第279話
翌朝、リルドはいつもより念入りに鏡の前で寝癖を直していた。昨日の出来事が尾を引いているのか、どことなく落ち着かない様子だ。
「……ねえ、ラッファード。僕、そんなにおかしいかな?」
『ふむ、お主の自覚のなさはもはや呪い(ギフト)に近いな。まあ、昨日の男が今頃「性別の壁」と「己の心」の間で激しい葛藤を繰り広げていることだけは確かだ』
「キー!」とクロも同意するように、リルドの頬にスリスリと甘えてくる。
ギルドの扉を開けると、そこには昨日以上の熱気が渦巻いていた。
「聞いたか!? 昨日、街の入り口に『森の妖精(男)』が降臨したらしいぞ!」
「ああ、あの屈強な戦士を一瞬で骨抜きにしたっていう……」
「バカ言え! それより今は『ガーリック・ステーキ丼』のガツンとくる旨さを語る時だろ!」
「いや、俺は『ふわとろオムライス』の優しさに包まれたいんだ!」
噂の主であるリルドが、顔を伏せ気味にカウンターへ向かうと、掲示板には一枚の切実な依頼書が。
『「月見草」の蜜の採取、および夜道の街灯整備』
「……夜の仕事だね。これなら人目につかないかな」
日が落ち、静まり返った森。月明かりに照らされて、銀色に光る「月見草」がゆっくりと花開いていく。
「クロ、あっちの木の根元にもあるよ」
「キーッ!」
クロが軽やかに飛び回り、蜜が集まった花を見つけてくれる。リルドは指先から細い魔力の糸を出し、花を傷つけないよう丁寧に蜜を抽出した。
『リルド、背後だ。……いや、魔獣ではないな』
茂みの影から、昨日リルドを押し倒してしまったあの冒険者が、申し訳なさそうに、そしてどこか期待を込めたような目で見守っていた。彼はリルドに近づくと、ボリボリと頭をかきながら小さな包みを差し出した。
「……これ、昨日の。驚かせて悪かった。……これ、『一番人気のハンバーガー』だ。食べてくれ」
「あ……ありがとう。いただきます」
リルドが少し微笑んで受け取ると、冒険者は「やっぱり男なんて信じられねぇ……!」と呟きながら、顔を真っ赤にして脱兎のごとく走り去っていった。
深夜、整備した街灯が温かく照らす道を通り、リルドはギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。月見草の蜜、届けに来たよ。……あ、これ、差し入れでもらったハンバーガー、半分こしませんか?」
「おかえりなさい、リルドさん! 深夜までお疲れ様です。……まあ、あの方からですね。ギルドに『初恋が音を立てて崩れたけど、それはそれで美しい音だった』なんて報告が来ていましたよ。はい、こちら報酬の銅貨です」
「……何それ。……帰ろう、ラッファード。クロ、ハンバーガー食べる?」
『うむ。夜の森を照らし、荒くれ者の心を(物理的に)打ち砕く。……今日のお主は、まさに「月下の誘惑者」であった。さあ、今夜はいただいたバーガーを肴に、夜食と洒落込もうか』
「(ふふ、もう、からかわないでよ)」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、夜の静寂の中に溶けていく花の香りと、温かいバーガーの匂いを感じながら、リルドは銀色の月道を歩いていった。
万年Fランク冒険者の日常は、誰かの心をほんの少し壊しながら、今日も優しく、そして美味しく更けていく。




