第281話
翌朝、リルドは少しびくびくしながらギルドの扉を開けた。昨日のあの熱烈な視線や騒ぎが続いていたらどうしよう……そんな不安を抱えていたが、一歩足を踏み入れると、そこには「いつも通り」の光景が広がっていた。
「おい! 見ろよこのビーフの厚みを! 噛むたびに溢れる牛の旨味こそが冒険者の活力だぜ!」
「甘いな! 野山を駆け回ったボア(猪)の、あの力強い脂の甘みを知らねぇのか?」
「いやいや、通ならこのブラーム(巨大鳥)の、締まった肉質と深いコクだろ!」
昨日の「妖精騒動」など露知らず、冒険者たちは今日も肉の部位と種類について、拳を振り上げて議論している。
「(よかった……みんな、食べ物のことになると他は忘れちゃうんだね)」
『……ふむ。食欲という本能は、恋慕という煩悩を上書きしたようだな。リルド、お主の平和は胃袋の番人たちによって守られたぞ』
クロも「キー!」と安心したように鳴き、リルドはホッと胸をなでおろして掲示板へ向かった。
今日選んだのは、これまた平和な依頼。
『ハーブ採取(朝霧の草原)』
「ハーブなら、昨日のシチューの残りにも使えるね。行こう、クロ」
草原に到着すると、風に乗って爽やかな香りが鼻をくすぐった。クロは鼻をひくつかせながら、特に香りの強い**『癒やしのミント』や『黄金のレモングラス』**を見つけ出していく。
リルドが丁寧にハーブを摘んでいると、一羽の蝶がリルドの指先に止まった。
「ふふ、いい香りでしょう? 分けてあげるから、仲良くしようね」
リルドが微かな魔力をハーブに注ぐと、香りはさらに高く立ち昇り、周囲には小さな精霊たちが集まって踊り始めた。
『……お主が草を摘むだけで、そこが聖域のようになるな。さて、この香草をどう料理に活かすか、我はそちらの方が興味あるぞ』
夕暮れ時、リルドは摘みたてのハーブを抱えてギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。最高に香りのいいハーブが取れたよ」
「おかえりなさい、リルドさん! ……まあ、本当にいい香り。ギルドのむさ苦しい肉の匂いが一気に浄化されていきます……。はい、こちら報酬の銅貨です」
「ありがとう。……帰ろう、ラッファード。クロもお疲れ様」
『うむ。野を歩き、香りを束ね、街の空気を清める。……今日のお主は、まさに「草原の調香師」であったな。さあ、今夜はブラームの肉に、このハーブをたっぷり使って香草焼きと洒落込もうか』
「(ふふ、賛成! クロには特別なベリーのサラダを作ってあげるね)」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、体中に染み付いた爽やかな香りと共に、リルドは茜色の道を歩いていった。
万年Fランク冒険者の日常は、騒がしい噂も香りと共に消え去り、今日も穏やかに、そして美味しく更けていく。




