第286話
翌朝、リルドがギルドの扉を開けると、そこにはかつてないほどの「静寂」が広がっていた。
かつて肉の部位を巡って怒号が飛び交い、調理の深淵を求めて冒険者たちが涙を流していた食堂。しかし今、彼らはただ穏やかに、皿の上の温かなパンとスープを楽しんでいた。
「……なぁ、結局のところ、腹が減った時に食うメシが一番美味いんだよな」
「ああ。理屈じゃねぇ。こうして仲間と無事に座って食える。それが全てだ」
食への執着が一周回って、彼らは「日常の有り難さ」という真理に辿り着いたようだった。ギルド全体を包む空気が、どこかリルドの持つ雰囲気に近づいている。
「(みんな、なんだか落ち着いたね。……あ、おはよう、受付さん)」
『ふむ。嵐のような美食の探求も、ようやく凪を迎えたか。平穏こそが最大の贅沢だと気づいたのなら、それはそれで喜ばしいことだな』
腰のラッファードが満足げに微動し、肩のクロも「キー」と心地よさそうに鳴いた。
リルドが掲示板で見つけたのは、街外れの農家からのささやかな依頼だった。
『カラス除けの設置、および畑の小石拾い』
「今日は畑仕事のお手伝いだね。天気もいいし、ちょうどいいや」
のどかな田園地帯。リルドは腰を屈め、耕された土の中に混じっている小石を一つ一つ拾い上げていた。農家の老夫婦が、傍らでお茶を淹れながら目を細めている。
「リルドさん、あんたが拾ってくれると、不思議と来年の作物がよく育つ気がするんだよ」
「あはは、ただの石拾いですよ。……あ、クロ。そっちの端っこもお願いね」
クロが羽ばたいてカラスを追い払い、リルドが石を拾う。一見、平和そのものの光景。
だがその時、空の色が不自然に歪んだ。
森の奥から、はぐれ魔獣の『ワイバーン』が低空飛行で畑に突っ込んできたのだ。獲物を探して殺気立つ巨体が、老夫婦の家を目掛けて急降下する。
「危ない……っ!」
リルドは立ち上がる間もなく、今しがた拾い上げたばかりの「泥のついた小石」を、座ったままの姿勢でパチンと弾いた。
指先から放たれたのは、弾丸を遥かに超える衝撃波。
小石はワイバーンの巨大な翼の付け根、その神経が集中する一点を、寸分狂わず打ち抜いた。
「ギャッ……!?」
ワイバーンは悲鳴を上げる暇もなく空中でバランスを崩し、民家を避けるようにして大きく逸れ、そのまま森の向こうへと墜落していった。
「おや、今の風は何だい? 随分と強かったねぇ」
「……きっと、季節の変わり目ですね」
リルドは涼しい顔で立ち上がると、カゴいっぱいの石を抱えて笑った。
夕暮れ時、リルドはギルドに石拾いの完了を報告した。
「ただいま、受付さん。畑は綺麗になったよ」
「おかえりなさい、リルドさん。さっき、森の方でワイバーンの死骸(気絶体)が見つかったって自警団が騒いでいたけれど……あなたはいつも通りね。はい、報酬の銅貨よ」
「ありがとう。……帰ろう、ラッファード。クロ」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、リルドは茜色に染まる畦道を歩く。
ギルドの喧騒も、食の追求も、空を飛ぶ脅威も。
彼の前では、全てが穏やかな「日常」という流れの中に溶けていく。
最強の力を、最高にさりげない「守護」に変えて。
万年Fランクのリルドは、今日も誰かの平和を、誰にも気づかれぬまま支え続ける。




