第277話
翌朝、リルドは窓から差し込む柔らかな光と、首元をくすぐるクロの羽毛で目を覚ました。
「おはよう、クロ。……あはは、くすぐったいよ」
『おはようリルド。お主、昨夜は絵のモデルをした夢でも見ていたのか? 寝言で「もう少し左ですか?」と言っておったぞ』
ラッファードのからかいに顔を赤らめながら、リルドは身支度を整えて家を出た。
ギルドへ続く道すがら、掲示板の横を通りかかると、早くも昨日の画家の「速報」が貼り出されていた。
「おい、あのアトリエの先生が新作を描き上げたらしいぞ! タイトルは『境界を歩む者』……モデルはうちのギルドの誰かっぽいんだが……」
「誰だよ、そんなミステリアスな奴。俺たちみたいな筋肉ダルマじゃねぇことだけは確かだな!」
噂の主であるリルドが、クロを肩に乗せてひっそりとギルドに入ると、食堂はいつにも増して「美食」と「芸術」の話題で混ざり合っていた。
「いいか、芸術といえばこの『揚げたて厚揚げのネギ味噌のせ』だ! この色味、この配置、もはや絵画だぜ!」
「何を! それならこっちの『春野菜のテリーヌ』の方が色鮮やかで芸術的だろうが!」
そんな賑やかな声を背に、リルドは掲示板の隅っこにある、少し汚れた依頼書を手に取った。
『「嘆きの沼」の浄化、および迷い込んだ子牛の救出』
「……子牛さんが迷い込んじゃったんだ。早く助けに行かなきゃ」
「嘆きの沼」は、その名の通り常に重苦しい霧が立ち込め、足を踏み入れる者を泥沼へと誘う危険な場所だった。
「クロ、上から子牛さんの姿が見えるかな?」
「キーッ!」
クロが旋回しながら超音波を放つと、沼の中央付近にある中州で、怯えて動けなくなっている子牛を発見した。リルドは「水魔法」で足元の泥を固めながら、慎重に距離を詰めていく。
『リルド、足元に気をつけろ。沼の底から負の魔力が湧き出しておる。お主の清らかな魔力で、まずは沼を「中和」するのだ』
「わかった。……優しく、静かに……」
リルドが両手を泥に浸すと、星の粉を散らしたような銀色の輝きが波紋となって広がり、濁った沼水がみるみるうちに透き通った水へと変わっていった。
無事に子牛を抱き上げたリルドは、泥だらけになりながらも岸辺へと戻った。
帰り道、親牛を連れて駆けつけた牧童の少年が、リルドの手を握って何度も頭を下げた。
「ありがとう、冒険者さん! この子はうちの宝物なんだ!」
少年はリルドの頭を「いい子、いい子!」と言わんばかりに元気よく撫で回した。リルドは泥と笑顔にまみれながら、「無事でよかったね」と子牛の鼻先を優しく撫でた。
夕暮れ時、リルドは泥だらけの服でギルドに戻った。
「ただいま、受付さん。子牛さんは無事に牧場に帰ったよ。沼も綺麗にしておいたから」
「おかえりなさい、リルドさん! まあ、服が泥だらけ……。でも、あなたの瞳は浄化された沼のように澄んでいますね。はい、こちら報酬の銅貨です」
「ありがとう。……さあ、帰ってお風呂だね、ラッファード、クロ」
『うむ。泥にまみれて命を救う。……今日のお主は、まさに「慈愛の守護者」であった。さて、今夜は泥を落とした後、牧童の少年がくれたお礼の新鮮なミルクを使って、温かいシチューと……あの『厚揚げ』を再現してみるか?』
「(ふふ、いいアイデアだね。クロもミルク、飲むかな?)」
報酬の銅貨をチャリンと鳴らし、泥の匂いと達成感を纏いながら、リルドは茜色の道を歩いていった。
万年Fランク冒険者の日常は、泥の中に咲く小さな奇跡を拾い上げながら、今日も穏やかに更けていく。




