向かった。
「おはよう、受付さん。……みんな、今日は本の話で盛り上がってるね」
「おはよう、リルドさん。ええ、最近はみんな読書に夢中で、ギルドが図書室みたいになってきているの。……さて、今日の依頼だけど、いつもの場所の定期確認をお願いできるかしら?」
依頼書に記されていたのは、街の静かな一角と、森の入り口の巡回。
『水蓮の様子』および『ウルフの様子』の観察だ。
まずリルドは、街の端にある静かな池を訪れた。そこには、リルドが以前浄化した水路から流れる清らかな水に育まれた、美しい「水蓮」が群生している。
「……うん、蕾も綺麗だね。病気もなさそう」
リルドがそっと水面に指を触れると、微かな魔力の波紋が広がり、水蓮たちが嬉しそうに葉を揺らした。
『ふむ。この水蓮、お主の魔力を吸って、今にも精霊が宿りそうな輝きを放っておるな。特に問題はない、どころか絶好調のようだ』
次に、森の入り口へと足を運ぶ。そこには以前、ドングリや小石で「教育」した「ウルフ」たちの群れの縄張りがあった。
茂みの奥から、群れのリーダーである大型のウルフが姿を現した。かつては凶暴だったその瞳も、今はリルドを見ると、まるで飼い犬のように尻尾を振り、伏せの姿勢をとる。
「みんな元気かな? 悪いことはしてないね?」
ウルフたちは「キーッ」と鳴くクロとも仲良く鼻先を合わせ、平和に森を守る番犬のような顔をしていた。
「うん、みんな良い子だね。ウルフの様子も、特に問題なし」
夕暮れ時、リルドはいつもの穏やかな足取りでギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。報告だよ。水蓮もウルフも、みんなとっても元気で、特に問題はなかったよ」
「おかえりなさい、リルドさん。……ええ、水蓮が咲き誇り、森のウルフが街を影から守っているなんて、この街は本当に物語のような平和に包まれているわね。はい、こちら報酬の銅貨よ」
「ありがとう。……帰ろう、ラッファード。クロ、みんな元気でよかったね」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、リルドは茜色の道を、満足げに歩いていった。
物語のような英雄譚は、彼には必要ない。
花が咲き、獣が眠り、人々が本を語らう。
その「何事もない一日」こそが、リルドが最強の力を振るって守り抜いた、一番の戦果だった。
万年Fランクの日常は、ただ静かに、そして美しく重なっていく。




